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第2話「静かな妻」
聖堂を出たあとも、ざわめきはしばらく耳の奥に残っていた。
王宮の廊下はいつもと変わらぬ静けさを保っているのに、石床を踏む自分の足音だけがやけに大きく響く。あの場で交わされた視線や息を呑む気配が、まだ背中に貼りついているようだった。
私室に戻ると、窓が半ば開けられていた。朝の冷たい空気が流れ込み、王都を覆う結界の淡い光が、薄く揺らめきながら室内の壁に映っている。
セドリックはその光を見ていた。
振り返らないまま、穏やかな声で言う。
「怒っているか」
私は外套を椅子に掛け、手袋を外しながら首を横に振った。
「いいえ」
怒りよりも先に、確かめるべきことがある。
卓上の書簡箱に手を置いたまま、私は静かに問いかける。
「離縁の公布は、いつになりますか」
「三日以内に出す。手続きはすべて整えてある」
迷いのない返答だった。
「娘は、私の監護下でよろしいですね」
「ああ。王家の血を引くことに変わりはない」
そこまで考えているのなら、今日の宣言は衝動ではないのだろう。
私はようやく彼を見る。
「私は、不自由でしたか」
問いかけると、彼ははっきりとうなずいた。
「愛のない結びつきは、いずれ歪む。君は政治のために縛られてきた。もう自由になっていい」
その目は真剣だった。
私を傷つけたという自覚はなく、むしろ救ったと信じている。
「今日の宣言は、決まりを越えています」
そう言っても声は荒れない。
感情を混ぜるつもりはなかった。
「越えなければ、変わらない」
即答だった。
「変えたあと、どう保ちますか」
わずかに、彼の眉が寄る。
「愛は続く」
それが彼の答え。
私は窓の外へ視線を向ける。王都はいつもと同じ姿をしている。市場の屋根も、尖塔も、何一つ変わらない。ただ、見えない歯車がひとつ外れたことだけが、私には分かる。
「決まりを軽く扱わないでください」
彼は黙る。
「いずれ、あなた自身が困ります」
責めてはいない。ただ、先に見えている未来を伝えているだけだ。
彼は小さく息を吐いた。
「恐れているのか」
「いいえ。恐れてはいません」
恐れではなく、見えているだけだ。
けれどそれを言葉にする必要はない。
「南へ行きます。海のある土地へ。娘が喜びますから」
その名を出すと、彼の視線が一瞬だけ揺れた。しかしすぐに整えられる。
「君は自由だ」
またその言葉。
私は静かに一礼した。
「自由とは、選んだ結果を引き受けることです」
彼は返事をしない。意味を量りかねているのだろう。
扉を開けると、廊下の高窓から差し込む光の向こうに、結界の淡い輝きが重なって見えた。
今はまだ、何も崩れていない。
けれど、揺らぎは確かに始まっている。
私は振り返らなかった。
王宮の廊下はいつもと変わらぬ静けさを保っているのに、石床を踏む自分の足音だけがやけに大きく響く。あの場で交わされた視線や息を呑む気配が、まだ背中に貼りついているようだった。
私室に戻ると、窓が半ば開けられていた。朝の冷たい空気が流れ込み、王都を覆う結界の淡い光が、薄く揺らめきながら室内の壁に映っている。
セドリックはその光を見ていた。
振り返らないまま、穏やかな声で言う。
「怒っているか」
私は外套を椅子に掛け、手袋を外しながら首を横に振った。
「いいえ」
怒りよりも先に、確かめるべきことがある。
卓上の書簡箱に手を置いたまま、私は静かに問いかける。
「離縁の公布は、いつになりますか」
「三日以内に出す。手続きはすべて整えてある」
迷いのない返答だった。
「娘は、私の監護下でよろしいですね」
「ああ。王家の血を引くことに変わりはない」
そこまで考えているのなら、今日の宣言は衝動ではないのだろう。
私はようやく彼を見る。
「私は、不自由でしたか」
問いかけると、彼ははっきりとうなずいた。
「愛のない結びつきは、いずれ歪む。君は政治のために縛られてきた。もう自由になっていい」
その目は真剣だった。
私を傷つけたという自覚はなく、むしろ救ったと信じている。
「今日の宣言は、決まりを越えています」
そう言っても声は荒れない。
感情を混ぜるつもりはなかった。
「越えなければ、変わらない」
即答だった。
「変えたあと、どう保ちますか」
わずかに、彼の眉が寄る。
「愛は続く」
それが彼の答え。
私は窓の外へ視線を向ける。王都はいつもと同じ姿をしている。市場の屋根も、尖塔も、何一つ変わらない。ただ、見えない歯車がひとつ外れたことだけが、私には分かる。
「決まりを軽く扱わないでください」
彼は黙る。
「いずれ、あなた自身が困ります」
責めてはいない。ただ、先に見えている未来を伝えているだけだ。
彼は小さく息を吐いた。
「恐れているのか」
「いいえ。恐れてはいません」
恐れではなく、見えているだけだ。
けれどそれを言葉にする必要はない。
「南へ行きます。海のある土地へ。娘が喜びますから」
その名を出すと、彼の視線が一瞬だけ揺れた。しかしすぐに整えられる。
「君は自由だ」
またその言葉。
私は静かに一礼した。
「自由とは、選んだ結果を引き受けることです」
彼は返事をしない。意味を量りかねているのだろう。
扉を開けると、廊下の高窓から差し込む光の向こうに、結界の淡い輝きが重なって見えた。
今はまだ、何も崩れていない。
けれど、揺らぎは確かに始まっている。
私は振り返らなかった。
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