真実の愛を見つけたそうなので、私は身を引きます

藤原遊

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第3話 崩れた日常

翌朝、私はいつも通りに起きた。
泣き腫らした目もなければ、乱れた髪もない。
鏡の中の私は、驚くほど平然としていた。

感情がないわけではない。
ただ、感情を誰かに預けるのを、やめただけだ。

私は机に向かい、紙を二枚用意した。
ひとつは婚約解消の書面。
もうひとつは、私の持ち物と手続きの整理。

必要な手順は分かっている。
これまで屋敷の管理を任されてきたから、私が何をしていたかも、どこに何があるかも、全部分かる。
分かっているからこそ――
抜けたときに、何が起こるかも想像できた。

「お嬢さま」

侍女が、控えめに扉を叩いた。

「朝のご支度を」

「今日は結構よ。これを執事に渡して」

私は封筒を差し出した。
侍女は受け取って、少しだけ視線を泳がせた。封筒の宛名を見てしまったのだろう。

「……かしこまりました」

その声に、いつもの明るさがなかった。
屋敷の人間は、私より先に空気を察している。

執事は、封筒を開けた瞬間、顔色を変えた。

「お嬢さま、これは……」

「手順に従ってください。先方にも、正式に届けて」

「……承知いたしました。しかし――」

「私が屋敷を出るのは、急ぎません」

私は淡々と言った。

「ただ、今日から私の仕事は“引き継ぎ”です。これ以上、私の裁量で動かない」

執事は唇を引き結んだ。

「……お嬢さまがいらっしゃらないと、屋敷は」

「回るようにしてください」

私はそこで、微笑んだ。

「私がいなくても回る。それが理想でしょう?」

執事は言葉を失った。
この屋敷が回ってきたのは、私がいたからだ。
それを誰より知っているのは、彼だったはずなのに。

午前中、私は帳簿を整理し、契約書を束ねた。
使用人の配置、支払い、倉庫の在庫。
来週の来客予定、贈答品の手配、馬車の点検。
“当たり前”の仕事が、山のように積み重なっている。

私が黙ってやってきた仕事。
誰も数えたことのない仕事。

昼前、婚約者が私の部屋へ来た。
昨夜の話が、まだ続いていると思っている顔だった。

「本当に、婚約を解消するのか」

「ええ」

私が頷くと、彼は眉をひそめた。

「そんなに簡単に、終わらせられるものなのか?」

簡単?
私は心の中で、その言葉を反芻した。

終わらせるのは簡単ではない。
ただ、終わらせる“覚悟”を持ったのが私で、持っていないのが彼だっただけだ。

「あなたが言ったんでしょう。真実の愛を見つけたと」

「それと、これは別だ。家のこともあるし、体裁もある」

体裁。
最後に残るのは、それか。

「私は体裁のために、ここにいるつもりはありません」

「君は感情的になっている」

私は一瞬、目を瞬いた。
感情的?
感情をぶつけたのは、むしろ彼らだ。

「では質問です。私は、いつ感情的でしたか?」

彼は言葉に詰まった。
私が怒鳴ったことはない。泣き叫んだこともない。
ただ、静かに決めただけだ。

「……君は変わった」

「変わったのではありません」

私は穏やかに言った。

「これまで私が、あなたに都合のいい形で“変えられていただけ”です」

彼の顔が強張る。
初めて、刺さったのだろう。

「妹は、君に感謝していた。君が理解してくれたと」

「ええ」

「なら、なぜ」

なぜ、私は去るのか。
理解しているなら、黙って耐えろ。
彼の問いは、そう聞こえた。

私は机の上の書類を揃えながら答えた。

「理解することと、受け入れることは別です」

「……」

「私はあなた方の幸せを邪魔しません。その代わり、私の人生から降りてください」

婚約者は、しばらく黙り込んだ。
そして、ぽつりと呟く。

「君は、冷たいな」

その言葉が、少しだけ可笑しかった。
冷たいのは誰だろう。
私の時間も努力も、当たり前に差し出させておいて。

「冷たいのではなく、正確なんです」

私はそう言って、引き継ぎ用の帳面を差し出した。

「これ、屋敷の運用です。今日からあなたが見てください」

「……君がやれば早いだろう」

「ええ。でも、もう私の仕事ではありません」

彼は帳面を受け取らず、私を見つめた。
まるで、私が折れて元に戻るのを待っているみたいに。

けれど私は戻らない。
元に戻る“元”が、もう存在しないからだ。

午後、屋敷が目に見えてざわつき始めた。
使用人が小走りになる。
厨房からは焦げた匂いがした。

「塩が足りません!」
「昨日、仕入れを止めたの誰ですか!」
「贈答品の箱がありません!」

私は自分の部屋から、それらの声を聞いていた。
胸が痛まないわけではない。
けれど、私が動けば、すべてはまた“私の仕事”になる。

執事が青い顔で飛び込んできた。

「お嬢さま……来週の来客の件、先方へお返事が――」

「担当は誰?」

「……い、いえ、本来はお嬢さまが」

「今日から担当を決めてください」

私はそれだけ言った。

執事は膝が崩れそうな顔で、何度も頭を下げた。

「申し訳ございません……」

「謝る相手が違います」

私は静かに言った。

「これまでの負担を、当たり前にしてきたのは、私ではありません」

執事は唇を噛みしめ、部屋を出ていった。

夕方、妹が私のもとへ来た。
今度は泣き顔ではない。
どこか苛立ちを隠しきれない顔だった。

「お姉さま……屋敷が、変です。みんな落ち着かなくて」

「そう」

「……お姉さまが、何かしたの?」

私は手を止めて、妹を見た。

「何もしていないわ」

事実だ。
私は破壊していない。
ただ、支えるのをやめただけ。

「でも……お姉さまが指示していたことが、急に……」

「急に、ではないでしょう」

私は穏やかに答えた。

「あなたたちが、私の存在を“背景”にしただけよ」

妹は口を開けて閉じた。
言い返せないのだ。
自分も、そうしてきたから。

「お姉さま、お願い。そんな言い方しないで」

妹の声が震える。
それは後ろめたさではなく、焦りだ。

「私、悪くないのに……」

私は少しだけ笑った。

「悪くないなら、堂々として」

妹は顔を赤くした。

「お姉さまは、ずるい」

ずるい。
それは私が言うべき言葉だ。

「……私はずるくないわ。今までずっと、ずるをしないようにしてきた」

妹は唇を噛み、やがて小さく言った。

「お兄さま――婚約者さまが、困ってる」

「困るのは、あなたでしょう」

私がそう言うと、妹は目を見開いた。

「え……?」

「あなたが望んだのは、彼と結ばれること。なら、彼の困りごとにも向き合って」

妹は、言葉を失った。
都合のいい恋だけを手に入れられると思っていたのだろう。

その夜、婚約者が再び私の部屋へ来た。
今度は、怒りを含んだ声だった。

「君は……何をしている?」

「何も」

「屋敷が回らない。来客の返事も、仕入れも、全部滞っている」

「回るように指示すればいいでしょう」

彼は机に手をついた。

「君なら分かるだろう。君がやれば済む話だ」

私は、ゆっくりと首を横に振った。

「それは、“私がやるべき”という話ではありません」

「じゃあ誰がやるんだ!」

彼の声が大きくなった。
ようやく感情が出た。
自分が困ったときだけ。

私は静かに答えた。

「あなたが選んだ人が」

彼の目が揺れた。
選んだ人――妹。
恋は選んだ。
でも責任は選んでいない。

「……妹は、慣れていない」

「では、慣れてください」

私の声は柔らかいままだった。

「あなた方の真実の愛が本物なら、困難もふたりで越えられるでしょう?」

婚約者は、唇をわななかせた。
言い返せないのだ。
自分が使った言葉に、縛られている。

「君は、意地悪だ」

「意地悪ではありません」

私は椅子から立ち上がり、引き出しから紙束を取り出した。

「これが引き継ぎです。屋敷の運用も、贈答の手配も、来客の返事も、すべて書いてあります」

紙束を差し出す。
彼はそれを見て、初めて怯えたような顔をした。

「……ここまで、君が?」

「そうです」

私は淡々と答えた。

「あなたが見てこなかっただけ」

沈黙が落ちる。

彼は、私から紙束を受け取った。
その指が、わずかに震えていた。

「君は、どこまで本気なんだ」

「最初から本気です」

私の返答に、彼は言葉を失った。

「私が身を引くと言ったのは、あなた方を許したからではありません」

私は一度息を吸い、静かに続けた。

「私の人生を、私に返しただけです」
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