婚約破棄された令嬢、気づけば宰相副官の最愛でした

藤原遊

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第一章 婚約破棄と新たな決意

3

新興侯爵家の館は、宮廷から遠く離れた静かな一角に建っていた。
古い石造りの屋敷だが、格式ある名門の館と比べれば規模も華やかさも劣る。
廊下の壁に飾られたのは、祖父が戦場で授かった勲章や、父が商いで手に入れた小さな美術品。
それらは家の誇りを象徴していたが、今日ばかりはどれも色褪せて見えた。

セラフィーナは自室に戻ると、衣装のままベッドの縁に腰を下ろした。
鏡に映る自分の姿は、昼間まで宮廷で嘲笑を浴びた“哀れな令嬢”そのものだった。
結い上げた髪にはまだ宝石の髪飾りが光っている。
水色のドレスの裾は乱れ、裾を握る手は冷たく震えていた。

胸に重く残っているのは、あの一言。

「この婚約は、なかったことにしていただきたい」

ラファエル王子の声が耳に蘇る。
その穏やかな笑顔に、ほんの少しでも温情があればよかった。
だが彼は冷徹に「国益」を口にし、自分を駒のように切り捨てた。

同時に耳にこびりつくのは、廷臣たちの囁きと嘲笑。
「新興の娘が相応しいはずがない」
「血統の浅さが露見したのだ」
あの時、床に吸い込まれそうなほど恥辱に焼かれた感覚が、まだ体を締めつけていた。

セラフィーナは顔を両手で覆った。
堰を切ったように涙が溢れ、頬を伝って次々と零れ落ちる。
肩が震え、嗚咽が洩れる。
袖を濡らす感触が、余計に惨めさを突きつけた。

悔しい。
惨めだ。
なぜ自分が。

努力してきたはずだった。
日々、外国語を学び、書物を読み漁り、宮廷の礼儀作法も磨いた。
幼いころから婚約者として恥じぬよう、どれほど身を律してきただろう。
けれど積み上げたものは、一瞬のうちに踏みにじられた。

涙で視界が滲み、蝋燭の炎さえ霞んで見えた。
それでも、やがて嗚咽は静まり、涙は尽きた。
静けさが戻り、部屋には小さな炎の揺らめきだけが残った。

セラフィーナは重たい体を起こし、机の方へ歩み寄った。
そこには婚約の記念として贈られた宝飾品が整然と並んでいる。
翡翠の首飾り、金細工の指輪、王家の紋章が入った宝石箱。
かつて未来を象徴していたそれらは、今はただの重荷にしか見えなかった。

一つひとつ布に包み、引き出しの奥へと仕舞っていく。
最後に残った髪飾りを外し、机に置いた時、ようやく胸の奥で何かが断ち切れた気がした。

代わりに取り出したのは、読み込んできた外国語の文献や、書きかけの翻訳の覚書だった。
机の上に並べられた羊皮紙に、灯火の光が淡く反射する。
ページを開き、文字を指でなぞる。
震えていた手が、次第に静かに落ち着いていく。

「結婚に頼らずとも生きていける」

自分に向けて言葉を放つ。
それは弱さを切り離し、新しい自分を呼び起こす誓いだった。

「私は私の力で未来を切り拓く」

声は小さくとも、確かな力があった。
涙で濡れた瞳に、今は光が宿っている。
その光は炎のように揺らぎながらも、決して消えることはなかった。

この夜、セラフィーナは過去の令嬢としての自分を葬り、
未来を掴むために立ち上がる、ただひとりの人間となった。
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