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死神と運命の女
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自身の幼い頃の記憶がとても曖昧である自覚はあった。
怖い思い出が多いこともなんとなく覚えていた。
だからきっと、頭が勝手に記憶に蓋をしているのだろうと思い込んでいた。
でもそれは間違いだったのだ。
生まれた時から、マリアには『彼ら』が見えていた。
常に彼女の周りには有象無象の影があった。彼らの発する言葉を幼い彼女はまだ理解できなかったが、彼らはずっと何かを訴えていた。
夜眠るときはそれが顕著で、恐怖心で眠れないことがままあった。
「また眠れないのかい? 大丈夫、一緒にいるよ」
「そうだ、ホットミルクを入れましょう。あなたの大好きなチョコチップクッキーも出すから、泣かないでマリア」
毎晩のようにうなされ泣きじゃくる彼女に、それでも両親は優しかった。
「マリアが良い子にしていさえすれば、きっと神様が守って下さるわ」
信心深い母親は、マリアを抱きしめていつもそう繰り返していた。
だからマリアは毎日お祈りを欠かさなかった。けれど彼らは毎晩マリアの元にやってくる。
幼いながらマリアは少し諦観しはじめていた。
どんなに神様に祈っても、無駄なのではないだろうかと。
そんな折、マリアの両親が不慮の事故で亡くなった。
「お前の両親が死んだのは、お前のせいだよ」
いつも不機嫌な伯母は煙草をふかしながら口癖のようにそう繰り返していた。
言われずともそんなことは分かっていた。
マリアは良い子になれなかった。
母親の言うことを信じられなかった悪い子だ。
だからふたりとも、死んでしまったのだ。
とても悲しかった。
けれど声を出して泣くと「うるさい」と怒鳴られるので、マリアは毎夜、声を殺して泣いた。
小さな窓の外に見えるお月さまだけがマリアの味方だった。
伯母の家に引き取られたあとも、マリアの周囲で不可解なことが起こることに変わりはなかった。
ポルターガイスト現象などは日常茶飯事だった。
叔母の夫はひときわ臆病な男で、マリアを引き取ってからというもの、日に日にヒステリックになっていくのがよく分かった。
「もうお前出てけよ! 気味が悪いんだよ!」
ある夜突然、彼女は身一つで知らない畦道に置いていかれた。
月明かりもない曇天の夜で、お月さまにも見放された気分だった。
その日、食事も満足に与えられていなかった彼女はすぐに空腹で動けなくなった。
声も出せず涙をこぼしうずくまる彼女に、そっと、チョコチップクッキーを差し出した人物がひとり。
「泣かないで」
優しい声の人だった。
マリアは涙で顔を濡らしながら、クッキーを貪った。母親が作ってくれたチョコチップクッキーはあんなに甘かったのに、そのクッキーはとてもしょっぱかった。
「美味しい?」
首を振ることも、頷くこともできず、マリアはただおずおずとその人物の顔を見上げた。
「……あなたはだれ?」
マリアの問いに微笑み返したのは、男性か女性かわからない、中性的な顔立ちの綺麗な人物だった。
特徴的だったのは、その赤い髪。優しいまなざしをその人はマリアに向けた。
「私はずっと君を見守ってきた君の影。ようやくこうしてお話が出来るね、運命の子」
* * *
「……目覚めたか?」
目を開けると、そこには神妙な顔つきをしたレティシアがいた。
マリアが上体を起こそうとすると、「まだ寝ておけ」と彼女が押しとどめた。
見慣れた自室の天井だった。窓の外はいまだ真っ暗だったが、時計が見えない。
「……私、どのくらい寝ていたんですか」
「まる一日だ」
レティシアの言葉にマリアは目を丸くする。
「お前が死んだように寝ていたから子犬が始終足元でウロウロして鬱陶しかったわ。急に倒れたが大丈夫なのか」
「……すみません、大丈夫です。貴女こそ、腕は」
「骨ぐらいならすぐ治る」
彼女はすんなりと腕を上げた。アリシアに折られた腕は確かにすでに元通りだった。
「アリシアは」
「いつの間にかいなくなっていた。あの様子ではもう悪さをする気力もあるまい」
レティシアはそう言いながら腕を曲げたり伸ばしたりした。
「すぐ治るとはいえあまり損傷は受けたくないな。治癒こそすれ、内臓に負担がかかる」
ロアの身体に、という意味であることを、マリアはすぐに理解できた。以前ライアに同じことを聞かされたからだ。
「貴女はロアのこともちゃんと案じてくれているのですね」
マリアの言葉に、レティシアはきょとんとした後、当然だ、と静かに笑った。
「クロワの女は皆強かだったが、ロアに限っては昔からジメジメと後ろ向きだし依存性は高いしへなちょこで弱虫ときた。寝坊助でぐうたらでせっかくの親譲りの美貌が本当に勿体ないとずっと意識の底で思っていたよ」
あまりのけちょんけちょんな言われぶりにマリアは思わずロアを擁護しようとしたが、レティシアは笑って続けた。
「だがまあ、不出来な子ほど可愛いとはよく言ったもの。以前に比べれば随分としゃんとした、良い仕事もした。これが家を捨てると言ったこと、寂しさこそあれ恨みはせぬ。よほどお前が大事なのであろう」
……だが、と彼女は表情を曇らせた。
「死神が言ったことが事実であれば、私はお前たちを祝福できぬ。この身のこの呪いは死神の死と紐づいている。奴が死なない限り私も死ねず、ロアはずっと悪魔のままだからだ」
どうなのだ、と。レティシアの瞳が、マリアを真っ直ぐ見つめる。
今度はマリアが静かに微笑む番だった。
「真実、でしょう」
「そうか」
レティシアは目を閉じ俯いた。
長い沈黙の後、彼女は再び瞼を開く。
「……私は再び沈み、ロアを連れて戻ってくる。あやつに真実を告げてやれ」
「マダム、それは」
マリアは思わず言い淀んだ。ロアの中にほぼ溶解していたレティシアにとって、意識が表に出てくることは奇跡だったはずだ。
だから正直、彼女が表に出た以上、自発的にロアに身体を譲ることは絶対にないと思っていた。
「心までは鬼に成らぬ、それが私の矜持だ。折れかけた私を鼓舞してくれたお前に対する礼でもある」
レティシアはそう言って、優しくマリアの頭を撫でた。
――すまないな、と。レティシアは最後にそう告げ目を閉じた。
「…………、」
マリアはじっと、ロアの瞳が開くのを待った。
怖い思い出が多いこともなんとなく覚えていた。
だからきっと、頭が勝手に記憶に蓋をしているのだろうと思い込んでいた。
でもそれは間違いだったのだ。
生まれた時から、マリアには『彼ら』が見えていた。
常に彼女の周りには有象無象の影があった。彼らの発する言葉を幼い彼女はまだ理解できなかったが、彼らはずっと何かを訴えていた。
夜眠るときはそれが顕著で、恐怖心で眠れないことがままあった。
「また眠れないのかい? 大丈夫、一緒にいるよ」
「そうだ、ホットミルクを入れましょう。あなたの大好きなチョコチップクッキーも出すから、泣かないでマリア」
毎晩のようにうなされ泣きじゃくる彼女に、それでも両親は優しかった。
「マリアが良い子にしていさえすれば、きっと神様が守って下さるわ」
信心深い母親は、マリアを抱きしめていつもそう繰り返していた。
だからマリアは毎日お祈りを欠かさなかった。けれど彼らは毎晩マリアの元にやってくる。
幼いながらマリアは少し諦観しはじめていた。
どんなに神様に祈っても、無駄なのではないだろうかと。
そんな折、マリアの両親が不慮の事故で亡くなった。
「お前の両親が死んだのは、お前のせいだよ」
いつも不機嫌な伯母は煙草をふかしながら口癖のようにそう繰り返していた。
言われずともそんなことは分かっていた。
マリアは良い子になれなかった。
母親の言うことを信じられなかった悪い子だ。
だからふたりとも、死んでしまったのだ。
とても悲しかった。
けれど声を出して泣くと「うるさい」と怒鳴られるので、マリアは毎夜、声を殺して泣いた。
小さな窓の外に見えるお月さまだけがマリアの味方だった。
伯母の家に引き取られたあとも、マリアの周囲で不可解なことが起こることに変わりはなかった。
ポルターガイスト現象などは日常茶飯事だった。
叔母の夫はひときわ臆病な男で、マリアを引き取ってからというもの、日に日にヒステリックになっていくのがよく分かった。
「もうお前出てけよ! 気味が悪いんだよ!」
ある夜突然、彼女は身一つで知らない畦道に置いていかれた。
月明かりもない曇天の夜で、お月さまにも見放された気分だった。
その日、食事も満足に与えられていなかった彼女はすぐに空腹で動けなくなった。
声も出せず涙をこぼしうずくまる彼女に、そっと、チョコチップクッキーを差し出した人物がひとり。
「泣かないで」
優しい声の人だった。
マリアは涙で顔を濡らしながら、クッキーを貪った。母親が作ってくれたチョコチップクッキーはあんなに甘かったのに、そのクッキーはとてもしょっぱかった。
「美味しい?」
首を振ることも、頷くこともできず、マリアはただおずおずとその人物の顔を見上げた。
「……あなたはだれ?」
マリアの問いに微笑み返したのは、男性か女性かわからない、中性的な顔立ちの綺麗な人物だった。
特徴的だったのは、その赤い髪。優しいまなざしをその人はマリアに向けた。
「私はずっと君を見守ってきた君の影。ようやくこうしてお話が出来るね、運命の子」
* * *
「……目覚めたか?」
目を開けると、そこには神妙な顔つきをしたレティシアがいた。
マリアが上体を起こそうとすると、「まだ寝ておけ」と彼女が押しとどめた。
見慣れた自室の天井だった。窓の外はいまだ真っ暗だったが、時計が見えない。
「……私、どのくらい寝ていたんですか」
「まる一日だ」
レティシアの言葉にマリアは目を丸くする。
「お前が死んだように寝ていたから子犬が始終足元でウロウロして鬱陶しかったわ。急に倒れたが大丈夫なのか」
「……すみません、大丈夫です。貴女こそ、腕は」
「骨ぐらいならすぐ治る」
彼女はすんなりと腕を上げた。アリシアに折られた腕は確かにすでに元通りだった。
「アリシアは」
「いつの間にかいなくなっていた。あの様子ではもう悪さをする気力もあるまい」
レティシアはそう言いながら腕を曲げたり伸ばしたりした。
「すぐ治るとはいえあまり損傷は受けたくないな。治癒こそすれ、内臓に負担がかかる」
ロアの身体に、という意味であることを、マリアはすぐに理解できた。以前ライアに同じことを聞かされたからだ。
「貴女はロアのこともちゃんと案じてくれているのですね」
マリアの言葉に、レティシアはきょとんとした後、当然だ、と静かに笑った。
「クロワの女は皆強かだったが、ロアに限っては昔からジメジメと後ろ向きだし依存性は高いしへなちょこで弱虫ときた。寝坊助でぐうたらでせっかくの親譲りの美貌が本当に勿体ないとずっと意識の底で思っていたよ」
あまりのけちょんけちょんな言われぶりにマリアは思わずロアを擁護しようとしたが、レティシアは笑って続けた。
「だがまあ、不出来な子ほど可愛いとはよく言ったもの。以前に比べれば随分としゃんとした、良い仕事もした。これが家を捨てると言ったこと、寂しさこそあれ恨みはせぬ。よほどお前が大事なのであろう」
……だが、と彼女は表情を曇らせた。
「死神が言ったことが事実であれば、私はお前たちを祝福できぬ。この身のこの呪いは死神の死と紐づいている。奴が死なない限り私も死ねず、ロアはずっと悪魔のままだからだ」
どうなのだ、と。レティシアの瞳が、マリアを真っ直ぐ見つめる。
今度はマリアが静かに微笑む番だった。
「真実、でしょう」
「そうか」
レティシアは目を閉じ俯いた。
長い沈黙の後、彼女は再び瞼を開く。
「……私は再び沈み、ロアを連れて戻ってくる。あやつに真実を告げてやれ」
「マダム、それは」
マリアは思わず言い淀んだ。ロアの中にほぼ溶解していたレティシアにとって、意識が表に出てくることは奇跡だったはずだ。
だから正直、彼女が表に出た以上、自発的にロアに身体を譲ることは絶対にないと思っていた。
「心までは鬼に成らぬ、それが私の矜持だ。折れかけた私を鼓舞してくれたお前に対する礼でもある」
レティシアはそう言って、優しくマリアの頭を撫でた。
――すまないな、と。レティシアは最後にそう告げ目を閉じた。
「…………、」
マリアはじっと、ロアの瞳が開くのを待った。
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