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死神と運命の女
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彼がたどり着いたのは、静かな場所だった。
夜のような空の色に、極彩色の炎――死者の魂が舞っている。
それ以外は何もない。
建造物も、人の形をしたものも、動物の形をしたものも、何もない。
音すら何も聞こえない場所だ。
「……これは」
死神は自らの手を見る。自ら造った身体は朽ちず、そのままの形を保ってしまっている。
意識すらも、地上にいた頃のままだ。
冥界に至れば、神すら死ねるのだと思っていた。
身体も、意識も消滅して、すべて無くなるのだと。
あまりの絶望に、彼は慟哭した。
そして、辺りを見渡す。
「……彼女、は?」
冥界の母。運命の人。
この冥界への扉を開いた張本人はどこへ?
ひとりなど耐えられない。こんな場所で永遠にひとりなど。
「いやだ、私は、」
そうだ、もう一度分身を作ればいい。寂しければ分身を。
彼はそう思い至って再度ファントムを形成しようと試みる。
しかし。
「……なぜ、」
ファントムは形成されなかった。
絶望する死神の前に、薄紅色の炎が現れる。
それは、言葉は発しない。
しかし彼には分かった。
その魂は、『おいたわしい』と、彼を嗤っている。
「……消えろ、君の役目はもう済んだと言っただろう」
彼がそう言うと、薄紅色の炎は仕返しと言わんばかりに彼の額に触れた。
「! やめろ、」
神に人生などあるはずがない。
けれど彼は人間として生きようとした時期があった。
その時の記憶を、『人生劇場』は再生した。
彼はただの観測機。地上を去った神々が、遠くから人間の営みを垣間見るためだけに置いた、ただの玩具だ。
長い時間、彼は人間を見てきた。愚かしい行いも、正しい行いも。
いつの間にか、彼の中に興味というものが生まれ、彼はもっと人間を間近で観たいと思うようになった。
彼は見よう見まねで人間の少年の姿をとった。
死体から奪った襤褸を着ていたので、彼に喋りかけてくる人間はいなかったが、生活の何もかもがそのときは新鮮だった。
そんなある日。
「お前は孤児か?」
馬車を止め、彼に初めて声をかけてくれた人がいた。
亜麻色の髪の、黒いドレスが良く似合う、強い瞳が美しい人。
ミズ・レティシア・クロワだった。
彼女は元来から裕福な家の出だったが、戦争で疲弊した町々に慈善奉仕を行い、その行いを認められて爵位を得た新しい時代の輝かしい女性だった。
彼女は夫の反対を押し切り、彼を養子に迎え入れた。
「孤児を養子にしたなどと知れたら笑いものだ」と言った夫に対し、彼女は「阿呆め」と返した。「私達が率先してそれをやり、これを常識にするのだ。民草はこの行いを批判などせぬ」と。
「ジュリアン」
彼女は彼にそう名前をつけた。
「お前は賢そうな顔をしている。きっと立派な男になって、私の支えとなっておくれ」
名前を与えられたことが嬉しくて、誰かに期待されたことが嬉しくて、彼は本来の目的も忘れ、良い息子であろうと彼女に尽くした。
レティシアは彼にときに厳しく、けれど常に優しかった。
彼女の月の光のようなまなざしが一身に注がれていることがとても幸福だった。
けれど。
「ジュリアン、喜べ! お前に弟か妹が出来たんだ」
その日から、彼女のまなざしは彼だけのものでなくなった。
大きなお腹に注がれるその優しい視線は、その優しい手は。
今まで彼だけが享受できていたのに。
悲しかった。ただ悲しかった。
弟、アドルフが生まれてからはより顕著だった。
レティシアは乳母にすべてを任せる人ではなかった。
彼女は常に幼いアドルフを抱いていた。とても幸福そうな顔で。母親の顔で。
彼女の両手はアドルフを抱くだけのものになった。
あの日。彼はレティシアに従って買い物に随行した。
出掛けるときは常にレティシアの横を歩いていた彼は、この日だけは彼女の後ろを歩いていた。
「……ママン。貴女は今、幸せですか」
「どうしたジュリアン。急に」
幼子を両手に抱えたレティシアは、不可解気に振り返った。
「幸せだよ。お前はいい子だし、この子は可愛い。アドルフが生まれてから夫も少し角が取れて丸くなった」
お前のお陰だな、とレティシアは幼いアドルフに頬ずりをした。
「……僕は」
言いかけて、彼は自身が何を言いたかったのか、わからなくなった。
故障していると、このときようやく自覚した。
彼はもう、とっくに壊れてしまっていたのだ。
ぱらぱらと、空が泣き出す。
「ジュリアン、雨が降って来た。はやく行こう、濡れてしまう」
レティシアは暗い空を仰いだ。
「アドルフが風邪を引いたら大変だ」
「ママン」
霧雨の中、彼は彼女と、その子に呪いをかける。
「幸福な貴女に呪いを差し上げます、ママン」
「……!」
身体中に走った得も知れぬ不快感にレティシアは片膝をついた。
アドルフは泣き喚く。
「……なにを、した?」
亜麻色の髪は赤く染まり、血の気はすっと失せていく。
自らの身体が変異していく様に、レティシアは震えた。
「私とこの子に何をした! ジュリアン!」
彼女の月色の瞳が赤く染まる。
ようやく見てくれた。
壊れた彼はそう安堵した。
しかし同時に、ぽっかりと胸に穴が空いたのも事実だ。
「……ママン、ママン……」
冥界の隅で彼は赤子のように泣く。
彼の絶望は大きな怨念となり、肥大した。
* * *
うす目を開けると、瓦礫の山が目に入った。
身体を起こそうとすると、誰かの腕が背中から力なく滑り落ちる。
「……、」
声も出なかった。
「……ぁ、ロア、」
傷だらけ、埃だらけのその顔に触れると、とても冷たい。
「……ロア、ロア、ああ、」
ゆすったところで彼女はぴくりとも動かない。
歯を食いしばっても嗚咽が止まらない。
「ごめ、んなさい、ごめんなさい」
彼女の身体に縋りつき、マリアは啼泣する。
「貴女はたくさんくれたのに、私、ちゃんと言えなくて、」
大好きという言葉を、笑顔を、彼女はこれまで、マリアにたくさんくれた。
それなのに、素直になれなくて、意地ばかり張って、ついぞ、それらしい言葉をマリアは返すことが出来なかった。
『だってマリアは答えてくれなかったじゃないか!』
こんなことになるのなら。
あの夜の、彼女の告白は。
宝物としてしまうんじゃなくて、ちゃんと答えるべきだった。
『君を、愛している』
ぽたぽたと涙がこぼれる。
「愛しています、愛しています、ロア、私も貴女を愛しています、
っだから、だからお願い、死なないで……!」
身体を丸めてマリアは泣きじゃくった。
すると。
鼓動が跳ね返る音がした。
「…………、?」
薄く、ロアの瞳が開く。
マリアはその様を、瞬きも忘れて見入った。
そんなマリアの、涙でぐしゃぐしゃに濡れた頬を、ロアの手がなぞる。
「…………ねえ、マリア、もう一回言って?」
いつもの彼女の、優しくて穏やかな、甘えるような声。
もう一度、マリアは大きく泣き出した。
ロアは慌てて身体を起こす。
「待って、そんなに泣かないで、まだ、」
見計らったかのように、城の天井から黒い何かが迫って来た。
ロアはマリアを抱えて隅に跳ぶ。
降って来たのは、黒い靄を纏う怨念の塊だった。
「……あれは」
「死神は冥界でも死ぬことが出来なかったのだ」
「!」
マリアが顔を上げると、ロアはいつの間にかレティシアと入れ替わっていた。
レティシアはマリアを置いて前に出る。
「マダム! 危険です!」
「あれが死ぬには私が必要なのだ」
彼女はそう言って怨念の前に出た。
『――ママン、ママン、ボクハ、イヤダ、ヒトリニナリタクナイ、』
怨念は咽び泣きながらそう語った。
『セッカク、アタタカサヲシッタノニ、ダレモボクヲ、アイシテクレナイ。ボクハ、ボクハ、アナタノコトガダイスキダッタノニ、アナタハボクヲミテクレナクナッタ! ママンナンテキライダ、アドルフモキライダ、ボクハ、』
「馬鹿者!」
レティシアは怨念を思い切りはたいた。
怨念自身も、傍観していたマリアも、驚いて何も言えなくなった。
レティシアはきゅっと唇を結び、それから一筋涙をこぼし、微笑んだ。
「……あの時、こうやってお前を叱ってやればよかったな、ジュリアン。そうすればお前も謝れたのに」
『……?』
レティシアは両手を広げた。
「アドルフが生まれても、私はずっと、お前を愛していたよ。お前も私のことを愛してくれていたんだな」
黒い靄は薄れ、そこに残ったのは赤毛の幼い少年だった。
『僕は、貴女のことが大好きだった……! あの時、言えなくてごめんなさい、ママン。僕は貴女にとてもひどいことをした……!』
しゃくりあげる彼を、レティシアは抱擁する。
そしてその頭を優しく撫でた。
「……もういい、お互い様だ」
レティシアは目を閉じ、「長かったな」とつぶやいた。そして言う。
「隠れておるのだろう、魔界の番犬。ようやくお前の出番だ」
すると、瓦礫の影からカメリアが現れた。
「カメリア?」
「そやつは魔界の扉を守る門番だ。魔界の秩序を保つため、魔として相応しくない者からその因子をそぎ落とす力がある。あの銀髪の女が私に教えてくれた」
マリアは目を丸くしてカメリアを見る。カメリアはばつが悪そうに頭をかいた。
「記憶喪失っていうのは嘘じゃなかったんデスよ? なんか、運命的なものが働いたっていうか、この島に降り立った瞬間思い出したっていいますか……」
「説明はいい。ロアの身体から私を引き離せ。ジュリアンの魂は私が冥界に連れて行く、これで世界の均衡が保たれるのだ、問題なかろう」
レティシアの言葉に、カメリアは少しだけしぶった。
「……ワタシ、それをやるとまた眠くなったり記憶喪失とかになるおまけ付きなので進んではやりたくないんデスよね……」
するとマリアがカメリアのもとに両膝をついた。
「……ごめんなさい、カメリア。無理なお願いをしているのは承知の上ですが、どうか」
カメリアは一旦考えるように俯いてから、赤いマフラーに頬をこすりつけた。
「マリアしゃんの頼みだから。お名前をくれたお礼と、このマフラーのお礼デスよ?」
次に目覚めた時、またカメリアと呼んでくださいと、彼女は言った。
カメリアがロアの、ひいてはレティシアの悪魔としての資格を剥奪する。
ロアの身体から光が抜け、レティシアの魂がジュリアンのそれを連れだって空に昇っていく。
マリアは気を失ったロアの身体を抱きかかえ、再び冥界の扉を開いた。
夢の中だろうか。
いつか見た白い世界に、ロアは横たわっていた。
「ロア」
いつの間にか、そこに亜麻色の髪の女性が立っていて、ロアは急いで姿勢を正した。
「メメ・レティシア。その、ごめんなさい」
開口一番に頭を下げ謝罪したロアに、レティシアは首を傾げた。
「なぜお前が謝る?」
「貴女が築いた名誉ある地位を私は捨ててしまうから」
すると、レティシアはあっけらかんと笑った。
「そんなことでみっともなく謝るな。私が望んだのはそんなものではない」
そして、ロアの頭を抱き寄せる。
「お前が生きていればそれでよい。お前が幸福であればそれでよい。お前の母も、お前の父も、それだけを望んだのだ」
真っ直ぐなその言葉に、ロアは思わず涙した。
随分以前。マリアが屋敷に来て間もない頃の言葉を思い出す。
『素敵なお名前ですね。ロア、は異国の言葉で「永遠」という意味なんですよ。貴女の御両親はきっと、貴女の道が久しく続くようにと願いを込めたのでしょう』
「泣き虫め、伴侶を得たならもう少し凛とすることだ」
「する! ちゃんとします!」
ロアは袖で涙を拭った。
レティシアはその様を見て、笑って逝った。
* * *
「……ロア、ロア」
マリアが呼ぶと、ロアは薄く目を開けた。
その瞳はもう、魔的な赤色ではなく、月の灯りのような黄金色だった。
ああ、とマリアは胸をなでおろし、ロアの頬に触れる。
「よかった」
「……あのね、マリア」
マリアの膝に頭を預けたまま、ロアが言うので、何ですかとマリアは耳を貸す。
「……冗談抜きで身体が全然動かない」
「……!?」
マリアが固まっていると、
「この塔で無理をした反動でしょうなぁ。本来人間の身で頂上まで駆け上がることは到底無理な建物ですし」
どこからともなく、双角の悪魔が現れた。
「シヴァ!? どうしてここに」
「マリア。ホノオもいる」
シヴァの陰からホノオも現れた。
「どうして」
「いやなに、後片付けなどを頼まれておっただけです。領主殿は私が運びましょう」
ロアが叫ぶ間もなく、シヴァはロアを荷物のように肩に抱えた。
「前みたいに、しばらく養生、リハビリすれば治る。アマゾーヌにまた薬もらうといい」
ホノオの言葉にほっとしつつ、マリアは怪訝に首を傾げながら、
「でも貴方達、お師匠様はもう……」
「主殿は口では言いませんでしたが、最後まで貴女の味方でした。貴女の意思を尊重するようにと主殿は仰った。だから我々は今貴女に手を貸すのです」
「? でもじゃあリィはなんでむ」
ロアが口を挟みかけて、ホノオがその口をふさぐ。ホノオはロアにだけ聞こえるように言った。
「知らぬが仏」
「……」
ロアは眉間に皺を寄せながら、マリアは神妙な面持ちのまま、眠ってしまったカメリアを抱え、エレンが砂浜で準備していた帰りの船で帰路についた。
夜のような空の色に、極彩色の炎――死者の魂が舞っている。
それ以外は何もない。
建造物も、人の形をしたものも、動物の形をしたものも、何もない。
音すら何も聞こえない場所だ。
「……これは」
死神は自らの手を見る。自ら造った身体は朽ちず、そのままの形を保ってしまっている。
意識すらも、地上にいた頃のままだ。
冥界に至れば、神すら死ねるのだと思っていた。
身体も、意識も消滅して、すべて無くなるのだと。
あまりの絶望に、彼は慟哭した。
そして、辺りを見渡す。
「……彼女、は?」
冥界の母。運命の人。
この冥界への扉を開いた張本人はどこへ?
ひとりなど耐えられない。こんな場所で永遠にひとりなど。
「いやだ、私は、」
そうだ、もう一度分身を作ればいい。寂しければ分身を。
彼はそう思い至って再度ファントムを形成しようと試みる。
しかし。
「……なぜ、」
ファントムは形成されなかった。
絶望する死神の前に、薄紅色の炎が現れる。
それは、言葉は発しない。
しかし彼には分かった。
その魂は、『おいたわしい』と、彼を嗤っている。
「……消えろ、君の役目はもう済んだと言っただろう」
彼がそう言うと、薄紅色の炎は仕返しと言わんばかりに彼の額に触れた。
「! やめろ、」
神に人生などあるはずがない。
けれど彼は人間として生きようとした時期があった。
その時の記憶を、『人生劇場』は再生した。
彼はただの観測機。地上を去った神々が、遠くから人間の営みを垣間見るためだけに置いた、ただの玩具だ。
長い時間、彼は人間を見てきた。愚かしい行いも、正しい行いも。
いつの間にか、彼の中に興味というものが生まれ、彼はもっと人間を間近で観たいと思うようになった。
彼は見よう見まねで人間の少年の姿をとった。
死体から奪った襤褸を着ていたので、彼に喋りかけてくる人間はいなかったが、生活の何もかもがそのときは新鮮だった。
そんなある日。
「お前は孤児か?」
馬車を止め、彼に初めて声をかけてくれた人がいた。
亜麻色の髪の、黒いドレスが良く似合う、強い瞳が美しい人。
ミズ・レティシア・クロワだった。
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彼女は夫の反対を押し切り、彼を養子に迎え入れた。
「孤児を養子にしたなどと知れたら笑いものだ」と言った夫に対し、彼女は「阿呆め」と返した。「私達が率先してそれをやり、これを常識にするのだ。民草はこの行いを批判などせぬ」と。
「ジュリアン」
彼女は彼にそう名前をつけた。
「お前は賢そうな顔をしている。きっと立派な男になって、私の支えとなっておくれ」
名前を与えられたことが嬉しくて、誰かに期待されたことが嬉しくて、彼は本来の目的も忘れ、良い息子であろうと彼女に尽くした。
レティシアは彼にときに厳しく、けれど常に優しかった。
彼女の月の光のようなまなざしが一身に注がれていることがとても幸福だった。
けれど。
「ジュリアン、喜べ! お前に弟か妹が出来たんだ」
その日から、彼女のまなざしは彼だけのものでなくなった。
大きなお腹に注がれるその優しい視線は、その優しい手は。
今まで彼だけが享受できていたのに。
悲しかった。ただ悲しかった。
弟、アドルフが生まれてからはより顕著だった。
レティシアは乳母にすべてを任せる人ではなかった。
彼女は常に幼いアドルフを抱いていた。とても幸福そうな顔で。母親の顔で。
彼女の両手はアドルフを抱くだけのものになった。
あの日。彼はレティシアに従って買い物に随行した。
出掛けるときは常にレティシアの横を歩いていた彼は、この日だけは彼女の後ろを歩いていた。
「……ママン。貴女は今、幸せですか」
「どうしたジュリアン。急に」
幼子を両手に抱えたレティシアは、不可解気に振り返った。
「幸せだよ。お前はいい子だし、この子は可愛い。アドルフが生まれてから夫も少し角が取れて丸くなった」
お前のお陰だな、とレティシアは幼いアドルフに頬ずりをした。
「……僕は」
言いかけて、彼は自身が何を言いたかったのか、わからなくなった。
故障していると、このときようやく自覚した。
彼はもう、とっくに壊れてしまっていたのだ。
ぱらぱらと、空が泣き出す。
「ジュリアン、雨が降って来た。はやく行こう、濡れてしまう」
レティシアは暗い空を仰いだ。
「アドルフが風邪を引いたら大変だ」
「ママン」
霧雨の中、彼は彼女と、その子に呪いをかける。
「幸福な貴女に呪いを差し上げます、ママン」
「……!」
身体中に走った得も知れぬ不快感にレティシアは片膝をついた。
アドルフは泣き喚く。
「……なにを、した?」
亜麻色の髪は赤く染まり、血の気はすっと失せていく。
自らの身体が変異していく様に、レティシアは震えた。
「私とこの子に何をした! ジュリアン!」
彼女の月色の瞳が赤く染まる。
ようやく見てくれた。
壊れた彼はそう安堵した。
しかし同時に、ぽっかりと胸に穴が空いたのも事実だ。
「……ママン、ママン……」
冥界の隅で彼は赤子のように泣く。
彼の絶望は大きな怨念となり、肥大した。
* * *
うす目を開けると、瓦礫の山が目に入った。
身体を起こそうとすると、誰かの腕が背中から力なく滑り落ちる。
「……、」
声も出なかった。
「……ぁ、ロア、」
傷だらけ、埃だらけのその顔に触れると、とても冷たい。
「……ロア、ロア、ああ、」
ゆすったところで彼女はぴくりとも動かない。
歯を食いしばっても嗚咽が止まらない。
「ごめ、んなさい、ごめんなさい」
彼女の身体に縋りつき、マリアは啼泣する。
「貴女はたくさんくれたのに、私、ちゃんと言えなくて、」
大好きという言葉を、笑顔を、彼女はこれまで、マリアにたくさんくれた。
それなのに、素直になれなくて、意地ばかり張って、ついぞ、それらしい言葉をマリアは返すことが出来なかった。
『だってマリアは答えてくれなかったじゃないか!』
こんなことになるのなら。
あの夜の、彼女の告白は。
宝物としてしまうんじゃなくて、ちゃんと答えるべきだった。
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ぽたぽたと涙がこぼれる。
「愛しています、愛しています、ロア、私も貴女を愛しています、
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「…………ねえ、マリア、もう一回言って?」
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「待って、そんなに泣かないで、まだ、」
見計らったかのように、城の天井から黒い何かが迫って来た。
ロアはマリアを抱えて隅に跳ぶ。
降って来たのは、黒い靄を纏う怨念の塊だった。
「……あれは」
「死神は冥界でも死ぬことが出来なかったのだ」
「!」
マリアが顔を上げると、ロアはいつの間にかレティシアと入れ替わっていた。
レティシアはマリアを置いて前に出る。
「マダム! 危険です!」
「あれが死ぬには私が必要なのだ」
彼女はそう言って怨念の前に出た。
『――ママン、ママン、ボクハ、イヤダ、ヒトリニナリタクナイ、』
怨念は咽び泣きながらそう語った。
『セッカク、アタタカサヲシッタノニ、ダレモボクヲ、アイシテクレナイ。ボクハ、ボクハ、アナタノコトガダイスキダッタノニ、アナタハボクヲミテクレナクナッタ! ママンナンテキライダ、アドルフモキライダ、ボクハ、』
「馬鹿者!」
レティシアは怨念を思い切りはたいた。
怨念自身も、傍観していたマリアも、驚いて何も言えなくなった。
レティシアはきゅっと唇を結び、それから一筋涙をこぼし、微笑んだ。
「……あの時、こうやってお前を叱ってやればよかったな、ジュリアン。そうすればお前も謝れたのに」
『……?』
レティシアは両手を広げた。
「アドルフが生まれても、私はずっと、お前を愛していたよ。お前も私のことを愛してくれていたんだな」
黒い靄は薄れ、そこに残ったのは赤毛の幼い少年だった。
『僕は、貴女のことが大好きだった……! あの時、言えなくてごめんなさい、ママン。僕は貴女にとてもひどいことをした……!』
しゃくりあげる彼を、レティシアは抱擁する。
そしてその頭を優しく撫でた。
「……もういい、お互い様だ」
レティシアは目を閉じ、「長かったな」とつぶやいた。そして言う。
「隠れておるのだろう、魔界の番犬。ようやくお前の出番だ」
すると、瓦礫の影からカメリアが現れた。
「カメリア?」
「そやつは魔界の扉を守る門番だ。魔界の秩序を保つため、魔として相応しくない者からその因子をそぎ落とす力がある。あの銀髪の女が私に教えてくれた」
マリアは目を丸くしてカメリアを見る。カメリアはばつが悪そうに頭をかいた。
「記憶喪失っていうのは嘘じゃなかったんデスよ? なんか、運命的なものが働いたっていうか、この島に降り立った瞬間思い出したっていいますか……」
「説明はいい。ロアの身体から私を引き離せ。ジュリアンの魂は私が冥界に連れて行く、これで世界の均衡が保たれるのだ、問題なかろう」
レティシアの言葉に、カメリアは少しだけしぶった。
「……ワタシ、それをやるとまた眠くなったり記憶喪失とかになるおまけ付きなので進んではやりたくないんデスよね……」
するとマリアがカメリアのもとに両膝をついた。
「……ごめんなさい、カメリア。無理なお願いをしているのは承知の上ですが、どうか」
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「マリアしゃんの頼みだから。お名前をくれたお礼と、このマフラーのお礼デスよ?」
次に目覚めた時、またカメリアと呼んでくださいと、彼女は言った。
カメリアがロアの、ひいてはレティシアの悪魔としての資格を剥奪する。
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「ロア」
いつの間にか、そこに亜麻色の髪の女性が立っていて、ロアは急いで姿勢を正した。
「メメ・レティシア。その、ごめんなさい」
開口一番に頭を下げ謝罪したロアに、レティシアは首を傾げた。
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すると、レティシアはあっけらかんと笑った。
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そして、ロアの頭を抱き寄せる。
「お前が生きていればそれでよい。お前が幸福であればそれでよい。お前の母も、お前の父も、それだけを望んだのだ」
真っ直ぐなその言葉に、ロアは思わず涙した。
随分以前。マリアが屋敷に来て間もない頃の言葉を思い出す。
『素敵なお名前ですね。ロア、は異国の言葉で「永遠」という意味なんですよ。貴女の御両親はきっと、貴女の道が久しく続くようにと願いを込めたのでしょう』
「泣き虫め、伴侶を得たならもう少し凛とすることだ」
「する! ちゃんとします!」
ロアは袖で涙を拭った。
レティシアはその様を見て、笑って逝った。
* * *
「……ロア、ロア」
マリアが呼ぶと、ロアは薄く目を開けた。
その瞳はもう、魔的な赤色ではなく、月の灯りのような黄金色だった。
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「よかった」
「……あのね、マリア」
マリアの膝に頭を預けたまま、ロアが言うので、何ですかとマリアは耳を貸す。
「……冗談抜きで身体が全然動かない」
「……!?」
マリアが固まっていると、
「この塔で無理をした反動でしょうなぁ。本来人間の身で頂上まで駆け上がることは到底無理な建物ですし」
どこからともなく、双角の悪魔が現れた。
「シヴァ!? どうしてここに」
「マリア。ホノオもいる」
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「どうして」
「いやなに、後片付けなどを頼まれておっただけです。領主殿は私が運びましょう」
ロアが叫ぶ間もなく、シヴァはロアを荷物のように肩に抱えた。
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ホノオの言葉にほっとしつつ、マリアは怪訝に首を傾げながら、
「でも貴方達、お師匠様はもう……」
「主殿は口では言いませんでしたが、最後まで貴女の味方でした。貴女の意思を尊重するようにと主殿は仰った。だから我々は今貴女に手を貸すのです」
「? でもじゃあリィはなんでむ」
ロアが口を挟みかけて、ホノオがその口をふさぐ。ホノオはロアにだけ聞こえるように言った。
「知らぬが仏」
「……」
ロアは眉間に皺を寄せながら、マリアは神妙な面持ちのまま、眠ってしまったカメリアを抱え、エレンが砂浜で準備していた帰りの船で帰路についた。
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