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はじまり
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春眠は暁を覚えずという。例に違わず、僕もひたすら眠かった。また、春は出逢いの季節とも別れの季節ともいう。しかしたかだか十四年間しか生きていない僕にとって、それは本当のことなのかどうか確かめようのないことであるので、ただ惰眠を貪るのに終始している季節だった。外ではウグイスが気持ちよく鳴いている。放課後の誰もいない教室の窓際の席で、僕は一人仮眠をとっていた。今日の授業は僕の苦手な数学や理科だったので脳が疲れている。そのクールダウンをかねてだ。また、僕は家に帰っても何もすることがない帰宅部だ。暇をもてあましているので、こうして学校で時間をつぶしている。もう少し有意義な時間のつぶし方をすればいいと思うかもしれないが、僕は不精なのでそういうことはしない。
「おい」
教室の入り口付近から低い男の声が聞こえた。僕は耳だけを傾ける。誰の声なのかは見当がついた。だからこそ僕は寝ているふりをしているのだ。
「おい」
声の主は教室の中に入ってきた。僕は依然として机につっぷしている。心臓が高鳴っていた。僕の快適な睡眠を妨害する不届き者の正体はおそらく……。
「おい、起きているんだろう」
耳元で声がした。低いドスの効いた声だ。僕は思わず身震いした。もう誤魔化しきれない。僕は顔をあげ、よだれをふいた。
目の前には僕のよく知る人物がポケットに手をつっこんで立っていた。知っているのは僕だけじゃない。おそらく校内の誰もがその存在を知っている人物。内館くんだ。春夏秋冬、ほぼ毎日平和で問題が起こらないこの学校で、唯一凶暴でおなじみ。授業は平気でさぼるし、教師には悪態をつく。外でかつあげをして、他校の生徒とけんかに明け暮れているという噂もある。誰もが彼のことを恐れ、腫れものを触るかのような扱いをする。そんな内館くんがなぜ僕のような人間をぎろりと睨んでいるのだろう。僕にはまったく分からなかった。
「佐藤健太だな」
内館くんはその切れ長の目をより一層細めて、僕に言った。
「はい」
僕は素直に答えた。
「ちょっと顔貸せや」
顔を貸す。そんな台詞を生まれて初めて耳にした。僕は少しおかしくなって笑いそうになったけど、必死にこらえた。人は恐怖の中にいると不思議とおかしな気分になるらしい。僕が黙っていると、内館くんは語気を荒げて聞いてきた。
「おい!聞いてんのか!」
「は、はい!」
僕は反射的に返事をしてしまう。我ながら情けない声をあげてしまった。
「なら、ついてこいや」
「はい」
従順に従う。
廊下を二人で歩いていた。校舎のどこかからトロンボーンの音や、クラリネットの音が聞こえてくる。グラウンドからは野球部員の掛け声が聞こえてくる。やはりこの学校は平和そのものだ。しかし、それに比して今の僕が直面している状況は穏やかではない。一体どうしたことだろう。僕はなにも彼に危害を加えるような真似はしていない。ただこっそり彼の悪口に便乗したことならある。それでもそんなことはクラスの誰もがしていることだ。僕だけが特別なわけではない。もしかして僕が悪口を言っていることが彼にばれた?そんなことってあるだろうか。そう簡単に些細な情報が伝聞することってあるだろうか。僕は大きな疑問と恐怖を抱えたまま、ただ内館くんの後ろをついていった。
屋上に到着した。実のところ屋上にははじめて来た。僕は平穏無事をモットーとする人間なので、ヤンキーとかヤニとかいった存在と関わりの深そうな場所に訪れるのは避けていたのだ。まして、屋上において女子から告白なるものをされるという機会に恵まれるということもなく、僕の平凡なモテない中学ライフは早や三年目を迎えようとしていた。
内館くんが僕の方に振り向いて、仁王立ちになった。威圧感が二倍になった。
「お前に聞きたいことがある」
「は、はい」
屋上には穏やかな春の風が吹いていた。その風が彼の長めの髪を揺らしていた。
「五十嵐薫と付き合っているというのは本当か?」
内館くんの放った言葉を聞いて僕は自分の耳を疑った。五十嵐薫と付き合っているだって?そんなことあるはずがない。五十嵐薫というのは学校一の美人でマドンナ的存在だ。そんな彼女と僕のようなスクールカーストにおいて底辺の人間が付き合えるわけがない。
「つ、付き合っていません」
「本当か?」
「断じて」
内館くんは眉根を寄せて僕を見る。
「怪しいな」
「全然怪しくないですよ。だいたい僕みたいな人間が五十嵐さんと付き合うっておかしくないですか?ありえなくないですか?」
「まあな。でもお前と五十嵐が付き合っているという噂が校内に轟いているんだよ。火のないところに煙は立たないっていうだろ」
「そんなこと言ったって、本当に付き合ってないんですって」
僕は必死に弁明した。しかし、内館くんは今ひとつ納得がいかない様子だった。
「そこまで言うなら証拠を見せろ」
無理難題を要求された。証拠ってなんだ。僕と五十嵐薫が付き合っていないという証拠か。そんなもの提示のしようがない。それともあれか。僕のパソコンの中にある秘密のフォルダの中身を見せれば、僕がいかに異性と縁遠い生活を送っているかということが証明できるだろうか。しかし、今手元にそれはない。
だいたいなんだ。その噂。どこのどいつがそんな噂流しているんだ。
僕は困り顔で内館くんに訴えかけた。
「なら、本人に尋ねてみればいいじゃないですか」
僕の言葉を聞くと、内館くんは「ふんっ」と鼻を鳴らして言った。
「お前、知らないのか?五十嵐は数日前から学校を休んでいるんだよ」
「ど、どうして?」
「さあな。だから俺は直接お前に聞いてるんだよ」
全く知らなかった。五十嵐薫が学校を休んでいるなんて。
内館くんは僕の顔に自分の顔を至近距離まで近付けた。かすかにたばこの匂いがした。
「証拠が見せられないなら、本気でぼこるぞ」
内館くんは恐ろしいセリフを口にした。一気に血の気が引いた。
「しょ、証拠って言ったって……」
僕は困り果てて黙りこくってしまった。僕が恐れおののいている様子を見て愉快だったのか、内館くんは口角を上げて笑った。
「わかった。明日まで待ってやるよ。明日までに証拠をもってこい」
「明日ですか……」
「ああ。明日までに証拠を持って来れたら許してやる。しかしもしも持って来れなかった時は……分かってるだろうな?」
「は、はい!」
僕は恐怖のあまり素っ頓狂な声をあげてしまった。
内館くんはうっすらと微笑むと「じゃあ、また明日な」と言って屋上を去って行った。僕は微かに「はは」と笑うと、誰もいない屋上で一人途方に暮れた。
どうしよう。明日までに証拠とやらを持っていかなければ血祭りにあげられる。学校一の狂犬に。これは緊急事態だ。どうする?しかし、気が動転していて、思考がうまくまとまらなかった。こういうときは……そうだ。友達に相談しよう。それはいいとして誰に?僕は必死で考えた。こういうとき力になってくれそうなやつ。それでいて校内に残っている人間が望ましい。一刻も早く今あったことを打ち明けたい衝動に駆られていた。
あいつだ。あいつなら、きっと僕の話を真剣に聞いてくれるだろう。
僕は目的の人物に会うため、屋上をあとにした。
「おい」
教室の入り口付近から低い男の声が聞こえた。僕は耳だけを傾ける。誰の声なのかは見当がついた。だからこそ僕は寝ているふりをしているのだ。
「おい」
声の主は教室の中に入ってきた。僕は依然として机につっぷしている。心臓が高鳴っていた。僕の快適な睡眠を妨害する不届き者の正体はおそらく……。
「おい、起きているんだろう」
耳元で声がした。低いドスの効いた声だ。僕は思わず身震いした。もう誤魔化しきれない。僕は顔をあげ、よだれをふいた。
目の前には僕のよく知る人物がポケットに手をつっこんで立っていた。知っているのは僕だけじゃない。おそらく校内の誰もがその存在を知っている人物。内館くんだ。春夏秋冬、ほぼ毎日平和で問題が起こらないこの学校で、唯一凶暴でおなじみ。授業は平気でさぼるし、教師には悪態をつく。外でかつあげをして、他校の生徒とけんかに明け暮れているという噂もある。誰もが彼のことを恐れ、腫れものを触るかのような扱いをする。そんな内館くんがなぜ僕のような人間をぎろりと睨んでいるのだろう。僕にはまったく分からなかった。
「佐藤健太だな」
内館くんはその切れ長の目をより一層細めて、僕に言った。
「はい」
僕は素直に答えた。
「ちょっと顔貸せや」
顔を貸す。そんな台詞を生まれて初めて耳にした。僕は少しおかしくなって笑いそうになったけど、必死にこらえた。人は恐怖の中にいると不思議とおかしな気分になるらしい。僕が黙っていると、内館くんは語気を荒げて聞いてきた。
「おい!聞いてんのか!」
「は、はい!」
僕は反射的に返事をしてしまう。我ながら情けない声をあげてしまった。
「なら、ついてこいや」
「はい」
従順に従う。
廊下を二人で歩いていた。校舎のどこかからトロンボーンの音や、クラリネットの音が聞こえてくる。グラウンドからは野球部員の掛け声が聞こえてくる。やはりこの学校は平和そのものだ。しかし、それに比して今の僕が直面している状況は穏やかではない。一体どうしたことだろう。僕はなにも彼に危害を加えるような真似はしていない。ただこっそり彼の悪口に便乗したことならある。それでもそんなことはクラスの誰もがしていることだ。僕だけが特別なわけではない。もしかして僕が悪口を言っていることが彼にばれた?そんなことってあるだろうか。そう簡単に些細な情報が伝聞することってあるだろうか。僕は大きな疑問と恐怖を抱えたまま、ただ内館くんの後ろをついていった。
屋上に到着した。実のところ屋上にははじめて来た。僕は平穏無事をモットーとする人間なので、ヤンキーとかヤニとかいった存在と関わりの深そうな場所に訪れるのは避けていたのだ。まして、屋上において女子から告白なるものをされるという機会に恵まれるということもなく、僕の平凡なモテない中学ライフは早や三年目を迎えようとしていた。
内館くんが僕の方に振り向いて、仁王立ちになった。威圧感が二倍になった。
「お前に聞きたいことがある」
「は、はい」
屋上には穏やかな春の風が吹いていた。その風が彼の長めの髪を揺らしていた。
「五十嵐薫と付き合っているというのは本当か?」
内館くんの放った言葉を聞いて僕は自分の耳を疑った。五十嵐薫と付き合っているだって?そんなことあるはずがない。五十嵐薫というのは学校一の美人でマドンナ的存在だ。そんな彼女と僕のようなスクールカーストにおいて底辺の人間が付き合えるわけがない。
「つ、付き合っていません」
「本当か?」
「断じて」
内館くんは眉根を寄せて僕を見る。
「怪しいな」
「全然怪しくないですよ。だいたい僕みたいな人間が五十嵐さんと付き合うっておかしくないですか?ありえなくないですか?」
「まあな。でもお前と五十嵐が付き合っているという噂が校内に轟いているんだよ。火のないところに煙は立たないっていうだろ」
「そんなこと言ったって、本当に付き合ってないんですって」
僕は必死に弁明した。しかし、内館くんは今ひとつ納得がいかない様子だった。
「そこまで言うなら証拠を見せろ」
無理難題を要求された。証拠ってなんだ。僕と五十嵐薫が付き合っていないという証拠か。そんなもの提示のしようがない。それともあれか。僕のパソコンの中にある秘密のフォルダの中身を見せれば、僕がいかに異性と縁遠い生活を送っているかということが証明できるだろうか。しかし、今手元にそれはない。
だいたいなんだ。その噂。どこのどいつがそんな噂流しているんだ。
僕は困り顔で内館くんに訴えかけた。
「なら、本人に尋ねてみればいいじゃないですか」
僕の言葉を聞くと、内館くんは「ふんっ」と鼻を鳴らして言った。
「お前、知らないのか?五十嵐は数日前から学校を休んでいるんだよ」
「ど、どうして?」
「さあな。だから俺は直接お前に聞いてるんだよ」
全く知らなかった。五十嵐薫が学校を休んでいるなんて。
内館くんは僕の顔に自分の顔を至近距離まで近付けた。かすかにたばこの匂いがした。
「証拠が見せられないなら、本気でぼこるぞ」
内館くんは恐ろしいセリフを口にした。一気に血の気が引いた。
「しょ、証拠って言ったって……」
僕は困り果てて黙りこくってしまった。僕が恐れおののいている様子を見て愉快だったのか、内館くんは口角を上げて笑った。
「わかった。明日まで待ってやるよ。明日までに証拠をもってこい」
「明日ですか……」
「ああ。明日までに証拠を持って来れたら許してやる。しかしもしも持って来れなかった時は……分かってるだろうな?」
「は、はい!」
僕は恐怖のあまり素っ頓狂な声をあげてしまった。
内館くんはうっすらと微笑むと「じゃあ、また明日な」と言って屋上を去って行った。僕は微かに「はは」と笑うと、誰もいない屋上で一人途方に暮れた。
どうしよう。明日までに証拠とやらを持っていかなければ血祭りにあげられる。学校一の狂犬に。これは緊急事態だ。どうする?しかし、気が動転していて、思考がうまくまとまらなかった。こういうときは……そうだ。友達に相談しよう。それはいいとして誰に?僕は必死で考えた。こういうとき力になってくれそうなやつ。それでいて校内に残っている人間が望ましい。一刻も早く今あったことを打ち明けたい衝動に駆られていた。
あいつだ。あいつなら、きっと僕の話を真剣に聞いてくれるだろう。
僕は目的の人物に会うため、屋上をあとにした。
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