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Cantabile-そして色鮮やかに

008

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 「………………」
 麻衣は、物凄くすっきりしていた。ある意味快感を得たと言っていい。そんな麻衣とは打って変わり、理一は楽譜を捲り捲り、譜面を追っている。
 麻衣はそんな理一の様子にどうしたのかと、その顔を盗み見ると、切なそうに眉を顰めた顔があった。
 「なんだか…悲しくなりました……。うっかり泣いちゃうかと思いました……」
 見た目からして三十を越えていそうな男が「泣いちゃうかと」と言った事に、麻衣は込み上げる感情モエを抑えるのに必死になった。
 「前半の、この部分」
 そんな麻衣の様子に気付かず、理一は楽譜を左手で指差しつつメロディを奏でる。
 「mollモールですから物悲しいメロディなのに、それでも心から湧き出る喜びと言うか、まさにdolceドルチェなんですよね。だけど、ここ」
 そう言って、最初のメロディと同じメロディを繰り返す部分を指差しつつ、右手でそれを奏でる。
 「ここではそれよりも強い歓喜と……けれど同時に絶望が垣間見えた気がしました」
 (まぁ、そんなつもりで歌ってますからね……)
 自分のこの歌に対する解釈を解体されて、困るやら恥ずかしいやら、麻衣は曖昧に笑みを浮かべる。
 「そうして、ここのフォルテで喜びが消え失せる……、強い絶望がこのフォルテに現れているんですね……」
 (この人ムジスクだ!)
 と、麻衣は頭を抱えたくも思った。感覚で音楽をやっている人間と、理論派のムジスク(音楽を学問として、理論的に捉えようとする人)は相性が悪い。麻衣は今までの経験でそう思っている。しかし、歌詞に重点を置いていること自体がムジスクの側面を強く持っている。と言うことを本人だけは気付いていない。麻衣は麻衣のやり方で曲を解体し、構築しているのだ。
 「このル・ヴィヤン?と言うのはどんな意味なんですか?」
 麻衣の様子などお構い無しに理一は楽譜をなぞり、純粋な瞳を向ける。
 「あー、ルヴィヤンで一つの単語ですね。戻って、って意味ですがこの場合は『帰って来てくれ』そう解釈してますね……」
 「あぁ、道理で。この部分は凄く苦しい感じがしたんですよね。後のラディユー…ズ?これは?」
 「んー……、この場合は『輝き』ですかね……」
 「となると、『輝きよ、帰って来てくれ』ですか?」
 「そうですねー」
 楽譜の後ろに歌詞が載ってるからそれを見てくれ!と切実に麻衣は思った。まるで、高校生の頃に戻ったような感覚がするのだ。高校の頃に教授した人は、テノールの男性講師で典型的な理論派だった。歌詞から曲を読み解くのはもちろん、単語の意味一つ一つを辞書で調べるよう言われ麻衣は新しい曲をやるたびに伊日辞典や独日辞典を開く嵌めになったし、音楽記号やメロディから情景を考えるよう教え込まれた。それに異論はないのだが、同じ箇所を何回も何十回も、全く同じ歌い方が出来る様になるまで練習させられたことには辟易としていた。
 (そういや、ドイチュが専門の先生だったなー……)
 ちなみに大学で声楽を習った教授は、高校でみっちりと叩き込まれたおかげで曲をある程度分析する癖が付いていた為、特に細かく言われなかっただけで彼もドイツが専門の、高校の講師とレッスン法自体は似た人だった。
 勝手な解釈なのだが、麻衣的に自分はイタリー系。イタリー系の人間は基本的にカントルで、ドイチュ系はムジスクだと思っている。そして麻衣が好きなのはロシアやドイツと言った北ヨーロッパの作曲家ばかりなので、イタリーなカントル系と自己を評価しつつ、ドイチュなムジスク系が好きと言うことになる。
 「ふむむ……ここの動機が……」とアナリーゼにまで発展している理一に、そこまでせんでも……と思いつつボーッとその姿を見つめる。
 理一は座っていて、麻衣は立っているので彼を俯瞰ふかんすることになり、何の手も入れたことがなさそうな艶やかな黒髪に白髪を発見したり、何気に整っているらしい横顔を見つめて(あ、目じりに笑い皺があるや)など観察に興じていた。
 理一はどうやら三十代の中盤か後半に見える。麻衣を意識から追いやっているようなので譜面台の右側、空いている所に寄りかかり麻衣は観察を続行することにした。
 (ほほう?パーツパーツ見ると普通だな。ザ・日本人。だけど、配置が完璧ですね。美・男・子じゃん!気付かなかったよ!この人イケメンじゃん!微塵も感じさせられなかったですよ?まぁなんか雰囲気がほんわか通り越してポヤーっとしてるからかな。年いくつなんだろ?絶対三十中盤は越えてるよね?奥さん居なさそうだよね?指輪もしてないし……この年で、独り身の音楽家…………。絶対、変人だな。顔良いのに、独り身とか絶対、変人だわ)
 そう決め付けた所で、視線に気付いたのか理一が顔を上げた。
 「もう一曲、歌いたい曲があるって言ってましたよね?どれですか?」
 なにやら目がキラキラと輝いている。麻衣は苦笑を浮かべて楽譜のページを捲った。
 「エレジーですか……。あれ?このメロディーラインは……」
 楽譜を見るだけでメロディーが頭に流れる理一が首を傾げる。
 「もとは、マスネの作ったピアノ曲ですね。元々のタイトルはメロディだっけ。マスネのエレジーって言われてて、後から誰だっけ……あぁルイ・ガレが詩をつけたんですよ。チェロ用に編曲されてるのが有名ですね」
 「ちょっと待ってくださいね」
 そう言いつつ、理一が楽譜が置いてある巨大な本棚に向かう。ピアノ譜ばかりが並んでいる棚から一冊、それともう一冊違う場所から取り出して持ってきた。
 「誰かが編曲したのではなく、マスネ自体が声楽曲として編曲し直したんですか?」
 マスネのピアノ譜をペラペラと捲りつつ尋ねる理一に、麻衣は頷いた。
 「確か、ルコントが書いた『復讐の女神たち』の劇音楽だったかな?さて、エレジーって名前をつけ直してマスネ自体が編曲した…と思ったけど……」
 自分の知識が足らないことに、ほんの少し悔しい思いを抱いた麻衣だったが、理一はその答えで満足したのかフンフンと二回ほど頷いた。
 「あった。チェロ科の友達の伴奏でやったことがあった気がしたんですよね」
 いつの間にかピアノ譜ではない楽譜を開いていた理一が目的のページを見つけて、ピアノ譜、チェロ譜、声楽譜を並べる。
 「マスネのお気に入りだったんでしょうか?」
 その言い様が可笑しくて、麻衣はフフッと笑う。
 「そうかもしれませんね」
 なんとなく微笑み合っていると、理一が気恥ずかしそうに目線を楽譜に戻し、三冊を見比べる。暫くすると「えっと、歌詞は~……」と言いつつ二冊は閉じ、声楽用の楽譜を捲る。
 「ん……どう言う解釈をすればいいんでしょうか、これは……。春が去ってしまったことをことを嘆いているのに、あなたは?んん~?」
 行き過ぎだと思うぐらいに首を傾げる理一に、はっきりと笑い声を上げ麻衣は和訳を指で追いながら説明する。
 「あんまり深く考えなくていいんです。なんせ悲歌エレジーなんですから。優しい春が去ってしまったことを悲しみ、鳥のさえずりが聴こえぬことを、幸せが去ってしまったことを悲しみ、愛しい人に相見あいまみえる日が来ないことを悲しみ、そして自分の心が凍り枯れたことを嘆き悲しむ。それでいいんですよ」
 またも、フンフンと理一が頷く。
 「この和訳だと悲しみを前面に押し出そうとしているからわかり辛いかもですね。こことかは、幸せが去ってしまった、あなたも去ってしまった。見たいに読めるけど、私的には、私の幸せはあなたが去ることで一緒に去ってしまった……そんな感じかなぁ……?私もちゃんとは訳せてないと思いますけど、私はそういう解釈ですね」
 理一はフンフンフン、と無言で頷く。そんな姿がイヤに可愛くて、麻衣は思わずその頭をかいぐりしたくなった。
 「最近練習し始めたんですけど、これって、ほら」
 和訳のページから譜面に戻し、伴奏部分を指で指す。
 「歌のメロディーを伴奏も一緒に弾いてたり、伴奏が弾いたメロディを歌が追いかけたりで、絶対混乱する気がするんですよね」
 これは練習しても弾き語り出来るようになるとは思えない。麻衣はそう思って、練習を諦めがちになっていた。
 「そうですか……」
 と言いつつ、楽譜にしっかりと折り目をつけて理一が姿勢を整える。そうしてから期待を込めて麻衣を見つめた。
 (歌えってことですね、わかります)
 心の中で突っ込み、口には忍び笑いを浮かべて麻衣は頷く。

 そうして歌いだした、『メロディ』は確かに『悲歌エレジー』として響いた。
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