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Cantabile-そして色鮮やかに

009

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 理一は思う。
 『夢のあとに』には喜びと悲しみそして、エロティシズムを感じたが、『エレジー』は唯々ただただ悲しかった。
 エレジーを歌った後、理一が強請りイタリア歌曲の中から『私を泣かせてください』を歌うことになった。
 この曲はセリフのように歌う、と言う意味のレチタティーヴォから始まり、アリアへと繋がる。レチタティーヴォの部分はまるでオペラを間近で見ているような迫力だった。怒りすら垣間見える懇願を感じ取る。後から和訳を見れば、確かにそれは神への嘆願だった。
 そうして移ったアリアはガラリと雰囲気を変え、哀感だけが漂う。粛々と、神へ許しを請う。理一には月明かりの下、祈りを捧げる乙女が見えた気がした。
 理一は、一気に歌の世界に引き込まれ、今までピアノ曲ばかりに目を向けていたのが勿体無いと感じた。声楽曲への興味が爆発し、「この曲を、この曲は?」と麻衣に歌うことを強請ねだった。イタリア歌曲集1は全て習得済みなのが楽譜から見て取れるので結局ほぼ全ての曲を歌わせてしまった。

 「あの…せめて休憩させてください……」
 くったりとピアノに寄りかかる麻衣に言われて、理一はハッとした。慌てて時計を見ると日付が変わっている。またやってしまった!と顔面蒼白になった。
 「す…す……、す…」
 「……す?」
 「すいませんでした!」
 理一は盛大に頭を下げる。それに、返って麻衣の方が申し訳ない気持ちになった。
 「あ、いや、私も楽しんでたんで。こんな風に声を抑えないで歌ったのは久しぶりだったし、理一先生も楽しんで貰えてた見たいなんで全然構いませんよ。ただ、喉は渇いてますけど」
 最後に笑いを含ませて麻衣は空になったペットボトルを振った。
 「あああ、本当にすいません!一度火が付くと止まらなくて……友人にも呆れられるぐらいなんですがっ」
 右往左往とした後、空のペットボトルに目をやって、「飲み物!」と叫び足を縺れさせながらキッチンへと走る理一。
 そんな理一を見て(あぁ、もうウケるこの人)と草を生やす勢いで笑いを堪える麻衣。そうして、(この人は、変人というより、音楽馬鹿なんだな)と考えを改めた。
 「ど、どうぞ!」
 戻ってきた理一はリ○トンの500ミリリットル紙パックとコップを勢い良く麻衣の前に差し出した。
 「もう、無理……!」
 堪え切れずに笑い出した麻衣に、理一はきょとんとした表情を見せた後、顔文字そのままにしょぼんとした。
 「あ、あの……」
 「さとかっ…、せんせ…かわいすぎ……!ほんと、ウケる……っ!」
 褒められているのか貶されているのか判らず、理一は眉尻を下げたまま首を傾げる。
 ヒーヒーと呼吸困難に陥りそうなほどに笑う麻衣を、両手に掴んだ飲み物を差し出したまま見つめると「ごめ、なさ…、悪気わるぎ、な……」と息も絶え絶えに謝られた。

 暫く経って、やっと落ち着いた麻衣は理一から飲み物を受け取り、それをぐいっとあおった。
 「せんせ、年いくつですか?」
 麻衣が少し、笑いの余韻を滲ませたまま聞くと、「三十五です…」と極まりが悪そうに理一は答えた。
 「丁度十歳差なんですね。三十五でこんなに可愛い人初めて見ましたよ。……あっ!悪い意味じゃないですよ!」
 悪い意味じゃなく可愛い、とはどういうことなんだろう?と理一はやはり首を傾げた。
 「純粋培養っていうか、本物の天然なんですね。……決してけなしてないですよ!」
 天然、とはあまり良い意味では無い様な気がして理一が眉尻を下げると、それを見た麻衣が必死に弁解する。
 「なんか、こう…とにかく可愛いっす」
 結局笑いを滲ませた麻衣の瞳が柔らかで、あざけられているのではなく、これは心温まる笑みなのだと理一は思った。その笑い方は大人っぽい顔立ちの麻衣をあどけなく見せる。
 「麻衣さんこそ、可愛いと思いますが……」
 思わずそう言ってしまってから、不味い!と焦るが出てしまった言葉を仕舞うことは出来ない。耳を赤くして理一はばつが悪そうに麻衣を覗き見た。
 普段の麻衣ならばそんな文句、さらりと流してしまうのだがなぜか理一の言葉は流すことが出来なかった。顔を熱が駆け上がり、思わず両手で頬を押さえる。
 「あはっ…そんな……」
 そして沈黙が二人を包む。
 視線を彷徨わせながらも麻衣をうかがい見る理一と、頬の熱が下がらず上目遣いに理一を見つめる麻衣。
 (なんだ、この空気!)
 (どうしよう、この空気!)
 似たような感想を胸に抱き、気まずい空間を持て余す。
 「そういえば!」
 明らかにこの空気を打ち破ろうと、妙に上擦った声を理一が上げた。
 「は、はい!?」
 びくりと体を震わせながら、麻衣はそれに応える。
 「なんだか声楽曲って、mollが多いんですね!」
 なんとかこの雰囲気を変えようとしたのだろう理一に、やはり麻衣は(可愛い…)と思う。ここは乗ってあげるべきだろうと、楽譜を開いた。
 「確かにイタリア歌曲とかはDurドゥアー(長調/明るい曲調)に比べるとmollの方が多いですね。でもほら、パパパ(通称パパパの二重唱。オーストリアの作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲『魔笛』第二幕フィナーレで歌われる超有名曲)とかは可愛いじゃないですか」
 「あぁ、確かに」
 曲を思い出して、理一がほんわりと頬を緩める。
 「ま、モーツァルト大っ嫌いだけど」
 麻衣の、ボソリと低い声での呟きに理一はぎょっとした。
 「お嫌いなんですか?」
 「本とか、映画とか見るとモーツァルトって嫌いになりません?本人に会ったこと無いんだから嫌いって判断するのは悪いことだとは思うんですけど、なんやイヤなんですよねあの人。ベーズレ書簡とか、読むんじゃなかったって思いました」
 「あ、あぁ……」
 「天才だとは思うんですよ?曲も素晴らしいですよ?CD流し聴いててうっとりしますとも!でも、うっとりと聴き入った後に、物凄い自己嫌悪に襲われるんですよね……。曲に罪はない…曲に罪はないんだ……。って思いつつも、モーツァルト、という人を思い浮かべてうげってなるんです」
 本当に心底嫌悪感があるらしく、思い切り眉を顰めている麻衣に理一は苦笑いを返すことしか出来なかった。
 「モーツァルトを調べさえしなければずっと好きなままでいられたのに……」
 世の中には知らないほうがいい事もある。麻衣はそう結論付けた。
 「あー、まぁモーツァルトはもういいですよ。パパパは可愛い。終わり。そういえば、この楽譜にも……」
 麻衣はフランス歌曲の楽譜を開いた。
 「これとか可愛いですよ」
 示された曲のタイトルを見て、理一はなぜか反応に困ってしまった。
 「バラの結婚ですか」
 結婚という単語が頭の中を巡る。三十五にもなると、流石に結婚願望が顔を覗かせている理一だった。何とはなしに麻衣を見てしまい、慌てて目をそらした。
 「えぇ。セザール・フランクって、知ってます?」
 「知ってますよ。前奏曲プレリュードのフーガと変奏曲なんかは良く弾きますね」
 「あぁ!好きです!大好きです!!!」
 突然興奮し胸の前で両手を握り合わせ、その上頬を赤く染めて見つめられ、理一は自分の事を好きだと言われたかのような錯覚に襲われた。
 好きです、大好きです。その言葉と「結婚」の二文字がグルグルと頭の中を飛び回る。
 (あぁっ!違う、違う違う!)
 必死で勘違いしないようにと自分を諌める。
 「はぁ……あの繊細で、美しい旋律……出だしから心震わせられますよねぇ……」
 うっとりと目を細める麻衣は、まさしく恋する乙女だった。そして麻衣はただしくクラシックに恋している。
 「聴いていると、こう、胸がきゅってしません?切なくて、苦しくて、でも嬉しくて……これが恋……とか思っちゃうんですよねぇ……」
 麻衣は変人だ。音大時代、友人達にそう言われていた。人間には目もくれず、無形である音に恋焦がれている。そんな麻衣の姿に、なぜか理一は胸の奥がチリッとげたような感覚を覚えた。
 「弾きま…しょうか?」
 時計をちらりと見つつも、そう提案する。帰さないといけない、それを理解しているのだがそのことには目を瞑る。
 理一は変人だ。音大時代、友人達に呆れられた。人間には目もくれずただ音楽のみに打ち込み、クラシックを、先人の残した偉大なる学問を愛し、理解することに努めた。けれど今は、そのクラシックに嫉妬に似た気持ちを抱いているような気がする。
 「いいんですか!?是非、是非是非!!」
 答えを待たずに、麻衣はピアノの後ろに回りこみグランドピアノの窪んだ位置に収まる。蓋を開けている状態なので、かなり大きく音が聴こえる位置だった。
 「そこで聴くんですか……?」
 互いの顔も見える。暗譜しているので、譜面台も下げていた。
 「ここって、音がダイレクトに体に響くじゃないですが、ジンジンと音が体の奥を巡って響いて……その感じが好きなんです」
 麻衣の言葉に、理一は違うところがジンジンきそうだった。
 (なんだか、おかしくなってる!冷静になれ、冷静に!)
 あれもこれもそれも、全部親友大野が変なことを言ったせい。そう言い聞かせて、ピアノに向き直ると目を閉じた。
 変なことは頭から追い出して、音だけを脳内に満たす。
 そうして、今度は理一のソロリサイタルが始まった。
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