トゥルヴァイユ ― 静かな光に包まれて

夜桜 栞

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第1夜 モヒートと窮屈な私

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 「前にも教えたよね?何回同じ間違いを繰り返すつもり?」

 私は部下に思わず声を荒らげた。

 どうして繰り返すのか、どうしてそんなに適当な仕事をしていられるのか、私には理解ができなかった。

   私は大学を卒業してから10年間。ずっと、今の仕事に打ち込んできた。彼氏も作らず、趣味も持たず、ただずっと職場に貢献してきた。
   職場の人は私を、真面目で努力家だと評している。
ミスも無く、怒られるような事もしない。教わった事をメモと頭に叩き込み、ひたすら与えられた仕事を期限内のうちに早く、より早く仕上げている。

  ずっと仕事に生きてきたから、趣味やプライベートを仕事以上に優先する人のことが理解できない。
なぜ頑張らないのか。
なぜ悔しいと思わないのか。
私には分からない。

  だからなのか、結婚したばかりの浮かれた部下への叱責が普段より棘があるように感じた。

  それは他の社員も感じていたようで、心無いヒソヒソ声が私の耳にも入ってきた。
「今日の関戸さん、一段とキツイわね。」
「日下さんも気の毒ね。あんな仕事人間が上司だなんて。」
「日下さん新婚でしょ。妬んでるのよきっと。」
「嫌ね。自分に相手が居ないからって。」

  ……言いたい放題言ってくれちゃって。

  部下のミスが原因なんだから、部下が悪いのは間違いない。

  間違いない……のだが。


  私がきついのだろうか。
  誰よりも仕事に必死な私は、傍から見れば滑稽な社畜なのだろうか。

  帰宅途中。
  そんな事を考えていると、ふとあるお店の前で足が止まった。

  BAR『Rencontre』

  店の名前の下に、小さい文字で文章が書かれていた。

  “貴方のための一杯、お作りします”

  毎日通る道なのに、今日はやけにその一文が頭に入ってきた。

  BARなど入ったことが無い。
  ましてや、帰りに寄り道をしたことも無いくらいなのに、今日の私は『Rencontre』の扉を開いていた。


  店内に入ると、アンティーク調の暗い照明の中にカウンターと沢山のお酒が並べられており、静かな音楽が流れていた。

  扉のすぐ先に、まるで別世界が広がっているようだった。

  「………どうぞ。お好きな席に。」

  私が立ち尽くしていると、マスターらしき男性が声をかけてきた。

  「あ、ありがとうございます。」

  私はおずおずと、1番奥の席に腰掛けた。

  「今日は何にされますか。」

  マスターは抑揚の少ない、落ち着いた話し方だ。

  「えっと…。BARは初めてで、よく分からなくて…。」
  私は焦っていた。BARでのルールやマナーなど、何が正しいのか知り得なかったからだ。
  「構いませんよ。今日の気分でも教えていただければ。」
  「今日の……気分…。えっと、良くはない…です。」
  「それは何故?」
  「分からなくなって…。仕事だけの自分にも、何がしたいのかも。」
  「………。」
  マスターは何も言わずに、お酒とグラスを選び始めた。

  マスターがお酒を作っている間、静かな空間に落ち着かなくなった私は、ぽつりぽつりと話し始めた。

  「仕事……頑張っているつもりなんです。毎日、職場と家の往復で、趣味もなく仕事だけに打ち込んできたんです。だから、毎日遊び回っていたり、結婚したり、浮かれている人を見るとどうしてもイライラしてしまって。周りの人は私のことを、仕事人間だとか、妬んでいるとか言いますけど、多分そうじゃなくて……。ただ、分からないんです。何故みんな、仕事に一生懸命になれないのか、何故真面目にやらないのか。なぜ…………頑張っている私じゃなくて、周りの人の方が幸せそうなのか。」

  私は不思議な気持ちだった。

  相手は初対面の異性。ましてや店員と客の立場なのに、なぜか自分の気持ちを話せていることに。
  そして、話し始めると自分でも気づいていなかった気持ちが湧き出てきていることに。

  マスターは出来上がったカクテルを、静かに私の前に置いてから呟くように言った。
  「モヒートです。……心の乾きを癒すのにぴったりなカクテルですよ。」

  ライムとミントで飾られた、爽やかなカクテルだった。
  1口飲むと、ミントの爽快な香りと軽やかな味わいが口の中に広がった。
  「美味しい……」
  仕事仕事と固まっていた脳内が、少しだけ洗われたような気分だった。

  その後は、他愛のない話をしながらカクテルを飲んだ。

  仕事以外の、どうでもいい話を誰かとしたのは何時ぶりだろうか。

  ………仕事以外の時間も、案外悪くないな。

  素直にそう思った。
  あぁ、そうか。だから皆、仕事以外の“何か”を求めるのか。

  私は……何がしたいのか分からない。

  分からないけど、こうして飲むことは、悪くない気がする。


  「そろそろ、帰ります。」
  私は空になったグラスを置いた。

  一杯で帰るのは…良くないのだろうか。
  二杯くらい頼むのが礼儀だろうか。

  そんな迷いもあったが、これ以上は明日の仕事に差し支える。

  マスターは嫌な顔ひとつせずに、ほんの少し笑顔をたたえて扉を開けてくれた。

  「また、お待ちしております。」

  こんな時間も、たまにはありだな。


  「また…来ます。」

  そう答えてBARを後にした。

  風が…気持ちいい。

  長い間、こんな感覚を忘れてしまっていた。

  明日は少し、部下への言葉を変えてみよう。
  そう思うくらいには、心に余裕が出来ていた。


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