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薄暗がりの細道を、冷たい空気に包まれながら力なく歩いている椿冬心。半透明に欠けた月明かりの下でもなお映える、端正で美しい顔。 丸く大きな薄茶色の瞳は神秘的で、長く豊かな睫毛は柔らかくカールしている。 高く凛とした鼻筋に、薔薇色のぷっくりとした唇は、ほのかに妖艶さを感じさせる。
雪のように純白で、磁器のような艶をもつ肌。 栗皮色で艶やかな、さらりとした質感のボリューミーなショートヘアが揺れている。冬心の全身が、優雅なオーラをまとって静かに輝いていた。
オメガらしい、線の細いスリムな体からは、ほのかに甘い薔薇のフェロモンの香りが漂っている。オメガとしては珍しく177センチと高身長で、蒼白く儚げに見えるが――実は体育が得意な、芯の強さを秘めた健康的な青年だ。
書店でのアルバイトを終え、一人、考え事をしながら歩くこのぐねぐねと曲がりくねった細道が、冬心は何よりも好きだった。 駅やマンション、店舗などが立ち並ぶ中心地から離れて歩くこと約20分。
さらに、ぐねぐねとした坂道を10分ほど上ると―― アイボリー色の5階建て公営アパートが姿を現す。そこは、低所得者向けの住宅だった。
愛しく大好きな、80歳になる祖母が待っている我が家。
冬心の疲れに落ちいた小さい顔がパアッと明るい色彩で微笑む。2LDKに小さな風呂とキッチン、そして居間がある。5年前に建てられたそのアパートは、二人で暮らすには十分な広さと、清潔で美しい佇まいを備えていた。
静かに足音を立たないようにして、祖母の部屋のドアを開けると祖母がスヤスヤと寝ている。しわだらけの安らぎ顔を覗いたら安心感で緩んでくる冬心の表情。ドアをそっと閉めてから鞄を自分の部屋に置き、風呂場に行く。温かいシャワーを浴びて鈴木先生からいただいたオメガ専用クリームを全身に丁寧に塗る。
居間には、鈴木先生からいただいた二人用の茶色いレザーソファと、木製の茶色いテーブルだけが置かれている。 小さな祖母の部屋には、先生から贈られた小さなテレビと介護用ベッドが静かに並ぶ。
白く清潔感のあるキッチンに入り、冷蔵庫を確認した冬心は、ふっと安堵の息をつく。
今朝作っておいた牛肉のお粥やナムルなどがすべてなくなっていた。祖母が食べてくれた証――そのことが、冬心は嬉しくて嬉しくて、思わず鼻歌までこぼれた。
ベージュ色の壁紙に、茶色の無地カーテン。綺麗な木製のベッドには、ベージュ色の水玉模様の布団が、皺ひとつなくすっきりと敷かれている。 隣には木製の茶色い机と本棚があり、整然とぎっしりと本が並んでいる。冬心の部屋の家具も、やはり鈴木先生からいただいたものだ。
並ぶ本の多くは、両親の遺品であり、ときに鈴木先生から贈られたものも混ざっている。 倹約な生活をしていた両親だったが、本だけは不思議なほど豊かだった。医学、科学、文学、天文学、スピリチュアル…ジャンルも多岐にわたり、その多様性は冬心の知的な創造性を育んだのだった。
押し入れ式のクローゼットには、鈴木先生の娘からいただいた綺麗な洋服と、上品な鞄がきちんと整えられて並んでいる。
綺麗に整理された机の上の額縁には――事故で亡くなった両親と、今よりもずっと若く健康な祖母に抱っこされている、幼いころの冬心が写っている。それは冬心が大切にしている、かけがえのない宝物だ。この家で飾られているものは数えるほどしかない。
そのひとつがこの写真であり、他には―― 小・中・高校生時代に全国美術大会で三度も優勝した野生の花の水彩画。祖母の肖像画。そして宇宙を描いた抽象画。
それらが、この家にあるすべての飾り物だ。 来訪者がこの家に入ってくると、祖母はいつも絵の前に立ち、誇らしげに指を差して言うのだった。「この子は天才なのよ。ほら、こんなに絵が上手で、賞も取ったんだから」と。
冬心は静かに椅子に腰かけ、本日の授業の宿題に取りかかる。しばらく勉強に没頭し、ふと机上の時計に目をやると――時刻はすでに夜明けの2時を過ぎていた。ゆっくりと本とノートを片付け、ベッドに身を横たえる。
冬心の、静かで充実した一日が、そっと幕を下ろした。
朝6時。アラームの音が静かに響き渡り、冬心はゆっくりと起き上がる。風呂場に向かい、顔を洗い、歯を磨く。そのあと、オメガ専用のクリームを顔全体に、丁寧にムラなく塗り広げる。
一日の始まりに、心と身体を整えるためのささやかな儀式のようだった。
冬心はキッチンに移り、冷蔵庫からいんげん豆、玉ねぎ、人参、カボチャ、じゃがいも、豆腐、そして豚肉を取り出す。 丁寧に下ごしらえをしながら、祖母の好みに合わせて豚汁を作っていく。手際よく、祖母が好きなもやしのナムルも作り上げる。
丸く白い食卓に朝食を並べると――ちょうどそのタイミングで、祖母がドアを開けて部屋から出てきた。
「ほら、私が作りたかったのに……ごめんね、冬心」
「いいえ。料理は楽しいし、全然無理してないから。おばあさん、胃もたれはよくなった?病院には行かなくても大丈夫?腰はどう?」
「あぁ、もうスッキリしたよ。心配かけてごめんね。そろそろ、オメガ支援施設にも行けるように頑張らなくちゃね」
「えー、掃除の仕事は続けるの?無理しないほうがいいって、先生にも言われたでしょう」
食卓に座り、スプーンを手に取った祖母が笑顔で言った。
「あぁ~、豚汁、美味しいね。体の隅々まで染み渡る旨味よ。……でもね、年を取っても働き口があるってありがたいことなのよ。 家でひとりテレビを見てるより、外に出て人と話したり、体を動かすほうがずっと楽しいし。お金も入るし、一石三鳥ね」
「僕、バイトしてるし、成績優秀者奨学金ももらってるから。無理はしないでね、おばあさん」
「うんうん。このナムルもしゃきしゃきして、美味しいわ。冬心も、早く食べなさいね」
祖母が元気そうな様子にほっと胸をなで下ろした冬心は、食卓の片付けを終えると大学へ向かうため玄関へと足を運ぶ。5階から1階までエレベーターで降りる。新しく建てられた公営アパートには、こうした設備も整っていて――冬心はその便利さに静かに満足していた。
1、2限の授業が終わると、講義室は学生たちのざわめきとともに賑やかに空になっていく。冬心は鞄を手に持ち、静かにトイレへ向かう。――そう、オメガ専用のトイレだ。
世界的にも、そして日本国内でも優秀な人材しか入学できないピース財団のピース大学。稀少なオメガも在籍する名門校だけあって、設備も充実している。専用トイレもそのひとつだった。
トイレで丁寧に手を洗った冬心は、1階にあるカフェテリアへ向かう。多くの学生は学生食堂へ流れていくが、金銭に慎重な冬心はカフェテリアの無料コーヒーを目当てに、暖かな日差しが差し込む窓辺の席に腰を下ろす。無料のアメリカーノを手に取り、鞄から消毒用のウェットティッシュと弁当箱を取り出す。
カフェテリアには、静かな雨音のようなジャズが流れ、学生たちはそれぞれ一人でコーヒーを飲んだり、本を読んだりしている。ピース大学は規模も大きく、各学部の建物にはカフェテリアや食堂、保健室、図書館などが揃い、設備も申し分ない。
冬心はナムル、キムチ、じゃこの炒め物、卵巻き、そして雑穀米を頬張りながら、静かに食事を楽しむ。
大学に入るまでは、冬心はいつも人々の熱い視線を浴びていた。美しく、すらりとした容姿が人々の目を引き、心を惹きつけていたからだ。けれど、ここは優秀な人材が集まる場所。入学当初こそちらほら視線を感じていたが、今では誰もが自分のことで精一杯で、冬心の存在にも慣れ、気にする様子はない。
冬心にとって大学は居心地がよく、学びも楽しくて――心から好きだと思える場所になっている。高校時代の不運な出来事が原因で、冬心は今も強迫性不安障害による潔癖症を抱えている。
当時、大きな支えとなってくれたのが、鈴木美知子先生だった。今も親しくしている彼女は、稀少な女性の優性オメガであり、形質研究の第一人者として活躍する、優秀な50代の医師である。
ゆっくりと昼食を終えると、冬心は消毒用ウェットティッシュで手と口元を丁寧に拭き、静かにコーヒーを啜った。 その後、空になった弁当箱を鞄にしまい、手を洗うためにトイレへ向かう。
まだ30分ほど時間が余っているため、冬心は図書館へ足を運び、本を読むことにした。
3、4、5時限の授業が終わると、冬心はバイト先であるピース書店へ向かう。
「じゃね、冬心」
「うん、じゃね。愛子ちゃん」
愛子は入学式で初めて出会って以来、今でも仲の良い友人だ。入学式の日、愛子が「写真を撮ってください」と声をかけてきたのをきっかけに、二人は親しくなった。彼女はベータで英米文学を専攻しており、仏文学科の冬心とは、共通の教養科目で時折顔を合わせることがある。
身長161センチのぽっちゃり体型で、明るくて可愛らしい愛子には、すでに彼氏ができていた。薔薇色に染まったホヤホヤのキャンパスライフを、彼と一緒に満喫している。 金曜日は彼氏と食事する日なので、冬心はいつも一人でランチを取る。
何度か誘われて3人で食事をしたこともあるが、気を使わせたくなくて、冬心はさりげなく理由を作って一人で食事をするようになった。 二人の恋を邪魔しないためでもあるし、一人で過ごす方が気楽で、のんびりできるからだ。
愛子の彼氏は彼女と同じ英米文学科の先輩で、背が高くてがっしりした体格に、穏やかな雰囲気が漂う人物だ。何度か彼から「友達を紹介しようか」と言われたこともあったが、そのたび冬心は誠実に、そして真面目に断ってきた。
ピース書店は、日本国内はもちろん世界中にも展開する大手チェーン書店であり、ピースデパートの7階に店舗を構えている。 取り扱う書籍のジャンルも幅広く、スピリチュアルから漫画まで豊富に揃い、店長の話ではその蔵書数はおよそ200万冊にのぼるという。
寛ぎの読書スペースや、美味しいコーヒーを味わえるお洒落なカフェも併設されており、いつも様々な人々で賑わっている。
在庫確認と出庫作業を担当している冬心は、ユニフォームに着替えた後、書店の裏側にある倉庫へ向かって作業に取りかかる。
平日の夜7時から10時までという短い時間ではあるが、冬心はピース大学の優等生として、成績優秀者奨学金の受給者ということで特別に雇われている。
時給は2,000円と高く、冬心が作成する本の見出しは評判がよく、毎月1冊の本がプレゼントされるという特典もある。週末は朝10時から夕方5時まで勤務している。
今日も変わらず一生懸命に働く冬心。
その姿を、ひっそりと見守る人がいる――店長の高橋幸雄だ。はじめて本部から冬心の履歴書が届いた時、写真に映る端正な顔立ちに、高橋は思わず「もしカウンターに立たせたら騒ぎになるのでは」と心配し、裏方である倉庫作業を担当させることに決めた。
実際に会ってみると、真面目で純粋な青年だと感じた。もちろん、初対面の瞬間はその美貌に思わず息を呑み、思考が止まりかけたが——いい歳を重ねた店長である高橋は、すぐに理性を取り戻したのだった。
地味で静かに仕事に励む冬心は、誠実で素晴らしい青年だと高橋は思っている。しかし、本部の常務の秘書、橘が直接連絡をしてきて、冬心を採用するよう指示してきたことについて、高橋の疑問は次第に膨らんでいくばかりだった。
夜10時、別れの音楽が流れはじめると、書店は戸締まりの準備に入る。パソコンでのデータ入力を終えた冬心は従業員室に向かい、制服から私服へ着替えたあと、トイレに立ち寄る。その後、仲間たちに「お疲れさまでした」と挨拶をしてから、大きなマスクをつけて、デパートの裏側の従業員出口をくぐり抜ける。
デパート前のひばりヶ丘駅から副都心緑線に乗り、10分ほど走ると星空駅に到着する。星空駅から徒歩でおよそ30分の場所に、冬心が暮らす『銀河水公営アパート』がある。
駅周辺には交番や複数の防犯カメラが設置されており、パトロール中の警察官も頻繁に目に入る。この周辺は『星空町』と呼ばれ、希少なオメガたちが集まって暮らす地域であるため、国が保安・防犯対策に力を入れている。
冬心がこの公営アパートに入居できたのも、鈴木先生の推薦書によるものだった。
5階の窓から明かりが漏れている。「おばあさん、まだ眠っていないんだな」と思いながら、冬心は足早に家へ向かった。
「冬心だの。おかえり。ご飯は食べたの?」
「ただいま。今日のお昼はお弁当で、夜は書店でサラダを軽く食べたよ。おばあさん、体の具合はどう?」
「うん、大丈夫。腰も痛くないから、来週からはオメガ支援施設にまたバイトに行けそうだよ。ふふふ」
「無理しないでくださいね。夕飯は…?」
「うん、食べたよ。冷ご飯を豚汁に入れて食べたら絶品だったよ。冬心、料理人になったらきっと成功すると思うよ。まあ、画家でもいけるね。ほほほ。ばあちゃんはね、冬心のこと、いつも応援してるよ」
土曜日の朝6時、冬心は熱心にカレー作りに取り組んでいた。
「ご飯、できたよ」
「うん、いい匂いね。もっとゆっくり寝ていてもいいのに。掃除は、ばあちゃんがやるからね」
「せっかくの週末だし、掃除も僕に任せて」
朝食を終えた冬心は、皿洗いと片付けを済ませたあと、祖母を部屋に休ませてから、居間の大きな窓とキッチンの小さな窓を開ける。掃除機をかけた後、水雑巾で床を丁寧に拭いていく。
それから自分の部屋へ移り、窓を開けて換気しながら、本棚や机、ベッドなどを水雑巾で隅々まで拭き取る。
まるで、過去の辛い記憶――自分の”黒歴史”を消し去りたいという、静かな執念が感じられるようだった。
11月になり肌寒くなってきたが、冬心は掃除を欠かすことがない。祖母も冬心の潔癖症を気遣い、彼が心地よく暮らせるよう、日々掃除に力を入れている。冬の季節でも、日差しのある日は欠かさず布団を干すのだ。
「おばあさん、ここはもう掃除が終わったから、次はおばあさんの部屋だよ」
冬心は居間の大きな窓を閉めて、ボイラーをつける。祖母が部屋から出てくると、掃除機を手に取り、祖母の部屋の掃除に取りかかる。1時間以上の掃除を終えた冬心は、洗い終えた洗濯物を乾かすため、ベランダに干す。
今朝は大掃除にかなり時間を費やしたため、星空駅まではバスで行くことに決めた。
週末はいつも忙しく、時間に追われてしまうのだ。
ピース書店に到着した冬心は、「おはようございます」と元気よく挨拶してから、職員室へ向かった。
今日もがむしゃらに働き、午後1時の昼休みになると、書店併設のカフェで販売されているサラダボール、パン、飲料を無料で受け取る。職員特典として食費がかからないのは、冬心にとって本当にありがたいことだ。サラダボールとアメリカーノを手にした冬心は、デパート裏側の従業員休憩室へと向かう。
ピースデパートは、従業員の満足度を高めるために、福祉制度の充実に力を尽くしている。その取り組みの一環として、従業員休憩室はとても清潔で美しく整えられており、大きな窓からはテラスに出ることもできる。
室内には、ふわふわとしたお洒落なソファが複数並び、少し開いた窓からは新鮮な空気が流れ込んでくる。穏やかで暖かい雰囲気の中、従業員たちはゆったりとした時間を過ごし、リラックスして休息を取っている。
休憩室では、皆が冬心に注目しているが、それは悪意のある視線ではなく、「綺麗だなぁ」と思わず見とれてしまう羨望の眼差しだった。冬心は、静かに流れるピアノの甘い旋律に耳を傾けながら、ゆっくりとサラダボウルを口に運ぶ。
スマホでニュースを眺めていたそのとき、愛子からラインが届いた。
<冬心、バイト。
私、彼の部活の付き合いで大学来たよ。
ねえー、いま、日本文学科の掲示板に全国大学生文芸創作コンテストって紙、貼ってけど、
うちのピース財団主催だってね。賞金が100万円だよ。
優秀賞が100万円で、特別賞が50万円で原稿用紙100枚までの短編だって。
これ、2年に1回開催される有名なコンテストだって。
わー、うける。
私、やるからね。
冬心も挑戦したら、 あぁー彼、呼んでるわ。
行かなくちゃ。
応募案内紙、写真撮って送ってやる!
じゃね! 来週また会おう!>
冬心は、愛子がすぐに送ってくれた応募案内の紙をじっくりと読み込んだ。
すると、彼の薄茶色の大きな瞳が、ふと神秘的にキラッと輝いた。
雪のように純白で、磁器のような艶をもつ肌。 栗皮色で艶やかな、さらりとした質感のボリューミーなショートヘアが揺れている。冬心の全身が、優雅なオーラをまとって静かに輝いていた。
オメガらしい、線の細いスリムな体からは、ほのかに甘い薔薇のフェロモンの香りが漂っている。オメガとしては珍しく177センチと高身長で、蒼白く儚げに見えるが――実は体育が得意な、芯の強さを秘めた健康的な青年だ。
書店でのアルバイトを終え、一人、考え事をしながら歩くこのぐねぐねと曲がりくねった細道が、冬心は何よりも好きだった。 駅やマンション、店舗などが立ち並ぶ中心地から離れて歩くこと約20分。
さらに、ぐねぐねとした坂道を10分ほど上ると―― アイボリー色の5階建て公営アパートが姿を現す。そこは、低所得者向けの住宅だった。
愛しく大好きな、80歳になる祖母が待っている我が家。
冬心の疲れに落ちいた小さい顔がパアッと明るい色彩で微笑む。2LDKに小さな風呂とキッチン、そして居間がある。5年前に建てられたそのアパートは、二人で暮らすには十分な広さと、清潔で美しい佇まいを備えていた。
静かに足音を立たないようにして、祖母の部屋のドアを開けると祖母がスヤスヤと寝ている。しわだらけの安らぎ顔を覗いたら安心感で緩んでくる冬心の表情。ドアをそっと閉めてから鞄を自分の部屋に置き、風呂場に行く。温かいシャワーを浴びて鈴木先生からいただいたオメガ専用クリームを全身に丁寧に塗る。
居間には、鈴木先生からいただいた二人用の茶色いレザーソファと、木製の茶色いテーブルだけが置かれている。 小さな祖母の部屋には、先生から贈られた小さなテレビと介護用ベッドが静かに並ぶ。
白く清潔感のあるキッチンに入り、冷蔵庫を確認した冬心は、ふっと安堵の息をつく。
今朝作っておいた牛肉のお粥やナムルなどがすべてなくなっていた。祖母が食べてくれた証――そのことが、冬心は嬉しくて嬉しくて、思わず鼻歌までこぼれた。
ベージュ色の壁紙に、茶色の無地カーテン。綺麗な木製のベッドには、ベージュ色の水玉模様の布団が、皺ひとつなくすっきりと敷かれている。 隣には木製の茶色い机と本棚があり、整然とぎっしりと本が並んでいる。冬心の部屋の家具も、やはり鈴木先生からいただいたものだ。
並ぶ本の多くは、両親の遺品であり、ときに鈴木先生から贈られたものも混ざっている。 倹約な生活をしていた両親だったが、本だけは不思議なほど豊かだった。医学、科学、文学、天文学、スピリチュアル…ジャンルも多岐にわたり、その多様性は冬心の知的な創造性を育んだのだった。
押し入れ式のクローゼットには、鈴木先生の娘からいただいた綺麗な洋服と、上品な鞄がきちんと整えられて並んでいる。
綺麗に整理された机の上の額縁には――事故で亡くなった両親と、今よりもずっと若く健康な祖母に抱っこされている、幼いころの冬心が写っている。それは冬心が大切にしている、かけがえのない宝物だ。この家で飾られているものは数えるほどしかない。
そのひとつがこの写真であり、他には―― 小・中・高校生時代に全国美術大会で三度も優勝した野生の花の水彩画。祖母の肖像画。そして宇宙を描いた抽象画。
それらが、この家にあるすべての飾り物だ。 来訪者がこの家に入ってくると、祖母はいつも絵の前に立ち、誇らしげに指を差して言うのだった。「この子は天才なのよ。ほら、こんなに絵が上手で、賞も取ったんだから」と。
冬心は静かに椅子に腰かけ、本日の授業の宿題に取りかかる。しばらく勉強に没頭し、ふと机上の時計に目をやると――時刻はすでに夜明けの2時を過ぎていた。ゆっくりと本とノートを片付け、ベッドに身を横たえる。
冬心の、静かで充実した一日が、そっと幕を下ろした。
朝6時。アラームの音が静かに響き渡り、冬心はゆっくりと起き上がる。風呂場に向かい、顔を洗い、歯を磨く。そのあと、オメガ専用のクリームを顔全体に、丁寧にムラなく塗り広げる。
一日の始まりに、心と身体を整えるためのささやかな儀式のようだった。
冬心はキッチンに移り、冷蔵庫からいんげん豆、玉ねぎ、人参、カボチャ、じゃがいも、豆腐、そして豚肉を取り出す。 丁寧に下ごしらえをしながら、祖母の好みに合わせて豚汁を作っていく。手際よく、祖母が好きなもやしのナムルも作り上げる。
丸く白い食卓に朝食を並べると――ちょうどそのタイミングで、祖母がドアを開けて部屋から出てきた。
「ほら、私が作りたかったのに……ごめんね、冬心」
「いいえ。料理は楽しいし、全然無理してないから。おばあさん、胃もたれはよくなった?病院には行かなくても大丈夫?腰はどう?」
「あぁ、もうスッキリしたよ。心配かけてごめんね。そろそろ、オメガ支援施設にも行けるように頑張らなくちゃね」
「えー、掃除の仕事は続けるの?無理しないほうがいいって、先生にも言われたでしょう」
食卓に座り、スプーンを手に取った祖母が笑顔で言った。
「あぁ~、豚汁、美味しいね。体の隅々まで染み渡る旨味よ。……でもね、年を取っても働き口があるってありがたいことなのよ。 家でひとりテレビを見てるより、外に出て人と話したり、体を動かすほうがずっと楽しいし。お金も入るし、一石三鳥ね」
「僕、バイトしてるし、成績優秀者奨学金ももらってるから。無理はしないでね、おばあさん」
「うんうん。このナムルもしゃきしゃきして、美味しいわ。冬心も、早く食べなさいね」
祖母が元気そうな様子にほっと胸をなで下ろした冬心は、食卓の片付けを終えると大学へ向かうため玄関へと足を運ぶ。5階から1階までエレベーターで降りる。新しく建てられた公営アパートには、こうした設備も整っていて――冬心はその便利さに静かに満足していた。
1、2限の授業が終わると、講義室は学生たちのざわめきとともに賑やかに空になっていく。冬心は鞄を手に持ち、静かにトイレへ向かう。――そう、オメガ専用のトイレだ。
世界的にも、そして日本国内でも優秀な人材しか入学できないピース財団のピース大学。稀少なオメガも在籍する名門校だけあって、設備も充実している。専用トイレもそのひとつだった。
トイレで丁寧に手を洗った冬心は、1階にあるカフェテリアへ向かう。多くの学生は学生食堂へ流れていくが、金銭に慎重な冬心はカフェテリアの無料コーヒーを目当てに、暖かな日差しが差し込む窓辺の席に腰を下ろす。無料のアメリカーノを手に取り、鞄から消毒用のウェットティッシュと弁当箱を取り出す。
カフェテリアには、静かな雨音のようなジャズが流れ、学生たちはそれぞれ一人でコーヒーを飲んだり、本を読んだりしている。ピース大学は規模も大きく、各学部の建物にはカフェテリアや食堂、保健室、図書館などが揃い、設備も申し分ない。
冬心はナムル、キムチ、じゃこの炒め物、卵巻き、そして雑穀米を頬張りながら、静かに食事を楽しむ。
大学に入るまでは、冬心はいつも人々の熱い視線を浴びていた。美しく、すらりとした容姿が人々の目を引き、心を惹きつけていたからだ。けれど、ここは優秀な人材が集まる場所。入学当初こそちらほら視線を感じていたが、今では誰もが自分のことで精一杯で、冬心の存在にも慣れ、気にする様子はない。
冬心にとって大学は居心地がよく、学びも楽しくて――心から好きだと思える場所になっている。高校時代の不運な出来事が原因で、冬心は今も強迫性不安障害による潔癖症を抱えている。
当時、大きな支えとなってくれたのが、鈴木美知子先生だった。今も親しくしている彼女は、稀少な女性の優性オメガであり、形質研究の第一人者として活躍する、優秀な50代の医師である。
ゆっくりと昼食を終えると、冬心は消毒用ウェットティッシュで手と口元を丁寧に拭き、静かにコーヒーを啜った。 その後、空になった弁当箱を鞄にしまい、手を洗うためにトイレへ向かう。
まだ30分ほど時間が余っているため、冬心は図書館へ足を運び、本を読むことにした。
3、4、5時限の授業が終わると、冬心はバイト先であるピース書店へ向かう。
「じゃね、冬心」
「うん、じゃね。愛子ちゃん」
愛子は入学式で初めて出会って以来、今でも仲の良い友人だ。入学式の日、愛子が「写真を撮ってください」と声をかけてきたのをきっかけに、二人は親しくなった。彼女はベータで英米文学を専攻しており、仏文学科の冬心とは、共通の教養科目で時折顔を合わせることがある。
身長161センチのぽっちゃり体型で、明るくて可愛らしい愛子には、すでに彼氏ができていた。薔薇色に染まったホヤホヤのキャンパスライフを、彼と一緒に満喫している。 金曜日は彼氏と食事する日なので、冬心はいつも一人でランチを取る。
何度か誘われて3人で食事をしたこともあるが、気を使わせたくなくて、冬心はさりげなく理由を作って一人で食事をするようになった。 二人の恋を邪魔しないためでもあるし、一人で過ごす方が気楽で、のんびりできるからだ。
愛子の彼氏は彼女と同じ英米文学科の先輩で、背が高くてがっしりした体格に、穏やかな雰囲気が漂う人物だ。何度か彼から「友達を紹介しようか」と言われたこともあったが、そのたび冬心は誠実に、そして真面目に断ってきた。
ピース書店は、日本国内はもちろん世界中にも展開する大手チェーン書店であり、ピースデパートの7階に店舗を構えている。 取り扱う書籍のジャンルも幅広く、スピリチュアルから漫画まで豊富に揃い、店長の話ではその蔵書数はおよそ200万冊にのぼるという。
寛ぎの読書スペースや、美味しいコーヒーを味わえるお洒落なカフェも併設されており、いつも様々な人々で賑わっている。
在庫確認と出庫作業を担当している冬心は、ユニフォームに着替えた後、書店の裏側にある倉庫へ向かって作業に取りかかる。
平日の夜7時から10時までという短い時間ではあるが、冬心はピース大学の優等生として、成績優秀者奨学金の受給者ということで特別に雇われている。
時給は2,000円と高く、冬心が作成する本の見出しは評判がよく、毎月1冊の本がプレゼントされるという特典もある。週末は朝10時から夕方5時まで勤務している。
今日も変わらず一生懸命に働く冬心。
その姿を、ひっそりと見守る人がいる――店長の高橋幸雄だ。はじめて本部から冬心の履歴書が届いた時、写真に映る端正な顔立ちに、高橋は思わず「もしカウンターに立たせたら騒ぎになるのでは」と心配し、裏方である倉庫作業を担当させることに決めた。
実際に会ってみると、真面目で純粋な青年だと感じた。もちろん、初対面の瞬間はその美貌に思わず息を呑み、思考が止まりかけたが——いい歳を重ねた店長である高橋は、すぐに理性を取り戻したのだった。
地味で静かに仕事に励む冬心は、誠実で素晴らしい青年だと高橋は思っている。しかし、本部の常務の秘書、橘が直接連絡をしてきて、冬心を採用するよう指示してきたことについて、高橋の疑問は次第に膨らんでいくばかりだった。
夜10時、別れの音楽が流れはじめると、書店は戸締まりの準備に入る。パソコンでのデータ入力を終えた冬心は従業員室に向かい、制服から私服へ着替えたあと、トイレに立ち寄る。その後、仲間たちに「お疲れさまでした」と挨拶をしてから、大きなマスクをつけて、デパートの裏側の従業員出口をくぐり抜ける。
デパート前のひばりヶ丘駅から副都心緑線に乗り、10分ほど走ると星空駅に到着する。星空駅から徒歩でおよそ30分の場所に、冬心が暮らす『銀河水公営アパート』がある。
駅周辺には交番や複数の防犯カメラが設置されており、パトロール中の警察官も頻繁に目に入る。この周辺は『星空町』と呼ばれ、希少なオメガたちが集まって暮らす地域であるため、国が保安・防犯対策に力を入れている。
冬心がこの公営アパートに入居できたのも、鈴木先生の推薦書によるものだった。
5階の窓から明かりが漏れている。「おばあさん、まだ眠っていないんだな」と思いながら、冬心は足早に家へ向かった。
「冬心だの。おかえり。ご飯は食べたの?」
「ただいま。今日のお昼はお弁当で、夜は書店でサラダを軽く食べたよ。おばあさん、体の具合はどう?」
「うん、大丈夫。腰も痛くないから、来週からはオメガ支援施設にまたバイトに行けそうだよ。ふふふ」
「無理しないでくださいね。夕飯は…?」
「うん、食べたよ。冷ご飯を豚汁に入れて食べたら絶品だったよ。冬心、料理人になったらきっと成功すると思うよ。まあ、画家でもいけるね。ほほほ。ばあちゃんはね、冬心のこと、いつも応援してるよ」
土曜日の朝6時、冬心は熱心にカレー作りに取り組んでいた。
「ご飯、できたよ」
「うん、いい匂いね。もっとゆっくり寝ていてもいいのに。掃除は、ばあちゃんがやるからね」
「せっかくの週末だし、掃除も僕に任せて」
朝食を終えた冬心は、皿洗いと片付けを済ませたあと、祖母を部屋に休ませてから、居間の大きな窓とキッチンの小さな窓を開ける。掃除機をかけた後、水雑巾で床を丁寧に拭いていく。
それから自分の部屋へ移り、窓を開けて換気しながら、本棚や机、ベッドなどを水雑巾で隅々まで拭き取る。
まるで、過去の辛い記憶――自分の”黒歴史”を消し去りたいという、静かな執念が感じられるようだった。
11月になり肌寒くなってきたが、冬心は掃除を欠かすことがない。祖母も冬心の潔癖症を気遣い、彼が心地よく暮らせるよう、日々掃除に力を入れている。冬の季節でも、日差しのある日は欠かさず布団を干すのだ。
「おばあさん、ここはもう掃除が終わったから、次はおばあさんの部屋だよ」
冬心は居間の大きな窓を閉めて、ボイラーをつける。祖母が部屋から出てくると、掃除機を手に取り、祖母の部屋の掃除に取りかかる。1時間以上の掃除を終えた冬心は、洗い終えた洗濯物を乾かすため、ベランダに干す。
今朝は大掃除にかなり時間を費やしたため、星空駅まではバスで行くことに決めた。
週末はいつも忙しく、時間に追われてしまうのだ。
ピース書店に到着した冬心は、「おはようございます」と元気よく挨拶してから、職員室へ向かった。
今日もがむしゃらに働き、午後1時の昼休みになると、書店併設のカフェで販売されているサラダボール、パン、飲料を無料で受け取る。職員特典として食費がかからないのは、冬心にとって本当にありがたいことだ。サラダボールとアメリカーノを手にした冬心は、デパート裏側の従業員休憩室へと向かう。
ピースデパートは、従業員の満足度を高めるために、福祉制度の充実に力を尽くしている。その取り組みの一環として、従業員休憩室はとても清潔で美しく整えられており、大きな窓からはテラスに出ることもできる。
室内には、ふわふわとしたお洒落なソファが複数並び、少し開いた窓からは新鮮な空気が流れ込んでくる。穏やかで暖かい雰囲気の中、従業員たちはゆったりとした時間を過ごし、リラックスして休息を取っている。
休憩室では、皆が冬心に注目しているが、それは悪意のある視線ではなく、「綺麗だなぁ」と思わず見とれてしまう羨望の眼差しだった。冬心は、静かに流れるピアノの甘い旋律に耳を傾けながら、ゆっくりとサラダボウルを口に運ぶ。
スマホでニュースを眺めていたそのとき、愛子からラインが届いた。
<冬心、バイト。
私、彼の部活の付き合いで大学来たよ。
ねえー、いま、日本文学科の掲示板に全国大学生文芸創作コンテストって紙、貼ってけど、
うちのピース財団主催だってね。賞金が100万円だよ。
優秀賞が100万円で、特別賞が50万円で原稿用紙100枚までの短編だって。
これ、2年に1回開催される有名なコンテストだって。
わー、うける。
私、やるからね。
冬心も挑戦したら、 あぁー彼、呼んでるわ。
行かなくちゃ。
応募案内紙、写真撮って送ってやる!
じゃね! 来週また会おう!>
冬心は、愛子がすぐに送ってくれた応募案内の紙をじっくりと読み込んだ。
すると、彼の薄茶色の大きな瞳が、ふと神秘的にキラッと輝いた。
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