愛って触れないほど遠い…

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6話

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ピース大学記念会堂では、朝から職人たちが慌ただしく動いていた。それもそのはず―フランス・ブーゴー新人作家賞の発表と授賞式が、パリ時間で2月26日午前10時(日本時間午後5時)に行われる予定だったからだ。ブーゴー新人作家賞委員会は21日、椿冬心の作品『黒と白、noir et blanc』を含む最終候補作3本を公開した。

13年ぶりの日本人ノミネートということで、各マスメディアは大騒ぎとなった。記者たちは“椿冬心”という謎めいた人物に取材しようと奔走したが、本人の韜晦とうかいとも拒絶とも取れる態度により、インタビューは実現しなかった。 そこで、冬心が在籍するピース大学に取材を申し出ることとなった。

日本をはじめ、世界各国ではオメガ人権保護法により、押しかけや強引な取材が禁止されていた。ピース大学も、テレビや新聞で話題となっている椿冬心の記事により、記者たちからのインタビュー依頼が殺到し、混乱を極めていた。

270年の伝統を誇るピース大学は、これまでにノーベル賞受賞者116人、ブッカー国際賞27人、ピューリッツァー賞39人、グラミー賞25人、アカデミー賞27人、カンヌ映画祭受賞者103人など、数多くの著名人を輩出してきた。しかし、50年の歴史を持つブーゴー新人作家賞において、最終候補に選ばれたのは今回が初めてだった。

冬心は21日、ブーゴー新人作家賞委員会からのメールを受け取ると、嬉しさのあまりすぐにジャンダ教授に電話をかけ、ノミネートされたことを報告した。ジャンダ教授も心から喜び、温かい祝福の言葉をかけてくれた。「これから記者の取材や出版社からの連絡が殺到するだろう。何かあれば、いつでも助けるよ」と、教授は優しく言ってくれた。

記者たちは、椿冬心がピース大学付属のピース私立高等学校の2年生の時に、世界知能テストで優勝した“絶滅危惧種の天才・極優性オメガ”と同一人物であることを突き止め、取材ブームはさらに過熱していった。その美しい姿が3年前にテレビで話題となった冬心は、記者たちはもちろん、世界中の人々の記憶にも深く刻まれていた。

一方、宇宙天命は冬心の個人情報を守るため、あらゆる手段を講じていた。しかし、大衆の好奇心の前には、いかなる防壁も崩れ去る運命にあった。冬心の正体を執念深く追い続けていた記者たちは、ついにその住居地を突き止めてしまった。

天命は慌てて星空町の警察署長に連絡を取り、冬心の安全確保のため保護を依頼した。一方、銀河水公営アパートの前では、記者たちが陣を張り、冬心の姿を今か今かと待ち構えていた。

21日のブーゴー新人作家賞候補発表を受けて、23日早朝、記者たちは極優性オメガ・椿冬心を取材しようと、銀河水公営アパートの周囲に詰めかけていた。住民がアパートを出入りするたびに、記者たちは冬心について質問を浴びせたが、誰もが「知らない」と答えるばかりで、彼らの焦りは募る一方だった。

そして朝8時45分、背が高く、すらりとした体型の椿冬心が、黒のチェスターコートにスラックス、黒のアンクルブーツ、白のニット帽、白のマスクを身につけてエントランスに姿を現した途端に警察官が近寄って、冬心を警察車両へとエスコートした。

記者たちは慌ててカメラのシャッターを切り続け、フラッシュの光が周囲に瞬いた。冬心は前夜、星空町警察署から事前に連絡を受けていたため、記者との混乱を避けてピース書店へ向かえることに安堵していた。

その頃、ピースデパートの周囲にも各社の取材陣が詰めかけていた。デパート側も天命の指示を受け、多くの警備員が配置され、緊張感が漂っていた。冬心は申し訳なさそうに警察官たちと警備員たちにエスコートされながら、ピースデパートの従業員出入り口に入ることができた。

7階のピース書店に到着すると、スタッフたちが「おめでとう」と声をかけて祝福してくれた。高橋店長は微笑みながら口を開いた。

「冬心。本当におめでとう。この書店の、いや、この日本の誇りだよ」

「いえ、そんな…大したことじゃありません。ありがとうございます」

「本部から連絡が来たが、当分はバイトを休んでもいいそうだ。休んでもちゃんとバイト代は出るから、心配しなくてもいいんだ」

「そんなにご迷惑はかけたくありません。申し訳ございません。できる限り働きたいです。裏の倉庫での仕事だから記者たちとは会わないと思います」

「そうか。じゃあ、今日は様子を見て、無理がなければ働いてもいいよ。休憩のときは、従業員休憩室は避けて、事務所で休むようにしてくれ。今日もよろしく頼むよ」

高橋店長は冬心の肩をポンポンと優しく叩き、その場を離れていった。その日を境に、ピースデパート内のピース書店は、冬心を一目見ようとする記者や一般客で早朝から賑わいを見せるようになった。冬心は警察官のエスコートを受けながら、欠かさずアルバイトに出勤した。

休憩時間には従業員休憩室を避け、ピース書店の事務所で静かに過ごし、店頭には姿を見せないようにしていた。祖母の知加子もオメガ支援施設へアルバイトに向かう際には帽子とマフラーで顔を隠し、記者からの質問には「知らない」とだけ答えていた。

一方、ピース大学では混乱の末、ブーゴー新人作家賞委員会からの依頼と文部科学省の仲裁を受け、学長をはじめとする行政職員たちが会議を開き、26日の発表日に報道関係者を招いて、同時中継授賞式と簡単なインタビューの場を設けることを決定した。

ざわつく日々が過ぎ、2月26日―ブーゴー新人作家賞の発表当日が訪れた。冬心の嘆願により、ピース大学記念会堂で行われる発表会には、ジャンダ教授が付き添いとして同席することになった。 

パリでは午前10時、東京では午後5時。日本のみならず、海外の報道機関も多数集まり、ピース大学は人で溢れ返っていた。

冬心のスマホには、友人や知人からのお祝いメッセージが次々と届き、喜びの声が鳴り響いていた。愛子も何度かLINEを送ってくれた。鈴木先生や高校時代の恩師からも、温かな言葉が寄せられた。

冬心は、鈴木先生から贈られたローズブラウンのファーロングコートに栗梅色のスラックス、白のヴィクトリアンシャツを合わせ、洗練された装いでその美しさを際立たせていた。祖母も黒のワンピースにキャラメル色のステンカラーコートを羽織り、久々に垢抜けた姿で胸を躍らせていた。

午後4時30分頃、冬心と祖母は発表会場に到着し、ジャンダ教授や学長、職員たちに丁寧に挨拶を交わした。ジャンダ教授は、まるで自分の息子のように冬心を誇らしく思い、目を潤ませていた。

午後5時の10分前、冬心はジャンダ教授とともに記者会見の席へと姿を現した。ジャンダ教授は大きなマスクで顔を隠していたが、報道陣は冬心の美しい姿に息を呑み、カメラのシャッターを華やかに切り続けた。

ピース大学記念会堂に現れた冬心は、マスクをせず素顔で登場し、その並外れた美貌を初めてマスコミの前にさらした。テレビ局のカメラに映し出された冬心の純粋で美しい容貌に、視聴者たちは目を離すことができず、その美しさに圧倒された。その視聴者の中には、天命の姿もあった。彼は渋い顔でテレビをじっと見つめていた。

午後5時、会場のスクリーンが点灯し、パリのブーゴー記念館で開催されているブーゴー新人作家賞授賞式の中継が始まった。画面には、権威ある作家たちと賞委員会の会長の姿が映し出される。司会者の挨拶に続き、会長による演説と、最終候補者3名の紹介が行われた。

本来であれば、授賞式はパリの会場のみで行われる予定だったが、冬心が現地での参加を辞退したため、代わりにピース大学記念会堂でも同時に式が執り行われることとなった。なお、冬心以外の2名の候補者はフランス人で、現地会場に直接出席していた。

演壇に立った権威溢れる会長がブーゴー新人作家賞の受賞者を発表した。

「融通無碍で耽美的な傑作です。今年のブーゴー新人作家賞はー『黒と白、noir et blanc』の椿冬心さんです。おめでとうございます!」

わーわーわーと拍手と歓声が響き、カメラのシャッター音が絶え間なく鳴り続ける。ジャンダ教授は冬心をひしと抱きしめた。座っていた冬心の祖母も思わず立ち上がり、拍手を送る。

会場は喜びの波で畝っていた。冬心はジャンダ教授の胸に抱かれながら、感激の涙を流す。会場全体は歓喜に酔いしれる中、司会者が冬心に所感の一言を求めた。

「これまで支えてくださった祖母、ジャンダ教授、そして鈴木先生を始め、多くの方々に心より感謝申し上げます。天国から応援してくれている両親にも、深く感謝いたします。本当にありがとうございました」

冬心が目を潤ませながら静かに語る姿が、カメラのレンズにクロースアップされる。日本をはじめ、世界中の人々が見守る生中継の中、会場は祝福の熱気に包まれていた。記者会見が始まり、質問は一人につき一つのみというルールが設けられていた。

「おめでとうございます。ピーステレビ局の木村です。極優性オメガとして、高校2年生の時に世界知能テストで優勝されたそうですね。ピース私立高等学校は3年間、特別奨学金を受けて勉強し、ピース大学も4年間, 成績優秀者奨学金を受けていらっしゃいます。これほど優れた知能をお持ちなのに、なぜこれまで公に出なかったのですか?」

「静かにいたかったからです」

「おめでとうございます。東京理想新聞の三浦と申します。この作品は、いつ頃から着想を得て執筆されたのでしょうか?また、応募に至った経緯についてもお聞かせいただけますか?」

「この小説は高校1年生の頃、趣味として書き始めました。幼い頃から詩や物語を書いていますが、大学の教授に勧められて、今回ブーゴー新人作家賞に応募することになりました」

「おめでとうございます。アメリカのタイマー誌のマイケルです。椿さんのご家族やご経歴など、全く情報が公開されていません。もし差し支えなければ、お話しいただけますか?」

「10歳の頃に両親を亡くし、それ以来、祖母と二人で暮らしています。ケナリ小学校、朝顔坂第一中学校、そしてピーズ大学付属のピース私立高等学校を卒業しました」

「おめでとうございます。イギリスのBTBC局のフレリーです。世界でただ一人の極優性オメガとして、これまでに困難だったことはありますか?なぜ、今になってご自身の正体を明かすことを決めたのでしょうか?」

「常に注目されてきたため、静かに暮らしたいと願っていました。ですが、作家として活動していくには避けて通れないと判断し、今回、公の場に出ることを決めました」

「おめでとうございます。フランスのヴェリテ社のロイスと申します。ブーゴー新人作家賞は50年の歴史の中で、フランス人以外の受賞者はわずか7名ほどと、非常に稀なことです。フランス語は語感の繊細さゆえ、翻訳では本来の意味を十分に伝えるのが難しいとも言われています。 椿さんはご自身でフランス語による長編を書かれましたが、表現する上で特に難しかった点は何でしょうか?」

「小学生の頃からフランスの文学に親しんできました。特に、ブーゴー、カミュ、ペール、サガンなどが大好きで、何度も繰り返し読みました。そのうちに自然とフランス語にも慣れ、詩や小説を書くようになりました。執筆において、特に大変なことはありませんでした」

「おめでとうございます。J&Jエンターテインメントの沢尻と申します。椿さんの卓越した美貌は、芸能界でも大きな話題となっています。もしご興味があれば、ぜひ我々のプロダクションでご一緒できればと思います」

「ありがとうございます。でも、今は学校生活を大切にしたいので、芸能活動は考えていません」

「おめでとうございます。韓国のソウルの花日報です。椿さんの母親が韓国人だと伺っておりますが、それは事実でしょうか? 韓国のご家族についても、もし差し支えなければお聞かせください」

「はい、母親は韓国人で留学生でした。いつも韓国語や韓国のことを教えてくれました。実は、祖父がアメリカ人の空軍パイロットで、祖母が韓国人で米軍基地の医師でした。母親が12歳の時、アメリカのニューヨークへ移住しました。祖父と祖母はアフリカの支援活動を行っていましたが、スーダン紛争で命を落とし、孤児になった16歳の母親はカリフォルニアの叔父のお世話になりました。母親はカリフォルニア大学バークルー校を卒業し、22歳の時に日本のエンライトメント公立大学の大学院に留学しました」

「おめでとうございます。SNSBシンガポール紙の者です。ご両親やご親族も形質者だったのでしょうか? また、現在お付き合いされている方はいらっしゃいますか?」

「父親が劣性アルファで母親が優性オメガでした。母親側の祖父が優性アルファで祖母は優性オメガでした。父親側の祖父は劣性アルファで祖母はベータです。そして、付き合っている人はいません」

時間を確認したジャンダ教授が、静かに会話に割って入った。

「申し訳ありませんが、そろそろお時間となりましたので、インタビューはここで終了とさせていただきます。本日は誠にありがとうございました」

冬心とジャンダ教授は丁寧に頭を下げ、静かに会場を後にした。もっと質問したかった報道陣は、渋々席を立つ準備を始める。一方、事務室でテレビを見ていた天命は、頭を抱えながらこれからの進路について深く考え込んでいた。

「冬心。よくやったね」

「おばあさん、ありがとう」

「おめでとうございます。冬心」

学長を始め、教授たちと職員たちがお祝いの言葉を述べ続けた。

「ありがとうございます」

「もう6時になりますが、冬心。ご一緒に夕飯はいかがですか。ぜひ、お祖母さんとジャンダ教授もご一緒にね」

学長の宇宙天弥が冬心に食事に誘う。冬心は祖母に目を向けると、祖母は笑顔で頷いた。

「誘ってくれてありがとうございます。ご厚意に甘えてご馳走になります」

会場の出入り口では、大勢の報道陣が待ち構えていた。冬心は頭を下げて会釈しながら、ジャンダ教授にエスコートされて駐車場へ向かった。祖母とともに教授の車に乗り込み、学長の家へと向かう。

ジャンダ教授はニコニコと笑顔を浮かべながら、これから届く賞状のことや出版の話などを楽しげに語っていた。木槿丘町にある学長の邸宅は、まるで城のように壮麗で豪華絢爛だった。

恐る恐る玄関をくぐると、学長とその奥様が温かく迎えてくれた。すでに使用人たちによって晩餐の準備が整えられており、大きなテーブルには色とりどりの美味しそうな料理が並んでいた。

学長・宇宙天弥は、ピースグループ会長・宇宙太陽の異母弟であり、冬心の過去の不幸な出来事も知っていた。貫禄があり、思いやり深い学長は、冬心とその祖母に細やかな気配りをしながら、食事のひとときを穏やかに楽しんでいた。

ジャンダ教授も笑顔で会話に加わり、料理の美味を楽しみながら、穏やかなひとときを過ごしていた。学長の胸には、これほど魅力的なオメガならば、ぜひ息子の番に迎えたいーそんな思いが、静かに芽吹いていた。

「これも召し上がってください。熱海の海で採れた天然のアワビをバター焼きにしたの。香ばしくて、とても美味しいのよ」 

学長の奥様、宇宙鈴子が、冬心の取り皿に丁寧にアワビを盛りつける。 

「ありがとうございます。どれも本当に美味しいです」

「冬心、君は20歳ですよね。うちの長男は22歳で、イギリスのオックスフォーで天文学を学んでいるんです。今度、時間が合えばぜひ一緒にお茶でもできたら嬉しいですね」 

鈴子夫人は、上品な笑みを浮かべながらそう言った。

「ありがとうございます」

冬心は笑顔でお礼を言った。テーブルを囲む学長夫妻、ジャンダ教授、祖母、そして冬心の五人は、冬心の作品や交換留学の話題で、和やかに会話を弾ませていた。

天命は、橘から冬心が祖母と共に大叔父の家を訪れたと聞かされた瞬間から、抑えきれない苛立ちに襲われていた。 冬心は、もはや自分の手に収まらないほど大きくなっていた。どうしようもないと理解していながらも、胸の奥で燃え上がる苛立ちは、これまでに経験したことのない鋭く刺さる感情だった。

大叔父は、曾祖父が七十歳の時に三十歳の愛人との間にもうけた子であり、祖父とは四十歳もの年の差がある。奔放な関係に明け暮れていた曾祖父にうんざりした祖父は、勤勉で誠実な生き方を貫いてきた。天命は細い煙草に火をつけ、煙を吐き出しながら、言葉にできないもどかしさの中でもがいていた。

銀河水公営アパート周辺では日が暮れ、夜十時を過ぎても記者たちが押し寄せていた。ジャンダ教授はアパート前に車を停め、冬心と祖母を降ろしてエレベーターまで丁寧にエスコートした。二人が無事に家へ入るのを見届けた後、車へ戻ろうとした教授に記者たちが詰め寄り、質問を浴びせかける。

しかし、大きなマスクで顔を隠したジャンダ教授は、礼儀正しくインタビューを断り、ようやく車に乗り込むことができた。

祖母が先に風呂に入り、冬心は学長の奥様からいただいた和牛やアワビの入ったパックを、きちんと冷蔵庫にしまった。「しばらくは買い物に行かなくても大丈夫そうだな」と思いながら、あの上品で親切な奥様の笑顔を思い出し、自然と頬が緩む。

やがて祖母が風呂から上がり、冬心は入れ替わるように浴室へ向かった。湯船に身を沈めると、今日一日の出来事がまるで夢のように思え、胸の奥から感謝の気持ちがあふれてきた。

「ポール、ママだよ。寝てるの」

家に戻ったジャンダ教授は、急いで愛猫ポールを呼びかけた。鳴き声が聞こえないのでキャットタワーを覗いてみると、やはりポールはぐっすり眠っていた。その頭を優しく撫でていると、スマホが鳴り出す。光出版社の望月編集長からだった。

冬心と連絡を取りたかったがうまくいかず、結局ジャンダ教授に電話をかけてきたのだ。予想通り、冬心の本の出版に関して出版社側も慌ただしく動いているようだった。ジャンダ教授はこれまでの児童書をすべて光出版社から刊行してきた。

光出版社は、退職したシニア4人によって設立され、現在では創業27年を迎える堅実な出版社へと成長している。彼がこの出版社を愛用している理由は、創立以来、毎年利益の2割を児童施設に寄付しているという理念に共感しているからだ。望月編集長は先代社長の孫にあたる人物である。

冬心から出版の件はジャンダ教授に任せたいと託されていたため、教授は出版社が提案した出版権や印税について説明する必要があると考え、日程を調整して後日返答する旨を伝えて電話を切った。ジャンダ教授は、冬心の利益を考えれば、より高い印税を提示する大手出版社の方が良いのではと一瞬思ったが、冬心自身が光出版社を希望したのだ。

教授は、冬心が今まさに人生の大きな転機に立っていることを、深く実感していた。

冬心の住む銀河水公営アパート周辺には、カメラを構えた記者をはじめ、純美な姿を一目見ようとする人々が連日押し寄せていた。テレビや新聞は、今年のブーゴー新人作家賞受賞者・椿冬心を大々的に取り上げ、世間は騒然としている。 

フランス語特有の繊細な語感ゆえ、外国語をセンス良く生かすのが難しいとされるこの賞は、他の文学賞よりも遥かに高いハードルを誇る。そのため、50年の歴史の中で日本人作家が第二次選考にノミネートされたのはわずか17人のみ。最終候補に選ばれたのは冬心が初めてであり、受賞者となったのも彼が史上初だった。

冬心はブーゴー新人作家賞を受賞した後も、変わらず警察官にエスコートされながらピース書店へ通っていた。冬心が働いていることもあり、書店は連日、大勢の人々で溢れ返っていた。テレビ局や新聞社のSNSでは「もっと冬心を見たい」という投稿がバズり、注目は高まる一方だった。

代理人を務めるジャンダ教授の事務室には、毎日怒涛の勢いで電話が鳴り続けている。明日からは1学期の授業が始まるが、大学側も沈静化の兆しが見えない冬心への熱狂に、どう対応すべきか頭を悩ませていた。

3月1日、火曜日。2年生の1学期を迎えた冬心は、学生たちで賑わうピース大学へ、警察車両に乗って到着した。正門前には、彼の姿を一目見ようと、大きなスローガンを掲げたファンたちが集まり、熱気に包まれていた。警察車両が姿を現すと、ファンたちは「冬心女神様!」と叫び、歓声と興奮で騒然となる。

大学の警備員たちは、必死に群衆を制しようとしていた。その熱狂ぶりは瞬く間に冬心のファンクラブを生み出し、SNSでは彼を讃える投稿が次々と拡散されている。芸能界も冬心を迎え入れようと、あらゆる手段を尽くして動き始めていた。

ジャンダ教授と助教の齋藤は、冬心に関する電話が絶え間なく鳴り続ける日々に、すっかり疲れ果てていた。芸能界、出版社、テレビ局など、さまざまな分野からの依頼が殺到し、業務にも支障が出始めていた。

講義室に入ってきた冬心を見て、同級生たちは次々と祝福の言葉をかける。さらに、冬心とのツーショットを希望する写真申請も相次ぎ、講義室は賑やかな空気に包まれていた。やがて、1時限目の8時30分になり、ジャンダ教授が講義室に入ってくると、学生たちは静かに席へと戻った。

2時限目が12時10分に終わると、学生たちは冬心を昼食に誘った。しかし、冬心はジャンダ教授との約束があることを丁寧に伝え、誘いを断って3階にある教授の事務室へと向かった。助教の齋藤は昼食のため外出しており、事務室にはジャンダ教授と冬心の二人だけ。 

教授は、冬心の分まで用意していた幕の内弁当を取り出し、「さあ、食べましょう」と優しく促した。

「冬心、今はマスメディアの注目が集まっていて、きっと落ち着かない日々だよね。騒ぎも、そう簡単には収まりそうにないし……。 さっき、アーラン教授からお祝いのメールが届いたよ。もしフランスに来るなら、彼の自宅で過ごしてほしいって。それでね、今交換留学の申請をすれば、審査を通って合格した場合、9月からフランスロイヤル大学で授業を受けられるんだけど……。学長と相談して、君だけ特別にすぐに行けるように調整したよ。フランスロイヤル大学も快く受け入れてくれて、今週中にも出発できるよ。日本が少し落ち着くまで、パリで静かに勉強するのも、悪くない選択だと思うんだけど……どうかな?」

温かいお茶を一口飲んだ後、冬心は静かに口を開いた。

「ありがとうございます。祖母と相談して決めたいと思います」

「おばあさんは心配しないでね。私が面倒をみるから……優しくて愉快な方だから私も好きなんだ。おばあさんとは話は済んでいる。おばあさんは冬心のこと、応援しているから……」

「ありがとうございます。でも、今回の賞で賞金もいただけたので、自分で下宿を探して自分で費用を出したいです」

かまぼこをゆっくり噛んで飲み込んだジャンダ教授が笑顔を見せながら話す。

「冬心の気持ち、よく分かるよ。自分の力でやりたいっていう、その真っ直ぐなところ、私は好きだな。でもね、フランスロイヤル大学って、パリの17区にあって、ちょっと高級な住宅街なんだ。下宿先を探すのもなかなか難しくて、賃料も高めでね。大学の寮も今は満室みたいだし……。アーラン教授の家は16区にあるから、電車で通えば近いんだけど、まだ親しくない方の家にお世話になるのは、ちょっと気が重いよね。
それでね、私の妹のソフィアが、ちょうど17区に住んでるんだ。やんちゃな甥っ子が二人と、可愛い姪っ子が一人。あと、ブリティッシュショートヘアの子猫が二匹……あ、もう子猫って年齢じゃないけどね。母猫もいて、にぎやかだけど、みんな仲良く暮らしてるよ。妹はローゼホテルの専務で、妹婿は副社長。ふたりとも忙しいけど、穏やかで優しい人たちなんだ。部屋も余ってるし、冬心が下宿するにはちょうどいいと思ってね。大学までは歩いて20分くらいだから、通学にも便利だよ。
それから、家には使用人が3人いて、みんなアフリカから来た難民の方なんだけど、とても親切で温かい人たちだよ。フランス語は少し苦手みたいだけど、気持ちの通じる人たちだから、きっと居心地もいいと思う。 ……どうかな? 無理にとは言わないけど、選択肢のひとつとして考えてみてくれると嬉しいな」

暫く黙って考え込んでいた冬心が、ゆっくりと口を開いた。

「ありがとうございます。……せっかくの機会ですし、思い切って波に乗ってみようと思います。祖母のことが心配ですが、未来のためにも、もっと成長して強くなりたいです。どうか、祖母のこと……よろしくお願いします。 いつも助けていただいて、本当に感謝しています」

冬心は、大きな薄茶色の瞳に強い意志を宿しながら、静かに頷いた。

18時35分、5時限目が終わると、彼は急いでピース書店へ向かった。 フランスへの交換留学を決めた今、まずはバイト先に辞めることを伝えなければならない。やるべきことが山ほどあって、胸が高鳴る。新しい場所で挑戦するのは怖い。

でも、それ以上に、もっと知りたいという気持ちが湧き上がってくる。心が熱く震え、自分の人生を自分の手で切り開いていくんだと、強く思う。冬心は、期待と緊張が入り混じる胸の鼓動を抱えながら、ピース書店の扉をくぐった。


















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