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第一章── 仁(めぐみ)の導き手、孤独なる老婆
4話
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村のはずれ、小さな藁葺きの家にひとり、お雪という老婆が暮らしていた。
遠い昔、ここは子どもたちの声がよく響く家だった──かつては……。
子どもたちが転んで泣けば膝をさすり、腹が減れば団子をこね、夢を語ればそっと背中を押した。お雪が子どもたちのために身を粉にする姿は、誰よりも『母』だった。そしてそれがお雪の誉れだった。
「お雪婆さま、かたじけのうござった!」
「おおきゅうなりし折には、また参上仕るけんの!」
「いつの日にか、きっと恩返し致すけん、よう覚えちょってな!」
しかし時が経ち、藁葺きの屋根が色褪せていく頃、そう言って出ていった子らがこの場所を訪れることはなかった。
時とともに「忘れられた存在……」、お雪はそう感じていた。
今、火鉢の前で縮こまる老婆の傍らに、あの日の聲たちはもう届かない。だが、お雪は微笑む。
「あの子は……立派に育ち申した……あの子は、よき嫁御と相成ったことじゃろうて……」
お雪の手元には、少しずつ色褪せた子どもたちからの何通かの文がある。火鉢の側にずっと置いていたのであろう。文は濃く変色して、端は焦げている。お雪は彼らの『咲いた』姿を想像しながら、か細く灯る火の前でそっと目を閉じている。
左手の甲には、ぼんやりとした痣が浮きはじめる。それはまるで静かに散りゆく影のようだった。しかし、それは誰も視ることができない。当の本人さえも……。
──ただ、命を仕舞う者たちを除いては……。その者たちこそが『花仕舞師』と呼ばれる存在だった。
「この地にて相違なかろうな……? 根子よ、違えはあるまいか? ここに『仁』の霊々と響き合いしお方、おられるのであろうな……?」
「はいっ! 清さま、まさしくこの場にござりまする!」
根子と呼ばれた幼き姿の女児が囁く。
「待て! おらが先に気付き申したのじゃ! 横取りなど、卑怯ぞ、根子!」
もう一人、幼い男児の根音が頬を膨らませ、憤る。
「ふん、そちがそのようだから、根音はいつまで経ってもガキなのじゃ!」
「なにを申すか! この跳ねっ返りが!!」
二人の口喧嘩はいつものことだ。
「止めなされ! 根音、根子。……ほんに仲良うなされ! されど、二人とも、まことにありがたきことじゃ」
清と呼ばれた女が一喝し、二人の目線に合わせて優しく礼を言うと、二人はいつものようにおとなしくなった。
清は微笑みながら、かぶった笠から顔を覗かせた。色褪せた藁葺きの家を見上げる。確かに、この場に、命の終焉が近づいている兆しを持つ者の気配を感じていた。清は気配を感じながら、どこか既視感のあるこの庵をじっと見つめていた。だが、その記憶は霧のように形を持たなかった。この庵の前に立つと、何かが胸の奥で疼いた。だが、その疼きの正体には手が届かない。思い出そうとすれば、清の心は闇に包まれた。
かすかな足音が耳元をそよそよと揺さぶった。
「あらまぁ……こりゃまた珍しきこと……どちらさまにてござりましょうや……それにしても……童子の足音とはの……いやはや、幾星霜ぶりのことにござりましょうなぁ……」
湿った土の上をかすかに滑りながら近づいてくる。お雪は音だけを頼りに、誰かが訪れたことを悟った。柔らかい草鞋の音が一人、そして元気に走り回る草鞋の音が二人、ここに近づいてくる。確かに人の足音。ただ、何かが違う。まるで心が待ち望んでいたような足音がお雪の鼓膜に響いていた。がたんと扉が開く。
お雪は顔を上げた。笠が揺れている。しかし、かすかな囲炉裏の灯りに照らされた明かりでは、その姿はまだ影の奥に隠れていた。
遠い昔、ここは子どもたちの声がよく響く家だった──かつては……。
子どもたちが転んで泣けば膝をさすり、腹が減れば団子をこね、夢を語ればそっと背中を押した。お雪が子どもたちのために身を粉にする姿は、誰よりも『母』だった。そしてそれがお雪の誉れだった。
「お雪婆さま、かたじけのうござった!」
「おおきゅうなりし折には、また参上仕るけんの!」
「いつの日にか、きっと恩返し致すけん、よう覚えちょってな!」
しかし時が経ち、藁葺きの屋根が色褪せていく頃、そう言って出ていった子らがこの場所を訪れることはなかった。
時とともに「忘れられた存在……」、お雪はそう感じていた。
今、火鉢の前で縮こまる老婆の傍らに、あの日の聲たちはもう届かない。だが、お雪は微笑む。
「あの子は……立派に育ち申した……あの子は、よき嫁御と相成ったことじゃろうて……」
お雪の手元には、少しずつ色褪せた子どもたちからの何通かの文がある。火鉢の側にずっと置いていたのであろう。文は濃く変色して、端は焦げている。お雪は彼らの『咲いた』姿を想像しながら、か細く灯る火の前でそっと目を閉じている。
左手の甲には、ぼんやりとした痣が浮きはじめる。それはまるで静かに散りゆく影のようだった。しかし、それは誰も視ることができない。当の本人さえも……。
──ただ、命を仕舞う者たちを除いては……。その者たちこそが『花仕舞師』と呼ばれる存在だった。
「この地にて相違なかろうな……? 根子よ、違えはあるまいか? ここに『仁』の霊々と響き合いしお方、おられるのであろうな……?」
「はいっ! 清さま、まさしくこの場にござりまする!」
根子と呼ばれた幼き姿の女児が囁く。
「待て! おらが先に気付き申したのじゃ! 横取りなど、卑怯ぞ、根子!」
もう一人、幼い男児の根音が頬を膨らませ、憤る。
「ふん、そちがそのようだから、根音はいつまで経ってもガキなのじゃ!」
「なにを申すか! この跳ねっ返りが!!」
二人の口喧嘩はいつものことだ。
「止めなされ! 根音、根子。……ほんに仲良うなされ! されど、二人とも、まことにありがたきことじゃ」
清と呼ばれた女が一喝し、二人の目線に合わせて優しく礼を言うと、二人はいつものようにおとなしくなった。
清は微笑みながら、かぶった笠から顔を覗かせた。色褪せた藁葺きの家を見上げる。確かに、この場に、命の終焉が近づいている兆しを持つ者の気配を感じていた。清は気配を感じながら、どこか既視感のあるこの庵をじっと見つめていた。だが、その記憶は霧のように形を持たなかった。この庵の前に立つと、何かが胸の奥で疼いた。だが、その疼きの正体には手が届かない。思い出そうとすれば、清の心は闇に包まれた。
かすかな足音が耳元をそよそよと揺さぶった。
「あらまぁ……こりゃまた珍しきこと……どちらさまにてござりましょうや……それにしても……童子の足音とはの……いやはや、幾星霜ぶりのことにござりましょうなぁ……」
湿った土の上をかすかに滑りながら近づいてくる。お雪は音だけを頼りに、誰かが訪れたことを悟った。柔らかい草鞋の音が一人、そして元気に走り回る草鞋の音が二人、ここに近づいてくる。確かに人の足音。ただ、何かが違う。まるで心が待ち望んでいたような足音がお雪の鼓膜に響いていた。がたんと扉が開く。
お雪は顔を上げた。笠が揺れている。しかし、かすかな囲炉裏の灯りに照らされた明かりでは、その姿はまだ影の奥に隠れていた。
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