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第二章 帰郷
27.情けは人の為ならず
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今日も太陽が沈み切るまでひたすら芋を掘り進め……クワを杖代わりについて立ち上がるベルトリウスの隣には、休みを取ると宣言して眠っていたマギソンの姿もあった。
―― 数時間前の昼休憩の時分。
まだマギソンが起きて来ていないとリアーナから聞かされたベルトリウスは、納屋を覗いて大層呆れたものだ。
建物内に薄っすらと漂い残る甘い香り……くちゃくちゃに乱れた藁山へ頭を突っ込み、うずくまるように倒れている男の姿は言葉が出ないほどに情けなかった。残り香の程度で判断するに、摂取してからだいぶ時間が経過しているようだった。声を掛けても返答はなかったが意識は残っているようで、体を無理矢理引っ張り上げると、かすかな呻きが発せられた。
ベルトリウスは何もせずだらだらと横になって陰気がぶり返すよりも、畑に出て無心で体を動かしている方がためになると説得し、作業へ強制参加させた。こうしてマギソンは自身の意思とは関係なく、重い体を引きずって午後からの作業に参加したのだった……。
そして、現在……リリアから昼の残りのパンと野菜スープが入った皿を受け取ると、ベルトリウスは申し訳なさそうに頭を下げた。
「せっかく作ってもらってるのに……ごめんね」
「いいのよ、元はと言えばお父さんが引き止めたんだもの。食器は明日の朝に返してくれればいいから、急がなくて大丈夫よ」
「ああ、ありがとう」
穏やかな声で柔らかく微笑むと、リリアは少々照れ気味に笑みを返した。
料理を受け取ったベルトリウスは母屋を出て、納屋へ向かった。マギソンの調子が芳しくないため、夕食は二人で取ると一家に告げていたのだ。
皿を持って塞がっている両手の代わりに足で木の戸を押し開けると、マギソンは迎えるように正面の寝床で座って待機していた。中に入ってもう一度足で戸を閉め、彼の足元に全ての皿を置いて自分は適当な地べたに腰を下ろす。
「調子はどうだよ。昼食べてねぇんだろ? 食欲があるなら俺の分も食え」
後ろの柱に背を預けながら言うと、マギソンはゆっくりと皿に手を伸ばし、小さくちぎったパンの欠片を口に運んだ。少し固くなっていたのか、ゴリゴリと噛み砕くような鈍い咀嚼音が屋内に響く。一口、二口と食べ進めていくのを眺めていると、視線を気にしたマギソンが一瞬だけこちらに目を向けて言った。
「昼間は……悪かったな……」
そう力なく呟かれた台詞に、ベルトリウスは驚いた顔で彼を見返した。てっきり食事しているところを見るなとか、そういった文句の類いの言葉を吐かれるのだと思っていたので予想外の謝罪に面食らってしまった。
反応が返ってこないのを気にしてか、マギソンはチラチラとベルトリウスの方に目を向けてはそらし、向けてはそらしを繰り返して、ついに食事の手を止めた。
「俺は……駄目な人間だ……もう薬は使わねぇって決めても結局は手を出しちまう……いくら取り繕っても中身は変わらない……変われないんだ……」
「えぇ……? 急にどうしちまったんだよ……」
眉尻は垂れ下がり、目元から一切の意気が消え、青白い顔でパンの欠片を指先で転がしていじくり……出会った頃の刺々しい態度はどこへやら。剣や魔術で身内をも殺害した無情な人間とは到底思えない今の姿に、ベルトリウスは泣きっ面を見せられた時と同じくらいやりづらさを感じていた。
「まぁ……誰だって何かしら欠点はあるもんだ。俺だってほら、性格がいい方じゃねぇしな……」
「いい方……いい方じゃねぇか……ふっ、お前よくそんな言い方……くくっ、他人に酷い仕打ちばかりしてるくせに、よくそんな軽い口調で済ませられるな……」
「お前マジで大丈夫か?」
肩を揺らしながら喉を鳴らすマギソンに、ベルトリウスは顔を引きつらせながら言い放った。攻撃的だったり自虐的だったり……かと思えば突然笑い出したり。彼が声を上げて笑うところは初めて見るが、ラトミスの影響で情緒がおかしくなっているのだと思うと単純に哀れだった。
呆気に取られているベルトリウスを置いてきぼりにして何度か喉を鳴らしていると、次第に落ち着いてきたマギソンは小さく息を吐き、覇気のない声で言った。
「笑ったのなんてガキの頃以来だ。家を出てから面白いと感じることなんて一つもなかったからな……それもこんなしょうもないことで笑うなんて、いよいよ頭がおかしくなってきちまったか……」
力なく口角を上げ、何かを諦めたようにパンをちぎってはスープの皿へと落としてゆく……。
いつもより表情があるはずなのに、いつも以上に感情が読めないマギソンを目で捉えながら、ベルトリウスは投げやりな態度で慰めに似た言葉を送った。
「まともぶって苦しむより、いっそイカれて楽しんだ方がいいってことだろ。こんな世の中じゃ真面目に生きたって報われねぇんだ。無理にでも楽しみを見いださなきゃ、やっていけねぇって頭が思い始めたんじゃねぇの?」
「……そうかもな」
ベルトリウスは気に食わなかった。いつもなら無視するか冷たい視線で答えるだけのマギソンが、今日に限っては似合いもしない穏やかな声で返事をするのだ。
角の取れた雰囲気がしっくりこず、ベルトリウスはそっと立ち上がると入口の戸へと歩いていった。
「服洗ってくるわ。お前のゲロ付いてんの忘れてた」
そう突き放すように言うと、マギソンを残して一人外へ出た。
井戸は納屋と母屋の間に位置していた。頭の包帯も洗ってしまおうかと考えながら備え付けの釣瓶を中に放り投げて水を汲み上げると、脱いだ上着をそのまま桶にひたし、胃液が染み込んだ変色部分をよく揉み洗いする。
この日の晩は風が強くなり始めていた。空気が肌を撫でてゆく感覚や音が大きくなっていく。
無心で洗い物に集中していると、不意に後方から気配を感じた。まだ数メートルは離れている。顔見知りならとっくに声を掛けている距離だ。
とりあえず気付いてないふりを続けると、その人物が真後ろまで接近した瞬間、ベルトリウスは頭には”ゴンッ!”と強い衝撃が与えられた。呻きを上げながら殴られた箇所を手で押さえ、前方に倒れてピタリと動きを止めてみると、頭上から下卑た男の含み笑いが聞こえてきた。
「へへっ、まずは一人……」
「おい、こっちに来い。納屋にもいるぞ」
満足げに呟いた頭上の男に対する別の男の呼び声が、納屋方面から風に乗って流れてくる。どれも初めて聞く声……だとすれば、外部の襲撃者による犯行で間違いなかった。
ベルトリウスを殴った男は呼び掛けられた仲間に合流しようと踵を返し、向こう側へ歩いていった。気配が遠ざかるとベルトリウスは薄目で周囲を確認し、敵の数を把握した。
相手は三人。自分を襲った犯人であろう間近で背中を向けている男の他に、納屋の前にもう二人潜んでいる。今にも屋内のマギソンを襲おうと戸の前に張り付いて機会を窺っている二人にベルトリウスを襲った男も合流すると、三人は息を合わせて戸を蹴り破り―― その瞬間に合わせ、ベルトリウスは体を起こして獣じみた速さで一気に納屋まで駆け抜けた。
風やざわめく草木達が、人が生み出す全ての音を掻き消してくれる。
ベルトリウスが駆ける音も、男達が勢いよく納屋へ身を乗り出す音も、そして……侵入してきた先頭の男の鼻柱に、マギソンが拳をめり込ませる音も。
「ゲボォッ!?」
「てめぇっ―― ゴフッ!?」
「なっ、なんだぁ!?」
先頭の男と間隔を詰めて並んでいた列の二番目の男は、倒れた仲間の影に隠れて迫っていたマギソンに反応する間もなく、下方から打ち上げられた拳に顎を砕かれて殴り飛ばされてしまった。
列の三番目の男……井戸の前でベルトリウスを襲った男はマギソンから鋭い眼光を向けられるなり、へっぴり腰で納屋から後退した。
「すっ、すんまひぇっ……すいまっ……グゲッ!!」
息が詰まるほど冷たい瞳にせめてもの命乞いをする男だったが、ここでようやく追い付いたベルトリウスが男の首に背後から腕を回し、喉を押し潰す形で、固定した腕を全力で締め上げてボキンッ! と、小気味よい音を立てて首の骨を折った。
ベルトリウスは腕の力を緩め、だらりと垂れた男の体を地面に落とした。冷静に応戦していたマギソンは足元に散らばる三人の男を見つめ、首を傾げていた。
「何なんだこいつら」
「知らね。野盗じゃねぇの? いやー、まさか本当に襲ってくるとはな」
この家を訪ねた時にロス達についた適当な嘘がまさか現実になるとは……二人はまじまじと襲撃者を見下ろした。
「それにしてもマギソン、お前よく飯の最中に敵に気付いたな」
「あんなの……扉の前で不自然に動く影があれば誰だって気付く」
「ふーん……ってか扉が開いた瞬間に殴ってたけど、あれ俺やロスのおっさんだったらどうしてたんだ?」
「……お前だったら殴っても痛みがねぇから別にいいだろ。あの爺はむしろ殴りたいぐらいだったし、女共の場合はお前が言い訳を考えて慰めればいい。つまり誰だろうが殴っておいて間違いはない」
「お前……薬がキマってなきゃこんなに最高なのにな……」
清々しいほどの自分本位な発言を受け、ベルトリウスは感心した表情を取った。
こんな素敵な言葉を口に出せる男がどうして過去の人間関係なんかに怯えているのか不思議でならなかった。パンを手に笑っていた、ああいった生温かい目はどうにも苦手だが、今みたいな横暴な考え方はかなり好ましい。
彼がもう一皮剥ければ、これからの旅はお互いにとって、もっとずっと楽しいものになるだろう。ベルトリウスはカイキョウを出た後のマギソンの暴れっぷりに期待を寄せた。
「あっ、井戸に服置いてきちまった」
「んなもん後でいいだろ。それより、本当に野盗なら他にも来るぞ」
「そうだな……そりゃ三人だけで襲いに来るわけないよなぁ。まっ、一般人の前だが今回は自己防衛だし、殺しても言い訳が立つな。とりあえず息のある二人は逃げないように縛っとこう」
ベルトリウスとマギソンは男達から所持品を取り上げてから、納屋にあった縄を使って彼らを柱にくくり付けて。抵抗できないように固く結び上げている最中、強風が吹き荒れる音と共に、母屋の方から何かが破壊される音と男女のけたたましい叫び声が聞こえた。
作業中の二人は顔を見合わせた。
「……襲われてる?」
「……襲われてるな」
すぐさま立ち上がると、二人は納屋を飛び出して母屋へ向かった。
遠目からでも入口の戸が突き破られているのが分かる。室内のぼんやりとした明かりに照らされ、内壁に数人分の影が映り揺れ動いていた。
建物まであと数メートルの場所まで息を殺して近付くと、ちょうど玄関口から直線上に覗ける場所に、見覚えのない屈強な男の横姿があった。襲撃者の一味だろう。その腕にはリリアが捕われていた。
男は夫妻を相手取ってリリアの首筋に刃物を当てて脅しを仕掛けているようで、外からやって来ているベルトリウス達には未だ気付いていない様子だった。ベルトリウスは疾走する勢いをそのままに家へ乗り込むと、先程の襲撃者から取り上げた小振りのナイフを男の眼球に突き立てた。と、同時に横目で夫妻の状態を確認し、そちらにも各々敵が張り付いていると分かると手元のナイフをガチャガチャと乱雑に掻き混ぜて引っこ抜き、ロスの隣で青い顔をして震えているリアーナを拘束していた賊の太もも目掛けて振り投げた。
「ゔごお”お”お”お”お”っ”!!??」
「イ”ッ”、デェーーーーッ”!!!!」
「ちっきしょ……!! ―― ギャワッ!?」
室内にいた野盗の三人、それぞれが驚愕に声を上げる。
先に負傷した二人ともう一人……背後からロスの喉元に刃物を当てていた男は仲間が攻撃されたことに気を取られ、その隙を突かれて人質であるロスから腹に肘打ちを食らい、うずくまった折に背負い投げを決められていた。
石の床に腰を強打した男は息を詰まらせ動けなくなっていた。元兵士のロスは妻子の安全さえ確保してやれば自力で対処できると踏んで手を出さなかったが、ベルトリウスの見立ては正解だったようだ。
片目から血を垂れ流して激痛に喘ぎながらも、リリアを押さえ込んでいた男は手を離さないでいた。ベルトリウスは駄目押しに、男の出っ張った喉頭に正拳突きを食らわせてやった。喉が潰れて呼吸もできず、流石に人質どころではなくなった男はリリアを突き飛ばしてその場に倒れた。
解放されたリリアを後ろに控えていたマギソンに託すと、ベルトリウスは次にリアーナの所へ向かった。
魔物となった身での投擲は、本人が思っているよりも威力があるらしい。刃は勿論、柄の部分まで深く足に突き刺さっていた。
ベルトリウスは太ももを押さえてしゃがみ込んでいる男の後頭部の髪を掴むと、俯いていた顔を上に向かせ、その顔面に膝蹴りをお見舞いした。鼻骨が砕ける音が聞こえると、近くにいたリアーナは小さく悲鳴を漏らした。力を抑えめにしてみたのだが、こちらも思いのほか威力があるみたいだ。
すっかり鼻付近が陥没してしまった男を床に転がすと、ベルトリウスは室内をぐるりと見渡した。これで敵は全て無力化した。突然多くの暴力を目の当たりにしてしまったリアーナは恐怖と安堵で腰が抜け、そばに駆け寄った夫に抱き支えられる形で近くのベッドに座らせられた。
ベルトリウスはロスに背負い投げされた男の体を無理矢理起こし、脇の下から手を差し入れて上体を持ち上げ、ずりずりと玄関口の方まで足を引きずって移動させた。痛めた腰が伸びて激痛が走った男はヒーヒーと泣いて助けを求めたが、襲撃者に対し情けを掛ける人間はこの場にいなかった。
入口の戸の前で直立していたマギソンの足元に喚く男を置くと、次は食卓の椅子で放心状態で座るリリアの横をすり抜け、彼女を捕らえていた男の状態を確認しにいく。加減をせず喉を狙ったお陰で、知らぬ間に息を引き取っていたようだ。やや大柄ではあったが、この男もまたマギソンの足元まで引きずってゆく。そして最後に、リアーナの眼前で転がる顔面陥没男も回収する。
静まり返った室内で、外から吹き付ける風音だけが重々しく響いていた。
先にマギソンに納屋まで死体連中を運んでいてもらい、ベルトリウスはすすり泣く妻を慰めているロスを一旦家の外に呼び出した。
「皆さんお怪我はないですか?」
「あ……あぁ、大丈夫だ……あんたが助けに来てくれなきゃ、今ごろ……感謝するよ、泊めてよかった、本当に……」
強風の中でも不思議と鮮明に聞き取れるベルトリウスの言葉に、ロスはたどたどしく答えた。
食事中に突然襲撃を受け、近くにいたリリアを人質に取られて身動きを封じられた……。十年前……当時のロスは息子を奪われた恨みもあり、ユージャムルに下った人間が多く暮らす市内での生活を拒んだ。不安はあったが妻であるリアーナの了解も受けて、人けのないこの地に根を下ろし、家族だけでやっていこうと決心したのだ。
元兵士である己の矜持にかけて、何が襲い来ようと必ず家族を守ると誓ったというのに……現実は厳しかった。移住して以来、運良く襲撃の経験がなかったロスの心には大きな隙が生まれていた。そして何より、いくつもの戦場を駆け抜けた体は確実に老いていた……実際に攻め込まれてみれば、この有り様だ。
ベルトリウス達の登場が数分遅れていれば、今頃……。
しょげ返ってしまった老人の情けない姿を前に、ベルトリウスは口元が緩むのを必死にこらえながら話を続けた。
「実は奴らの仲間をもう二人、納屋に捕縛してあります。後始末は俺とマギソンに任せて皆さんは休んでください」
「いや、流石にそこまで任せるのは……何かできることがあれば、俺も手伝うよ」
「奥さんと娘さんだけ家に残すのは心配でしょう? 一緒にいて安心させてあげてください」
「……すまない。だが後始末っていうのはつまり……殺すんだよな? 大丈夫だろうか、その、報復とか……」
「他に仲間がいるかは尋問してみないと分かりませんが、仮にここまで痛めつけておいて生かして返しても、それこそ報復に戻ってくるだけでしょう。まぁ、あなたが止めろと言うなら解放してやりますが」
「……いや、忘れてくれ。全てあんたに任せるよ……」
疲弊した様子のまま、ロスは家の中へ戻っていった。ベルトリウスも己のなすべきことに取り掛かるべく納屋に向かう。
中に入ると、ちょうど小屋の真ん中の辺りで地面に横たわりながら、背負い投げをされた男が滝のような汗を流してベルトリウスを凝視していた。フーフーと荒い息を立て、まるで化物を前にしているかのような目付きでこちらを見つめている。……その隣では冷めた夕飯を無表情で食べ進めているマギソンがいて、場違いな光景に思わず噴き出してしまった。
ベルトリウスは焦らすようにゆっくりとした足取りで男に歩み寄ると、震える表情を頭上から覗き込んで心底面白そうに口元を歪めた。
「お待たせ。さぁ、楽しいお喋りを始めようぜ」
―― 数時間前の昼休憩の時分。
まだマギソンが起きて来ていないとリアーナから聞かされたベルトリウスは、納屋を覗いて大層呆れたものだ。
建物内に薄っすらと漂い残る甘い香り……くちゃくちゃに乱れた藁山へ頭を突っ込み、うずくまるように倒れている男の姿は言葉が出ないほどに情けなかった。残り香の程度で判断するに、摂取してからだいぶ時間が経過しているようだった。声を掛けても返答はなかったが意識は残っているようで、体を無理矢理引っ張り上げると、かすかな呻きが発せられた。
ベルトリウスは何もせずだらだらと横になって陰気がぶり返すよりも、畑に出て無心で体を動かしている方がためになると説得し、作業へ強制参加させた。こうしてマギソンは自身の意思とは関係なく、重い体を引きずって午後からの作業に参加したのだった……。
そして、現在……リリアから昼の残りのパンと野菜スープが入った皿を受け取ると、ベルトリウスは申し訳なさそうに頭を下げた。
「せっかく作ってもらってるのに……ごめんね」
「いいのよ、元はと言えばお父さんが引き止めたんだもの。食器は明日の朝に返してくれればいいから、急がなくて大丈夫よ」
「ああ、ありがとう」
穏やかな声で柔らかく微笑むと、リリアは少々照れ気味に笑みを返した。
料理を受け取ったベルトリウスは母屋を出て、納屋へ向かった。マギソンの調子が芳しくないため、夕食は二人で取ると一家に告げていたのだ。
皿を持って塞がっている両手の代わりに足で木の戸を押し開けると、マギソンは迎えるように正面の寝床で座って待機していた。中に入ってもう一度足で戸を閉め、彼の足元に全ての皿を置いて自分は適当な地べたに腰を下ろす。
「調子はどうだよ。昼食べてねぇんだろ? 食欲があるなら俺の分も食え」
後ろの柱に背を預けながら言うと、マギソンはゆっくりと皿に手を伸ばし、小さくちぎったパンの欠片を口に運んだ。少し固くなっていたのか、ゴリゴリと噛み砕くような鈍い咀嚼音が屋内に響く。一口、二口と食べ進めていくのを眺めていると、視線を気にしたマギソンが一瞬だけこちらに目を向けて言った。
「昼間は……悪かったな……」
そう力なく呟かれた台詞に、ベルトリウスは驚いた顔で彼を見返した。てっきり食事しているところを見るなとか、そういった文句の類いの言葉を吐かれるのだと思っていたので予想外の謝罪に面食らってしまった。
反応が返ってこないのを気にしてか、マギソンはチラチラとベルトリウスの方に目を向けてはそらし、向けてはそらしを繰り返して、ついに食事の手を止めた。
「俺は……駄目な人間だ……もう薬は使わねぇって決めても結局は手を出しちまう……いくら取り繕っても中身は変わらない……変われないんだ……」
「えぇ……? 急にどうしちまったんだよ……」
眉尻は垂れ下がり、目元から一切の意気が消え、青白い顔でパンの欠片を指先で転がしていじくり……出会った頃の刺々しい態度はどこへやら。剣や魔術で身内をも殺害した無情な人間とは到底思えない今の姿に、ベルトリウスは泣きっ面を見せられた時と同じくらいやりづらさを感じていた。
「まぁ……誰だって何かしら欠点はあるもんだ。俺だってほら、性格がいい方じゃねぇしな……」
「いい方……いい方じゃねぇか……ふっ、お前よくそんな言い方……くくっ、他人に酷い仕打ちばかりしてるくせに、よくそんな軽い口調で済ませられるな……」
「お前マジで大丈夫か?」
肩を揺らしながら喉を鳴らすマギソンに、ベルトリウスは顔を引きつらせながら言い放った。攻撃的だったり自虐的だったり……かと思えば突然笑い出したり。彼が声を上げて笑うところは初めて見るが、ラトミスの影響で情緒がおかしくなっているのだと思うと単純に哀れだった。
呆気に取られているベルトリウスを置いてきぼりにして何度か喉を鳴らしていると、次第に落ち着いてきたマギソンは小さく息を吐き、覇気のない声で言った。
「笑ったのなんてガキの頃以来だ。家を出てから面白いと感じることなんて一つもなかったからな……それもこんなしょうもないことで笑うなんて、いよいよ頭がおかしくなってきちまったか……」
力なく口角を上げ、何かを諦めたようにパンをちぎってはスープの皿へと落としてゆく……。
いつもより表情があるはずなのに、いつも以上に感情が読めないマギソンを目で捉えながら、ベルトリウスは投げやりな態度で慰めに似た言葉を送った。
「まともぶって苦しむより、いっそイカれて楽しんだ方がいいってことだろ。こんな世の中じゃ真面目に生きたって報われねぇんだ。無理にでも楽しみを見いださなきゃ、やっていけねぇって頭が思い始めたんじゃねぇの?」
「……そうかもな」
ベルトリウスは気に食わなかった。いつもなら無視するか冷たい視線で答えるだけのマギソンが、今日に限っては似合いもしない穏やかな声で返事をするのだ。
角の取れた雰囲気がしっくりこず、ベルトリウスはそっと立ち上がると入口の戸へと歩いていった。
「服洗ってくるわ。お前のゲロ付いてんの忘れてた」
そう突き放すように言うと、マギソンを残して一人外へ出た。
井戸は納屋と母屋の間に位置していた。頭の包帯も洗ってしまおうかと考えながら備え付けの釣瓶を中に放り投げて水を汲み上げると、脱いだ上着をそのまま桶にひたし、胃液が染み込んだ変色部分をよく揉み洗いする。
この日の晩は風が強くなり始めていた。空気が肌を撫でてゆく感覚や音が大きくなっていく。
無心で洗い物に集中していると、不意に後方から気配を感じた。まだ数メートルは離れている。顔見知りならとっくに声を掛けている距離だ。
とりあえず気付いてないふりを続けると、その人物が真後ろまで接近した瞬間、ベルトリウスは頭には”ゴンッ!”と強い衝撃が与えられた。呻きを上げながら殴られた箇所を手で押さえ、前方に倒れてピタリと動きを止めてみると、頭上から下卑た男の含み笑いが聞こえてきた。
「へへっ、まずは一人……」
「おい、こっちに来い。納屋にもいるぞ」
満足げに呟いた頭上の男に対する別の男の呼び声が、納屋方面から風に乗って流れてくる。どれも初めて聞く声……だとすれば、外部の襲撃者による犯行で間違いなかった。
ベルトリウスを殴った男は呼び掛けられた仲間に合流しようと踵を返し、向こう側へ歩いていった。気配が遠ざかるとベルトリウスは薄目で周囲を確認し、敵の数を把握した。
相手は三人。自分を襲った犯人であろう間近で背中を向けている男の他に、納屋の前にもう二人潜んでいる。今にも屋内のマギソンを襲おうと戸の前に張り付いて機会を窺っている二人にベルトリウスを襲った男も合流すると、三人は息を合わせて戸を蹴り破り―― その瞬間に合わせ、ベルトリウスは体を起こして獣じみた速さで一気に納屋まで駆け抜けた。
風やざわめく草木達が、人が生み出す全ての音を掻き消してくれる。
ベルトリウスが駆ける音も、男達が勢いよく納屋へ身を乗り出す音も、そして……侵入してきた先頭の男の鼻柱に、マギソンが拳をめり込ませる音も。
「ゲボォッ!?」
「てめぇっ―― ゴフッ!?」
「なっ、なんだぁ!?」
先頭の男と間隔を詰めて並んでいた列の二番目の男は、倒れた仲間の影に隠れて迫っていたマギソンに反応する間もなく、下方から打ち上げられた拳に顎を砕かれて殴り飛ばされてしまった。
列の三番目の男……井戸の前でベルトリウスを襲った男はマギソンから鋭い眼光を向けられるなり、へっぴり腰で納屋から後退した。
「すっ、すんまひぇっ……すいまっ……グゲッ!!」
息が詰まるほど冷たい瞳にせめてもの命乞いをする男だったが、ここでようやく追い付いたベルトリウスが男の首に背後から腕を回し、喉を押し潰す形で、固定した腕を全力で締め上げてボキンッ! と、小気味よい音を立てて首の骨を折った。
ベルトリウスは腕の力を緩め、だらりと垂れた男の体を地面に落とした。冷静に応戦していたマギソンは足元に散らばる三人の男を見つめ、首を傾げていた。
「何なんだこいつら」
「知らね。野盗じゃねぇの? いやー、まさか本当に襲ってくるとはな」
この家を訪ねた時にロス達についた適当な嘘がまさか現実になるとは……二人はまじまじと襲撃者を見下ろした。
「それにしてもマギソン、お前よく飯の最中に敵に気付いたな」
「あんなの……扉の前で不自然に動く影があれば誰だって気付く」
「ふーん……ってか扉が開いた瞬間に殴ってたけど、あれ俺やロスのおっさんだったらどうしてたんだ?」
「……お前だったら殴っても痛みがねぇから別にいいだろ。あの爺はむしろ殴りたいぐらいだったし、女共の場合はお前が言い訳を考えて慰めればいい。つまり誰だろうが殴っておいて間違いはない」
「お前……薬がキマってなきゃこんなに最高なのにな……」
清々しいほどの自分本位な発言を受け、ベルトリウスは感心した表情を取った。
こんな素敵な言葉を口に出せる男がどうして過去の人間関係なんかに怯えているのか不思議でならなかった。パンを手に笑っていた、ああいった生温かい目はどうにも苦手だが、今みたいな横暴な考え方はかなり好ましい。
彼がもう一皮剥ければ、これからの旅はお互いにとって、もっとずっと楽しいものになるだろう。ベルトリウスはカイキョウを出た後のマギソンの暴れっぷりに期待を寄せた。
「あっ、井戸に服置いてきちまった」
「んなもん後でいいだろ。それより、本当に野盗なら他にも来るぞ」
「そうだな……そりゃ三人だけで襲いに来るわけないよなぁ。まっ、一般人の前だが今回は自己防衛だし、殺しても言い訳が立つな。とりあえず息のある二人は逃げないように縛っとこう」
ベルトリウスとマギソンは男達から所持品を取り上げてから、納屋にあった縄を使って彼らを柱にくくり付けて。抵抗できないように固く結び上げている最中、強風が吹き荒れる音と共に、母屋の方から何かが破壊される音と男女のけたたましい叫び声が聞こえた。
作業中の二人は顔を見合わせた。
「……襲われてる?」
「……襲われてるな」
すぐさま立ち上がると、二人は納屋を飛び出して母屋へ向かった。
遠目からでも入口の戸が突き破られているのが分かる。室内のぼんやりとした明かりに照らされ、内壁に数人分の影が映り揺れ動いていた。
建物まであと数メートルの場所まで息を殺して近付くと、ちょうど玄関口から直線上に覗ける場所に、見覚えのない屈強な男の横姿があった。襲撃者の一味だろう。その腕にはリリアが捕われていた。
男は夫妻を相手取ってリリアの首筋に刃物を当てて脅しを仕掛けているようで、外からやって来ているベルトリウス達には未だ気付いていない様子だった。ベルトリウスは疾走する勢いをそのままに家へ乗り込むと、先程の襲撃者から取り上げた小振りのナイフを男の眼球に突き立てた。と、同時に横目で夫妻の状態を確認し、そちらにも各々敵が張り付いていると分かると手元のナイフをガチャガチャと乱雑に掻き混ぜて引っこ抜き、ロスの隣で青い顔をして震えているリアーナを拘束していた賊の太もも目掛けて振り投げた。
「ゔごお”お”お”お”お”っ”!!??」
「イ”ッ”、デェーーーーッ”!!!!」
「ちっきしょ……!! ―― ギャワッ!?」
室内にいた野盗の三人、それぞれが驚愕に声を上げる。
先に負傷した二人ともう一人……背後からロスの喉元に刃物を当てていた男は仲間が攻撃されたことに気を取られ、その隙を突かれて人質であるロスから腹に肘打ちを食らい、うずくまった折に背負い投げを決められていた。
石の床に腰を強打した男は息を詰まらせ動けなくなっていた。元兵士のロスは妻子の安全さえ確保してやれば自力で対処できると踏んで手を出さなかったが、ベルトリウスの見立ては正解だったようだ。
片目から血を垂れ流して激痛に喘ぎながらも、リリアを押さえ込んでいた男は手を離さないでいた。ベルトリウスは駄目押しに、男の出っ張った喉頭に正拳突きを食らわせてやった。喉が潰れて呼吸もできず、流石に人質どころではなくなった男はリリアを突き飛ばしてその場に倒れた。
解放されたリリアを後ろに控えていたマギソンに託すと、ベルトリウスは次にリアーナの所へ向かった。
魔物となった身での投擲は、本人が思っているよりも威力があるらしい。刃は勿論、柄の部分まで深く足に突き刺さっていた。
ベルトリウスは太ももを押さえてしゃがみ込んでいる男の後頭部の髪を掴むと、俯いていた顔を上に向かせ、その顔面に膝蹴りをお見舞いした。鼻骨が砕ける音が聞こえると、近くにいたリアーナは小さく悲鳴を漏らした。力を抑えめにしてみたのだが、こちらも思いのほか威力があるみたいだ。
すっかり鼻付近が陥没してしまった男を床に転がすと、ベルトリウスは室内をぐるりと見渡した。これで敵は全て無力化した。突然多くの暴力を目の当たりにしてしまったリアーナは恐怖と安堵で腰が抜け、そばに駆け寄った夫に抱き支えられる形で近くのベッドに座らせられた。
ベルトリウスはロスに背負い投げされた男の体を無理矢理起こし、脇の下から手を差し入れて上体を持ち上げ、ずりずりと玄関口の方まで足を引きずって移動させた。痛めた腰が伸びて激痛が走った男はヒーヒーと泣いて助けを求めたが、襲撃者に対し情けを掛ける人間はこの場にいなかった。
入口の戸の前で直立していたマギソンの足元に喚く男を置くと、次は食卓の椅子で放心状態で座るリリアの横をすり抜け、彼女を捕らえていた男の状態を確認しにいく。加減をせず喉を狙ったお陰で、知らぬ間に息を引き取っていたようだ。やや大柄ではあったが、この男もまたマギソンの足元まで引きずってゆく。そして最後に、リアーナの眼前で転がる顔面陥没男も回収する。
静まり返った室内で、外から吹き付ける風音だけが重々しく響いていた。
先にマギソンに納屋まで死体連中を運んでいてもらい、ベルトリウスはすすり泣く妻を慰めているロスを一旦家の外に呼び出した。
「皆さんお怪我はないですか?」
「あ……あぁ、大丈夫だ……あんたが助けに来てくれなきゃ、今ごろ……感謝するよ、泊めてよかった、本当に……」
強風の中でも不思議と鮮明に聞き取れるベルトリウスの言葉に、ロスはたどたどしく答えた。
食事中に突然襲撃を受け、近くにいたリリアを人質に取られて身動きを封じられた……。十年前……当時のロスは息子を奪われた恨みもあり、ユージャムルに下った人間が多く暮らす市内での生活を拒んだ。不安はあったが妻であるリアーナの了解も受けて、人けのないこの地に根を下ろし、家族だけでやっていこうと決心したのだ。
元兵士である己の矜持にかけて、何が襲い来ようと必ず家族を守ると誓ったというのに……現実は厳しかった。移住して以来、運良く襲撃の経験がなかったロスの心には大きな隙が生まれていた。そして何より、いくつもの戦場を駆け抜けた体は確実に老いていた……実際に攻め込まれてみれば、この有り様だ。
ベルトリウス達の登場が数分遅れていれば、今頃……。
しょげ返ってしまった老人の情けない姿を前に、ベルトリウスは口元が緩むのを必死にこらえながら話を続けた。
「実は奴らの仲間をもう二人、納屋に捕縛してあります。後始末は俺とマギソンに任せて皆さんは休んでください」
「いや、流石にそこまで任せるのは……何かできることがあれば、俺も手伝うよ」
「奥さんと娘さんだけ家に残すのは心配でしょう? 一緒にいて安心させてあげてください」
「……すまない。だが後始末っていうのはつまり……殺すんだよな? 大丈夫だろうか、その、報復とか……」
「他に仲間がいるかは尋問してみないと分かりませんが、仮にここまで痛めつけておいて生かして返しても、それこそ報復に戻ってくるだけでしょう。まぁ、あなたが止めろと言うなら解放してやりますが」
「……いや、忘れてくれ。全てあんたに任せるよ……」
疲弊した様子のまま、ロスは家の中へ戻っていった。ベルトリウスも己のなすべきことに取り掛かるべく納屋に向かう。
中に入ると、ちょうど小屋の真ん中の辺りで地面に横たわりながら、背負い投げをされた男が滝のような汗を流してベルトリウスを凝視していた。フーフーと荒い息を立て、まるで化物を前にしているかのような目付きでこちらを見つめている。……その隣では冷めた夕飯を無表情で食べ進めているマギソンがいて、場違いな光景に思わず噴き出してしまった。
ベルトリウスは焦らすようにゆっくりとした足取りで男に歩み寄ると、震える表情を頭上から覗き込んで心底面白そうに口元を歪めた。
「お待たせ。さぁ、楽しいお喋りを始めようぜ」
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