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隷属の刻印

《彼女だけのもの》

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「アリス」
「はい」
 魔妖の刻印。隷属の刻印。
 支配と隷属の鎖によって、半ば強引に縛め、結びあわされた二つの身体、二つの、魂。

 ゾーイが、アリストラムに刻んだ。

「刻印って」
 本当は、聞きたくもなかった。
 だが、聞かなければ。
 その真実をアリストラムの口からはっきりと語ってもらわなければ。
 ラウにはどうすることもできない。

「刻印って、何」

 怖い。
 本当のことを、アリストラムの口から聞かされるのが怖い。
 ラウは、思い詰めた顔を上げてアリストラムの刻印を見つめた。

「どうして、それが、ゾーイの名前なの」

 アリストラムは、目を瞠った。
 遠くに眼をやるような素振りで過去を見つめ、かすかに表情を動かす。

「貴女には、この刻印が、ゾーイの名に見えるのですか」

 静かな声が、反対に聞き返してくる。
 ラウは唇を噛み、わずかにうなずいた。

「そうですか」
 アリストラムは眼を閉じた。
 ちいさく、何度も得心したようにうなずき、やがて長いため息をつく。その口元は、遠い幸せな日々を思い浮かべる微笑みにゆるんでいた。

「何と書いてあるのですか」
「アリスにも読めないの?」
「人間には読めないのです。おそらく表音文字でも、表意文字でもない。いわゆる言葉をしるした文字ではないからでしょう。強いて言えば、”想い”をあらわす文字、とでも言えばいいのか」

 アリストラムは、刻印に手を触れた。

「これが誰によって刻まれ、何をさせるものなのか知ってはいても、その刻まれた心そのものは、私には見えない」
 淡々とつぶやきながら、おもむろに、どこか愛おしげに、罪のしるしを指先でなぞる。
「でも、あのときは嬉しかったのです。ゾーイに刻印を刻まれたことが。自分が《彼女だけのもの》になったことが」

 この世で一番、愛してる。
 あたしゾーイの、あたしだけの、アリストラム。あんたを。

 涙が滲む。
 泣いていいのか悪いのか、よく分からなかった。

 ゾーイは、きっとアリストラムのことを心から愛していたに違いない。誰よりも激しく、誰よりも美しく。誰よりも生きることを謳歌していたゾーイだからこそ。
 だから、その、情熱のすべてを受け止めて欲しくて。
 《隷属の刻印》に自分の名を刻んだのだろう。

「刻印は」
 アリストラムは、ラウの眼に浮かんだ涙を指の背でぬぐった。

「魔妖が、所有すると決めた人間を奴隷とするために刻むしるしだと言われています。要するに《家畜》ですね。刻印を刻まれた人間は、魂の所有者である魔妖にすべてを捧げる。飼われ、食われ、いずれ身も心も魔妖の糧になるのが定めです。私はできませんが、魔妖、あるいは特別な術を会得した神官は、刻印を使って、その人間の魔力を自由に操ることが出来るようです。先ほどのレオニスもその一人です。レオニスは、刻印を通じてミシアの心を《支配》し、命を魔力そのものに変えて《攻撃》するよう《命令》した。この印は、人間を人間ではなくするもの。魂を欠落させた人形であることを示すしるしなのですよ」

「支配……」
 アリストラムはラウの眼をまっすぐにのぞき込んだ。
 ラウの涙が、アリストラムの瞳に映り込んでいる。

 透き通るような紫紅の瞳。だが、その奥にあるのは底しれぬ闇だった。

「そして、貴女もまた、今、刻印を通じて私を支配している」
 アリストラムは、ラウの頭をそっと撫でた。

 ラウは声を呑んだ。
「うそでしょ……?」
「私は貴女に嘘をつけない」

 心臓が、どきりと跳ねる。
「そんなのやだ……」
「ありがとう、ラウ。でも、もう私にはどうしようもないことなのです」

 アリストラムはまるで他人事のように話を続ける。

「一度、刻印を発動させてしまえば、それ以降、刻印の力を励起させたものの命令には逆らえなくなります。たとえ、何があっても」
「そんな話聞きたくない」

 ラウは耳を塞ごうとした。アリストラムはラウの手を取る力を強める。

「お願いです、ラウ。最後まで言わせて下さい。刻印を操れるのは貴女やゾーイのような、いわゆる上位魔妖種だけです。今、貴女が私に黙れと言えば私は黙るしかない。同様に、今、貴女が私に死ねと言えば私は喜んで自ら命を絶つでしょう。その意味が分かりますか」

 ラウは耳を押さえたままかぶりを振った。

「わかんない。何言ってんのかぜんぜんわかんない……!」
「逃げずに聞いてください、ラウ。これは、とても、大切な……こと……」

 アリストラムの秀麗な表情がみるみる苦悶に彩られ、ゆがんでゆく。

「もし、他の魔妖に私が刻印を持つことを知られたらどうなると思います。だから……すべてを、話せと、早く、言って……命令してください」

 思いも寄らない言葉にラウはぎくりとした。

「まさか、苦しいの……?」
 呆然とアリストラムを見上げる。

「いいえ……苦しくなどありません。たとえ、貴女が、望まなくても、この真実だけは……絶対に伝えなければならないのだから」
「アリス」

 ラウは手を伸ばした。アリストラムの頬に触れる。

「ごめん。話の続きを聞かせて。お願い」

 アリストラムは、力尽きたような吐息を漏らした。
 しばらくの間、目を閉じ、眉根を苦悶の形に寄せて息を整える。

「ありがとう。これで話を続けられます」
 ようやく口を開く。
「先ほども言ったように、魔妖の刻印を刻まれたものは自分の意思に関係なく魔妖の命令に従います」

 事務的な声が頭上を流れてゆく。その耐え難い距離感に、ラウは身体を震わせた。
 はだけられたままのアリストラムの胸。心臓があるべき位置に、まるで影絵を映し出したかのように、ゆらり、ゆらりと、黒い花の形をしたあざがうごめいている。

「取ったり、はがしたり……できない?」
「そんな術があるなら、とっくの昔に試していますよ」

 アリストラムは微笑んだ。
 ラウは身を乗り出してアリストラムの両手を握りしめた。

「だったら、他の奴に刻印を見せなきゃいいんだ。今までアリスがあたしを守ってくれてたみたいに、これからはあたしがアリスを守るよ」
「ありがとう、ラウ」

 残酷な未来を予言するかのように、アリストラムは目を伏せる。

「そのお気持ちだけで十分です」
 アリストラムは握ったラウの手を口元へと持ってゆき、戴くようにして触れ、口づけた。

「だから、これだけは必ずお願いします」
 吐息のような声が、からめた小指の先をかすめる。

「もし、私が、《他の誰か》に支配されるようなことになったら」
 銀の髪が揺れる。

「もし、私が、貴女に仇なすようなことがあったら」
 声を押し殺して、静かに語りかける。

「そのときは、必ず《命じてください》」

 それはまるで豪雨のさなか、闇をどよもす雷鳴のようだった。

 アリストラムの唇だけが動いている。
 他には、何も聞こえない。
 風も、水の音も。

 何も。
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