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レイディ・ニコラ、忘れ得ぬ夜に君と、偽りの愛を

「信じる理由なんて……まだないけど……でも信じたっていいじゃないですか」

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「くさび……ばんじゃく……」

 ニコルは、ぼんやりと薄目を開けた。微熱のせいか、視線がうつろにさまよっている。薔薇の瞳も、やけにとろんとした艶を帯びて見えた。

「信じる理由なんて……まだないけど……でも信じたっていいじゃないですか」
「その気持ちだけで十分だ。あとは私に任せておとなしく寝てろ」

 チェシーは、ニコルの額のタオルを引っ張って目の上にまで引き下ろした。表情の半分が隠れる。ニコルは、わずかに首をよじってあらがった。

「いやだ、僕はぜったい寝ないぞ……」
「まるでだだをこねる子供だな」

 チェシーは自嘲気味に低く笑う。その気になれば、このお人好しを騙すことなど、赤子の手をひねるより容易いだろう。

 もし、この少年がアーテュラス内務卿の嫡子たる子爵でなかったならば。

 この若さ、この頼りなさで、数万の命を預かる師団長に抜擢されることなど、決してなかったに違いない。師団参謀にザフエル・フォン・ホーラダインを就けたのは、信用できない七光り登用人事への抵抗と見るべきか。

 チェシーはくちびるをぐいとひきしめる。
 いや、違う。そうではない。
 奇妙な確信が湧いた。

 ニコルの手甲バングルに留め付けられたルーンの輝きは、唯一無二の二柱だ。

 七光り、というだけの理由で、士官学校を卒業したばかりの若造が、公国軍の最高位称号である元帥を拝命し、防衛のかなめたる師団を指揮するなど。
 あり得るはずがない。

 実際問題として、ティセニアにはもう、お遊びの傀儡をかつぐ余裕などないはずだった。
 ゾディアック帝国軍が攻略に手間取っているのは、ノーラス城砦が守る山岳国境線だけ。他方面は、何万という死者の呪詛で満ちている。潮が満ちるように、波が引くように。土地を奪い、支配し、踏みにじり、容赦なく焼き払い憎み合い殺し合って。

 ひっかかる。何かが。ひりつくような何かが。

「君にだけは本当のことを言っておく」

 チェシーの表情に、もはやいつものふざけた笑いはない。鋭い眼に、切っ先にも似た眼光が宿って、ニコルを刺し殺すかのごとく見おろしている。

「私がゾディアックに弓を引くのは、それが祖国を守る最も正しい方法であると信じるからだ。内からでなく外からでなければ」

 聞こえているのかいないのか。ニコルは返事をしない。
 ごろんと背中を丸めて寝返りを打つ。またタオルが枕元に落ちた。見れば、毛布にちぢこまって頭から潜り、すぅすぅと寝息を立てている。

「なにっ」
 チェシーは拍子抜けして、笑った。椅子から立ち上がる。
「ちゃんと最後まで聞けよ。人が珍しく真面目な台詞で決めてやったというのに」

 続けて何か言いかけ、思い直したように口をつぐんだ。肩をすくめる。その表情にはもう、さきほどの殺伐とした様子はない。
 チェシーは窓に近づいた。
 半分閉じたカーテンを指先でちらりと開けて、暗い緑にけむる外の景色を見やる。

「たぶん、私は、君の信頼に足るほど誠実な人間ではないよ」

 雨はまだ、止みそうにない。


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