50 / 54
レイディ・ニコラ、忘れ得ぬ夜に君と、偽りの愛を
「信じる理由なんて……まだないけど……でも信じたっていいじゃないですか」
しおりを挟む
「くさび……ばんじゃく……」
ニコルは、ぼんやりと薄目を開けた。微熱のせいか、視線がうつろにさまよっている。薔薇の瞳も、やけにとろんとした艶を帯びて見えた。
「信じる理由なんて……まだないけど……でも信じたっていいじゃないですか」
「その気持ちだけで十分だ。あとは私に任せておとなしく寝てろ」
チェシーは、ニコルの額のタオルを引っ張って目の上にまで引き下ろした。表情の半分が隠れる。ニコルは、わずかに首をよじってあらがった。
「いやだ、僕はぜったい寝ないぞ……」
「まるでだだをこねる子供だな」
チェシーは自嘲気味に低く笑う。その気になれば、このお人好しを騙すことなど、赤子の手をひねるより容易いだろう。
もし、この少年がアーテュラス内務卿の嫡子たる子爵でなかったならば。
この若さ、この頼りなさで、数万の命を預かる師団長に抜擢されることなど、決してなかったに違いない。師団参謀にザフエル・フォン・ホーラダインを就けたのは、信用できない七光り登用人事への抵抗と見るべきか。
チェシーはくちびるをぐいとひきしめる。
いや、違う。そうではない。
奇妙な確信が湧いた。
ニコルの手甲に留め付けられたルーンの輝きは、唯一無二の二柱だ。
七光り、というだけの理由で、士官学校を卒業したばかりの若造が、公国軍の最高位称号である元帥を拝命し、防衛の要たる師団を指揮するなど。
あり得るはずがない。
実際問題として、ティセニアにはもう、お遊びの傀儡をかつぐ余裕などないはずだった。
ゾディアック帝国軍が攻略に手間取っているのは、ノーラス城砦が守る山岳国境線だけ。他方面は、何万という死者の呪詛で満ちている。潮が満ちるように、波が引くように。土地を奪い、支配し、踏みにじり、容赦なく焼き払い憎み合い殺し合って。
ひっかかる。何かが。ひりつくような何かが。
「君にだけは本当のことを言っておく」
チェシーの表情に、もはやいつものふざけた笑いはない。鋭い眼に、切っ先にも似た眼光が宿って、ニコルを刺し殺すかのごとく見おろしている。
「私がゾディアックに弓を引くのは、それが祖国を守る最も正しい方法であると信じるからだ。内からでなく外からでなければ」
聞こえているのかいないのか。ニコルは返事をしない。
ごろんと背中を丸めて寝返りを打つ。またタオルが枕元に落ちた。見れば、毛布にちぢこまって頭から潜り、すぅすぅと寝息を立てている。
「なにっ」
チェシーは拍子抜けして、笑った。椅子から立ち上がる。
「ちゃんと最後まで聞けよ。人が珍しく真面目な台詞で決めてやったというのに」
続けて何か言いかけ、思い直したように口をつぐんだ。肩をすくめる。その表情にはもう、さきほどの殺伐とした様子はない。
チェシーは窓に近づいた。
半分閉じたカーテンを指先でちらりと開けて、暗い緑にけむる外の景色を見やる。
「たぶん、私は、君の信頼に足るほど誠実な人間ではないよ」
雨はまだ、止みそうにない。
▼
ニコルは、ぼんやりと薄目を開けた。微熱のせいか、視線がうつろにさまよっている。薔薇の瞳も、やけにとろんとした艶を帯びて見えた。
「信じる理由なんて……まだないけど……でも信じたっていいじゃないですか」
「その気持ちだけで十分だ。あとは私に任せておとなしく寝てろ」
チェシーは、ニコルの額のタオルを引っ張って目の上にまで引き下ろした。表情の半分が隠れる。ニコルは、わずかに首をよじってあらがった。
「いやだ、僕はぜったい寝ないぞ……」
「まるでだだをこねる子供だな」
チェシーは自嘲気味に低く笑う。その気になれば、このお人好しを騙すことなど、赤子の手をひねるより容易いだろう。
もし、この少年がアーテュラス内務卿の嫡子たる子爵でなかったならば。
この若さ、この頼りなさで、数万の命を預かる師団長に抜擢されることなど、決してなかったに違いない。師団参謀にザフエル・フォン・ホーラダインを就けたのは、信用できない七光り登用人事への抵抗と見るべきか。
チェシーはくちびるをぐいとひきしめる。
いや、違う。そうではない。
奇妙な確信が湧いた。
ニコルの手甲に留め付けられたルーンの輝きは、唯一無二の二柱だ。
七光り、というだけの理由で、士官学校を卒業したばかりの若造が、公国軍の最高位称号である元帥を拝命し、防衛の要たる師団を指揮するなど。
あり得るはずがない。
実際問題として、ティセニアにはもう、お遊びの傀儡をかつぐ余裕などないはずだった。
ゾディアック帝国軍が攻略に手間取っているのは、ノーラス城砦が守る山岳国境線だけ。他方面は、何万という死者の呪詛で満ちている。潮が満ちるように、波が引くように。土地を奪い、支配し、踏みにじり、容赦なく焼き払い憎み合い殺し合って。
ひっかかる。何かが。ひりつくような何かが。
「君にだけは本当のことを言っておく」
チェシーの表情に、もはやいつものふざけた笑いはない。鋭い眼に、切っ先にも似た眼光が宿って、ニコルを刺し殺すかのごとく見おろしている。
「私がゾディアックに弓を引くのは、それが祖国を守る最も正しい方法であると信じるからだ。内からでなく外からでなければ」
聞こえているのかいないのか。ニコルは返事をしない。
ごろんと背中を丸めて寝返りを打つ。またタオルが枕元に落ちた。見れば、毛布にちぢこまって頭から潜り、すぅすぅと寝息を立てている。
「なにっ」
チェシーは拍子抜けして、笑った。椅子から立ち上がる。
「ちゃんと最後まで聞けよ。人が珍しく真面目な台詞で決めてやったというのに」
続けて何か言いかけ、思い直したように口をつぐんだ。肩をすくめる。その表情にはもう、さきほどの殺伐とした様子はない。
チェシーは窓に近づいた。
半分閉じたカーテンを指先でちらりと開けて、暗い緑にけむる外の景色を見やる。
「たぶん、私は、君の信頼に足るほど誠実な人間ではないよ」
雨はまだ、止みそうにない。
▼
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
35
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる