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第一章

【もうがんばりたくない】●

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 ──それがいつの頃だったか、もうぼくは覚えていない。


 朧気で、曖昧な記憶。
 体の自由が利かない代わりに意識だけがはっきりとしているような、夢見心地のような感覚の中。ぼくは目の前がやっと明るくなった事に気付いた。

「そなたは選ばれし勇者だと神託があったのだ」 

 それは遠い日の出来事だった。
 ぼくは初めて目の当たりにする自国の王を前にしてひざまづき頭を垂れたまま、その真剣な声を聞いていた。
 信じられない気持ちに勝ったのは、戸惑いと疑心だった。

「俺が……勇者ですか」 

 近くに立っていた荘厳な鎧姿の男が幾重も捻れ絡み合う様に作られた槍の石突で床を叩いた。ポツリと洩らしたその声を咎める様なその威圧にぼくは気圧され、それ以上何も喋れなかった。
 職人の手によって織り成された豪奢な絨毯の緋色を見下ろして、それから玉座の間にぼく以外にも王宮関係者でない者がいる事に気付いた。視線を横に向けた先に数人立っていた、彼等の腕に巻かれた帯には男女が耳を傾ける様相を表した腕章が縫いつけられているのが見えた。
 彼等は、伝聞を紙に記し民にそれを運ぶ役目を担う。『記者』と称され、城下町で人々に情報を与える組織の一員だった。

「聞け、神託の勇者よ。
 今の世を邪悪で混沌とした世界に変えているのは東の大地を統べる『魔王』が全ての元凶よ。あらゆる魔物は彼の王が生み出し、統率し、人間と人間に並びし我等が愛しきしもべの種族どもを脅かす真の悪である!
 これなる巨悪を退けるにはそなたの尽力と献身が必要であろう。しかし猶予の刻はもはや残されておらず、そなたには死力を尽くして貰う他に無い。
 神に選ばれし勇者よ。我が国を、我が愛するこの世界をどうか救ってほしい!!」 

 玉座の間に挙がる拍手喝采の音を、ぼくはただ俯いたまま聴いていただけだった。
 記者たちは王様の宣告が終わったのと同時に大勢の書記官とそれらを代表とする貴族に連れられて退室して行く。
 酷く楽しそうな表情を誰もが浮かべていたのをぼくは不思議に思っていた。

 暫しの後。
 ぼくはただその場で頭を垂れたままでいることを強制されたまま、王様たちが何か呪文を唱えているのをじっと聞きながら待ち続けた。
 聞いた事のある声だ。その声が誰の物なのかは、ぼくの頭に水が掛けられた事で思い出された。
 ぼくたちが暮らすこの国──西の大陸を統べる王国『エスト』において信仰を担う、エスト神聖教会の教皇だった。
 教皇様はぼくに聖水を振り撒き、祈りの呪文を唱えていた。それに意味があったのかは分からないけれど、少なくとも後に相対した魔物達を退けてはくれなかったのは確かだ。

「これで彼は神の寵愛を授かる事でしょう」

「ではフューラーよ、これをその者に」

 教皇様は王様の言葉に無言で返事をしたらしく、ぼくの横でプレートと刃で護られた鎧の騎士が再び石突を床に振り下ろしていた。
 そんな騎士を無視した教皇様はぼくの前でびちゃびちゃ、と聖水を撒いた。違う、ただ撒くのではなく……王に手渡された一枚の金貨を聖水と共に手の中から流していたらしい。
 豪奢な装飾の水差しを手にした教皇様はぼくの前に水と金貨を転がして「面を上げなさい」と言った。
 ぼくは教皇様の声に応じて顔を上げると、目の前に転がされていたそれは100の値をひとつ示す刻印のされた金貨だった。
 それ一枚で買える物は何だろう、食糧なら一月ひとつき分だ。
 衣類なら安価な物で十五枚。防具は革の物すら届くか微妙、武器なら拾った方がマシな物しか買えない金額だ。

「勇者よ。あなたはこれより如何なる資産があろうと、魔王討伐の旅へはその聖金貨一枚から始めねばなりません」

(……これだけで旅に出ろと?) 

 教皇様はぼくを無表情のまま見下ろして言った。
 どういう意味か分からないぼくはただ困惑したように、口を開いたまま金貨を拾い上げて小さく首を傾げる。教皇様の目は笑っていない。何故そんな瞳でぼくを見ているのかやはり分からず、意を決して声を出そうとした。
 けれど玉座の間にガツンと大きな音が鳴り響く。
 肩を僅かに跳ねさせたぼくは音の鳴った方を見て、鎧兜の中から睨みつけている騎士と目が合ってしまった。
 『なにも言うな』──確かに彼がそう言ったような気がした。

 絶句するぼくはただ気圧されたまま。
 教皇様と王様の二人に向けてもう一度頭を垂れて「お任せ下さい」としか言えなかった。

 その絞り出すような情けない声にだけは、鎧騎士は何の反応も示さなかった。





 神託の儀があった日の記憶が崩れ落ちて、ぼくは気がつけば湿った空気の中に立っていた。
 ぼんやりと霞がかった視界は直ぐに晴れて。次いで周囲に人の気配と景色が広がる。
 鬱蒼とした森の中。
 朝露で濡れた土を踏むぼくを囲うのは仲間と、神妙な面持ちの男達だった。


「勇者様! どうかこの村を救って下され──!」


 ああ──思い出した。
 これは神託の儀があった日から一月ひとつき経った頃に立ち入った村での出来事だ。
 ぼくはあの日から、エスト王国首都近辺で鍛錬を兼ねた魔物の賞金首討伐を繰り返して資金を稼いでいた。
 日々重ねて行く命のやりとりは自然と戦いへの感覚を研ぎ澄ます癖を、多くの人が見ている魔物への恐怖心を、魔物という存在が生きている意味を、ぼくは学んだ。
 そうする事で、勇者としての使命に埋もれそうな自分の視界が拓ける気がしたから。
 だから、ぼくは村を脅かす魔物の討伐を願う村長に何の疑問も抱くことはなかった。助けたいと思ったし、魔物の事も気掛かりだったから。


「勇者様。彼等を助けてあげましょう!」

「勇者ならやるべきだぜ!」


 それに、この頃のぼくには仲間が出来たばかりだった。
 王国エストと並び神聖教会から選抜された二人の女性。神官である『ルシール』と、ぼくの指南役も兼ねた戦士『ノエル』が共に戦ってくれていた。
 なぜ旅の仲間がもっと屈強な戦士ではないのかとぼくは思ったりもした。それに対する答えはとても単純な事で──神託を受けたぼくよりも彼女たちは秘めた力を持っていたからだった。
 だから……不安な事は幾つもあったけど、この時のぼくは彼女達がとても頼もしく思えてしまっていて。
 つい甘える事も多かった。

「……うん」

 安直な考え。ひとつひとつの行動を経た結果を、考える事をしなかった。
 彼女たちの意思を確認したつもりになって、ぼくは自分が勇者だという事を半分忘れて決断した。



 ──村がそれほど王都から離れていない事を考えれば、探索と討伐を兼ねた依頼は騎士団に回すべきだった。

「勇者様、このスライム怪我を……まぁ──! こんな魔物もいるんですね。
 人型のスライムなんて……彼女に敵意は無いみたいですし、見逃してあげられませんか、勇者様?」


 ──畑を荒らしていたスライムを助ければ村人にどう思われるのか、考えればすぐ分かる事だったのに。

「そのスライムは……! ゆ、勇者の仲間だったのですかな? 村を荒らしていた魔物とは──いや、何も言いますまい。勇者様はお急ぎの旅をしているのでしょう? 早く旅立ってはいかがか!」


 ──懐いて、仲間になったから? そんな理由で魔物を連れ歩いていて問題ない訳が無い。

「魔物を連れているなど、貴様が勇者なわけあるか!」

「殺せ!!」

「や、やめて! この娘は悪い魔物じゃないのに!」


 ──もっと、ぼくが考えていれば。
 ──ぼくがもっとしっかりしていれば。

 ──でも震えていたんだ。
 ──魔物だって怖いと思う感情がある、誰かが……守らないといけなかった。



「てめぇら……勇者を切りやがったな!」

「勇者様! ああ、血がこんなに──」 

「魔物を連れて来やがった癖に、何が勇者だ! お、お前たちなんか、魔王の手先だ!」

「言ったな……いいぜ、エスト王国の威光と勇者様の使命に逆らう気なら。あたしがてめぇらを斬ってやる」

「だ、だめだよ……同じっ、人なのに……殺し合ったらだめだよ……!」 


 ──止められた筈なんだ。
 ──魔王軍に苦しめられていた町の人達の狂気だって、ノエルの暴走だって。


 ──ぼくがもっと強ければ、彼女たちを孤立させずに済んだ筈なんだ。

「どうして教会は支援を送ってくれない!」

「……先日の町での戦闘、それによる被害を王国は黙認する方針を定めたそうです。神聖教会も──全ては神の御意思なのだ……と」


 ──全てはぼくのせいだ。

「……これは勇者様の、『試練』なのだそうです」





 記憶が崩れ落ちては、また別の記憶を繰り返す。
 それを泡沫の夢と呼ぶには鮮明で、鮮烈だ。何か一つでも都合の良い景色が映ればいいのに、ぼくが立つその場所と人々の出来事は何もかもありのまま。
 ……悪夢のような走馬灯だった。

「勇者は魔王の手に堕ちた殺人鬼だ──!」
「化け物を殺せ──!」

「────奴らを殺せ────」

 ずっと、世界はぼくたちの敵のように思えた。
 そうではないと縋る様に信じていられたのは、確実に魔王という存在がいるからだ。
 魔王さえ倒せば皆が正気を取り戻すと、心の何処かで思っていた。いつか分かり合えるのだと、ぼくたちは……。
 ノエルは。

 魔王の城まであと少しという所で、立ち寄った隣国都市の民衆に迫害を受けてしまったぼくたちは孤立無援のまま──魔王配下の四天王を名乗る魔人に襲われた。
 三里12kmもの超広範囲を焼き尽くす炎の魔人の絶大な力。その能力は人々を守らなければならない勇者としての使命を帯びたぼくにとって、これ以上なく辛い相手だった。
 大勢の命を失ってしまった。
 ぼくは助ける事も救う事も出来ず、ただ魔人と戦って撃退に追い込んだだけだった。

「ノエルさん……」

 倒す事も満足に出来なかったぼくは、魔人の炎から民衆を庇って重傷を負ったノエルに何度も謝った。
 彼女はルシールの使う癒しの奇跡をどれほど重ねても回復せず、恐ろしい早さで衰弱していった。
 呪いを幾重にも連ねた四天王が操る魔術は、神の奇跡では癒せない。火傷から拡がろうとする延焼の呪詛を止めるには、ぼくの身体に流れる血を分け与える事だけ。
 それでも症状の緩和と進行を遅らせるのが精々で、彼女は声を出すのも辛そうだった。ぼくが謝る度に首を横に振る姿はあまりにも痛々しかった程に。
 せめて……都市での治療を受けて安静にしていられたら、そう思わずにはいられなかった。


 ──何がいけなかったのかを考えても、キリがないのは分かっていた。


「王は貴様らを切り捨てる事にした。神聖教会も同じく決断した、もう逃げ場は無いと思え」

「……世界はどうなるのです? ここで、勇者を失って……人類が本当に勝てると思っているのですか?」

 それは本来、人々の安寧と王国エストの秩序を守る為にある刃。
 ぼく達に向けられた王国騎士の剣は酷く冷たい色をしていた。
 傷ついたノエルを庇いながら騎士達の相手をしていたぼくに代わり、騎士団長に詰め寄ったルシールの声がとても震えていたのを憶えてる。

「──新たな勇者は既に我等の下に降臨された。貴様らはここで死ぬ事で救済の礎となるのだ」

 何かが壊れる音。
 ひび割れた記憶の中で見つめるぼくは、ノエルを背負う事でその表情が見えない。
 言葉を失くしたルシールを片脇に抱える最中、騎士達が一斉に突撃する。
 けれどその刃がぼく達に届く事は無かった。
 降り注ぐ雨の中、巨大化したスライムの少女がぼく達を守ってくれていた。

「……ッ」

 王国騎士団は弱くない。
 躊躇するぼくの前で切り刻まれながらも水の天幕で覆い守護してくれていたスライムは、いつしかぼくの前でいつものように姿形を造って見せた。
 震える口を、ぼくは読み取る。

『────にげて』

「……っ、逃げろって言ってんだよ。勇者ぁ!!」


 記憶が崩れ落ちる。
 ノエルに叱咤されたぼくは硬直しかけた体を動かして、その場から逃げ出した。
 仲間を、ぼくが助けて連れ出してしまった魔物を置き去りにして。


 ──ぼくのせいで失われた命は確かにある。

 ──贖罪など叶わない。失われた物は二度と戻らない事を、ぼくはよく知っていた。

 ──だからぼくは。


「ルシール、さん……?」

 魔王の城を包む茨の結界を壊す手掛かりを探っていたある時、ぼくは自分の不注意の所為で大切な人を失ってしまった。
 ノエルが傷つき、日を追う毎に弱っていく姿を見ていたからかもしれない。
 そんな風に考えるのは彼女を逃げ道にしているみたいで自分が嫌だったけど、そうでないならやはりぼくがルシールを殺したような物だ。

 ある時に疲れ果てていたぼくたちを村へ招いてくれた、エルフの少女。彼女に気を許したのとルシールが目の前で殺されたのは同時だった。
 エルフは、人間と相容れない存在だ。
 文化が違う、見た目も違う、信仰も、食べ物も、そして互いへの認識──憎悪の質が違う。
 ぼくはそれを人間と同じものだと勝手に勘違いしていた。人間なら、同じなのだと勘違いしてしまっていた。
 人間と変わらないからこそ、最も異なる存在だと警戒しなければいけなかったのに。

 あろうことか、ぼくは彼女に『恋』を求めてしまった。
 いだくべきじゃなかった。
 疲れ果て傷ついていたのはぼくだけじゃなかったのに、どうして──救うべき彼女に救いを求めてしまったのだろう。

「■■■■■■! ■■■、■■■■■■■■■■■■……!!」

 崩れる。
 壊れて行く。
 エルフの狂笑を合図に無数の悪意と殺意がぼくとノエルに向いた直後、ぼくは剣を手に取った。
 それを境にこの記憶は、壊れたんだ。





 ──ああ、思い出してしまった。

「………もう少しってさ、何がもう少しなんだ?」

 ノエルとの最期の会話。
 引き摺るように背負った彼女をぼくが励ましながら魔王の城へ乗り込もうとしていた時、彼女は呆れたように言った。
 耳元なのに……酷く掠れた小さな声だった。

「……勇者は、がんばり屋だなぁ……おまえ」

 諦めるなとぼくはノエルに言い聞かせようとしたのを遮るように、彼女はまた掠れた声でそう言った。
 どうして? と聞こうとしたぼくの頬を、大木を切り倒すような凄い剣技を見せてくれた彼女の傷だらけの手が撫でた。

「──故郷にも帰れなくて、村にも町にも受け入れて貰えないのに。世界を救うには人間も敵になるのに……よくがんばれるよなぁ」

 そんな言葉を彼女はぼくに言って、背中から重みが消えてしまった。
 彼女はぼくの言葉なんて何も聞いてないようだった。
 何を言おうと、励まそうと、ずっと彼女は何かを考えていた。
 崩れ落ちて地面に転がってしまったノエルの亡骸を見下ろしながら、ぼくは──彼女が考えていた事がそんな事だったのかと。言い様の知れない感情に心がとても冷たくなってしまった。





「ぐぁ、あ……ッ! 勇者、何故それほどまでの力を有していながら──人間の味方をする!」

 朧げな記憶。
 崩れかかった砂の城の様なその光景は、ぼくが魔王の城に乗り込んで最後の四天王となった炎の魔人と一時交わしていた会話だった。
 ぼくの全身を劫火で炙りながら胸を貫かれた魔人はずっと何かに怒っていた。

「……しらない」

 ぼくは誰の味方でもない。
 首を横に振りながら、もう一度魔人の胸を刺し穿つ。

「ぐ、ヌゥッ──!! は、ァ……数多もの村や町を救い、世界を救う為に戦って何が楽しい! その為に、どれだけの命を見捨てた!?」

「……楽しくない」

 何も、楽しい事はなかった。
 ぼくは魔人の胸を抉り貫いた。

「あのエルフに恋をしていたんだろう! はぁ、ハァ……ッ、ゴフッ。ぐ……エルフに騙されても尚、人の味方を……なぜ、するのだァ……!」

「……ぼくが好きだったのはルシールさんとノエルさんだけだよ」

 気づけば。
 ぼくの身を焼き焦がしていた炎の呪詛が消えて鎮まりかえっていた。
 もう誰もぼくに問う人はいなかった。ただ、手の中に残っていたのは知らない誰かが用意した勇者の為の剣が一本。
 あれだけの言葉と感情を露わにしていた魔人はどこにも居なかった。

「もういい」

「もう……いい、んだ」

 崩れ落ちる記憶の狭間で、ぼくはやめてくれと願った。
 もう何も見たくない。
 もう、すべて終わらせてほしかった。





「────ばかな」

 全てを終わらせてくれると思って挑んだ魔王には、お互いの心臓を貫いた相打ちで勝利した。
 避けなかったわけじゃない。
 死ぬつもりもなかった。
 全身全霊で戦った結果が、たまたま自らの命を散らす事になったというだけ。
 そして……ぼくは自分や魔王が思っているよりも死までの道のりが長いように作られていただけだった。

 痛くて、辛くて、苦しくて。
 剣を握る手の指先に返される感触は、人と変わらない事がとても悲しくて。
 ぼくは。

其方そなた、何故に泣いている……我を倒して嬉しいか」

 互いを貫く刃は。そのうち一方が黒い霧と化して消え、もう一方は力無く手放した事で地面に落ちた。
 識別阻害の呪詛を纏う魔王は、ぼくでもその素顔を見る事は出来なかった。けれどその声音と出で立ち、振る舞いと戦う動作には女性特有の物があった。
 四天王たち魔人と同じだ。
 彼等は皆、女性だ。なぜそれが人の世に仇なす様になったのかは誰も答えなかった。だから……敵意の無い問いを彼等から掛けられたのは、とても久しぶりに思えた。
 ぼくは消えゆく魔王の前で項垂れながら首を振った。

「……もういやだ」

「──? 何がだ」

 もうすぐ消滅する彼女には聴こえないのだろう。
 だがぼくにはずっと聞こえていた。魔王と相打ちになった瞬間から、ぼくの魔力が著しく失われた事を知った者達が虎視眈々と機会を見定めていたのだ。
 足音の数は数百を下らない。

 魔王が小首を傾げたように像のブレた頭部を揺らした直後、玉座の間に彼等は攻撃魔法を使った突撃をして来た。
 勢いよく開放された扉が轟音を響かせて転がる最中。
 そこに現れた騎士達は紛れもなくぼくを勇者として送り込んだ王国エストの騎士団だった。

「突撃だ! 今ならば勇者も魔王も弱っている! とどめを刺すのだ────!!」

 騎士団長の顔は鎧のせいで見えなかった。
 ただ、ぼくにはもう手加減をする余力が無かった──だからだろう。あれほど強かった彼等はこの時ばかりは酷く脆くて、壊れやすかった。
 頭の中が揺れる。
 視界に、魔王の驚く様子が映った気がした。

 ぼくは突撃して来た騎士団を全員倒した。
 玉座の間に拡がる血溜まりを見下ろして、ぼくは他者を癒す魔法が使えない事を改めて嘆く事しか出来ない。
 もう何のために生きようとしているのかも分からなくなりそうだった。

「これであとは魔王が死んだら……何か変わるかな」

「──さあ……な」

 血塗れの手を見つめながら呟いた言葉に返された声は、ノエルの時と同じように掠れていた。
 黒き蝶を従えた魔王、彼女は消える。
 もうじき、ぼくも同じか──或いは寂しく此処に骸を晒す事になるはずだ。
 とめどなく溢れ出ている血の流れは刻一刻こくいっこくと量を増していて、意識や指先の感覚を失われていないのはひとえにぼくが戦う為に作られた勇者だからなのかも知れないと思った。
 心臓の鼓動が感じられず痛む胸を撫で下ろしながら、ぼくは魔王を見た。
 いつの間にか、消えつつある影の像がぼくの傍に歩み寄って来ていたからだ。

「……勇者」

「なに」

「──其方そなたの眼は斯様に死んでいるのだな」

 頭を揺さぶる感覚にぼくが振り向く。
 でもそこには崩れかけた魔王城があるばかりで、何もない。
 記憶の中にある光景を見渡しながら、ぼくは自分と魔王の二人にもう一度目を向ける。

 黒い霞を散らしながらボロボロの衣装を引きずる魔王がぼくに一歩だけ歩み寄っていた。

「教えよ、勇者。何故それほどまでに……悲痛に嘆いているのだ」

「────なぜ?」

 彼女は言った。
 この世にしがみついていられる時もあと僅か、せめて消える前にぼくがどうしてそんな目をしているのか……と。
 そんなこと、知るわけない。
 でも……彼女がそれを望むのなら、ぼくは応えたかった。

 嗚呼、そうだ。
 ぼくはこの時、彼女との……魔王との問答からずっと、嘘がつけなくなってしまった。
 偽る事をやめてしまった。

俺の役目魔王討伐を終えた以上、もう何も見る必要は無いからだ……」

「……戯けが。ごッ、ほ……しっかりと見ているではないか。
 答えよ勇者、何故その傷を回復させない……よもや回復だけ出来ぬ事もあるまい。魔法は使えただろう」

「傷を塞ぐ必要がないから」

「貴様は……死にたいのか?」

「……生きるだけの、がんばれる気力がないから。
 ──生きる気力がないから。
 ────戦う体力がないから。
 ──────がんばる……力が無いから」

 魔王が消える。
 サラサラと音を立てて、彼女もまた命を失っていく。

「もうやだよ、いやなんだ──!

 勇者なのに……いい大人なのに、弱音を吐いたら怒られるし……だらしないって言われる。
 ぼくはがんばって皆を助けたよ? でも御礼の言葉が欲しいのに、嫌な顔をしてお金なんか渡されるんだ。
 ……寒い夜、宿の人に泊めて下さいって頼むとルシールの体を欲しがってくるんだ。
 怪我した魔物を助けても怒られる、逆らうと犯罪者にされる。がんばってもがんばっても、ルシールは死んだ、ノエルも死んだ。
 みんな、ぼくが頑張れるようにって──ひとりで寂しくないように、って。誰かに言われて送り込まれただけの、ただの一般人だったんだよ?
 でもルシールは……少しでも役に立ちたくて魔法を覚えてくれた! ノエルも本当は普通の女の子だったのに、ぼくが勇気出るように勇ましくいてくれたんだ!」

 気づけば、視界は涙で塞がっていた。
 頬を伝い流れ落ちた雫は血潮と混ざって、崩落した石畳の残骸に吸われて消えていく。
 呼吸が上手く出来なくなってきたのを誤魔化す様にぼくは声を吐き出していた。

「……でも、どれだけがんばっても無駄になるんだ。
 泣いても誰も優しくしてはくれなかった。沢山優しくして、助けて、笑っても、がんばっても……何もかもが──」

「勇者」

「魔王」

 ぼくは、眼前に浮かぶ黒い影の残滓が発しかけた言葉を遮るように言った。

「ぼくは勇者になる前からこうなんだよ──お母さんに褒めて貰いたくて書記官の勉強をしてもね。
 好きな女の子に振り向いてほしくて体を鍛えてもね。
 一杯一杯……努力してもね……報われない、優しさのない『世界』なんだよ」

 黒い残滓がついに消えた。
 魔王の気配はどこにもない。
 ぼくはそれをしっかりと確認してからゆっくりと目を閉じた。


「────勇者よ、我が死んだ時この城は崩れる。その際に我が座っていた玉座の隠し階段が開くだろう。
 其方そなたの願いを叶える秘宝、くれてやる……その代わりに、約束せよ」


 瞼の向こうで確かにそんな声が聴こえた。
 ぼくは驚き目を見開いたけど、やはり魔王の姿はなかった。

「魔王、なのか? ……いったい、なにを」

「その願いを無駄にせぬように其方そなたのやり方で『がんばる』のだ」

 何処かで膨大な力の波動を感じた瞬間、足元から跳ね上がるような衝撃に包まれた。
 魔王の声が言った通りだったらしい。城は確実に崩壊の一途を辿ろうとしていた。
 ぼくは──罠かもしれないのに、魔王の言ったことを何故か信じて玉座の裏に隠されていた隠し階段を見つけた。
 止まらない血が、崩れ落ちていく肉が、ぼくに残された時間が魔王とそう変わらない事を教えてくれた。

 轟音鳴り響く地下通路へと下りて行くぼくの耳に、魔王の声が最後に聞こえた気がした。


「さぁ、其方そなたの願いを聞かせてくれ」





 朽ちていく自分の命を実感しながら、ぼくは地下深くにまで下り立った。
 激しく揺れる城内。
 暗闇に閉ざされた通路を辿った先、そこでふと淡い燐光が掠れた視界の奥で瞬いたのを見た。
 ぼくは。

「え?」

 言葉を失った。
 目の前に在ったのは────【  】だったから。

「これが……魔王の言ってた秘宝?」

 息が出来ない。
 片目は既に見えなくなっていたし、耳も上手く聞こえない。
 震える指先を何とか伸ばしても感覚は失われていたから、『それ』を握ってもぼくには何も感じられなかった。
 ひどく眠かった。

「はぁ……は、あ……」

 視線を持ち上げて。
 朽ち行く身体を動かすだけで凄く疲れてしまって、何度も深々と息を吐き出しながら。
 ──ぼくは、静かに。乞い願うように、囁いた。

「お願いです……私の願いを叶えて下さい……」


 魔王の言葉を思い出しながら。



「もうがんばりたくない」




 ぼくの意識は、そこで途絶えた。









 ──崩れ落ちていった記憶の断片。
 それらは割れた硝子細工のように、元に戻る事は叶わない。
 散らばり、音を奏でながら掃き捨てられるか、触れる者を傷つけるかのどちらかである。

 眠りについた彼は自身を呼ぶ声に意識を浮上させる。
 長い、長い夢を見ていたかのように、青年はゆっくりと光の中で目を開けた。

「……起きて」

「……おかあ、さん……?」

「起きなさい」

「……ぅ、う」

「起きなさいな! 今日は大切な宮廷での試験日でしょ!」

 揺さぶられたベッドが大きく軋む音に体が反射的に防御姿勢を取ろうと動いてしまう。
 青年は、慣れ親しんだ窓からの心地良い日差しを浴びながら床に転がり落ちてから顔を上げた。
 信じられない物を見た顔で、彼は自身の母親を見上げた。

(……これは、夢?)

 懐かしい面影のある女性は、確かに彼の母親だった。
 見間違えよう筈もない相手である。
 だが、驚き戸惑いながら見上げた母は青年の記憶に新しい頃よりもずっと若く、優しそうに見えた。
 『彼』は、恐る恐る母に尋ねる。

「お母さん……今日って何の試験日?」

「はぁ!? あんた、馬鹿な事言うんじゃないよ!!」

「痛っ、ぶたなくてもいいじゃないか……」

「今日は王立図書館の副書記官が決まる大事な試験日だろうに! 寝ぼけてるんじゃないよ!」

「王立図書館……書記官……試験、日……?」

 母の答えに呼吸が止まる。
 頭の奥で耳鳴りがする、だがそれは精神的な揺れ幅によるもので病ではない。
 そして、胸に手を当てた際に返って来る鼓動の音は間違いなく自分が生きている証拠だった。




 勇者と呼ばれていた青年──フェリシアは、自身が勇者に選ばれる二年前。そして魔王との戦いで命を落とした筈の日から六年前の世界で目覚めていた。



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