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七
しおりを挟む――翌日の昼四ツ(午前10時)頃、お稲が〈無いもの貸し升〉にやって来た。
お沙希は、兵治んとこに行って留守だ。
「……あのう」
「はい、いらっ……しゃい……ませ」
帳場格子で算盤を弾いてた新蔵は、お稲を見た途端、豆鉄砲を食らった鳩みてぇな顔になっちまった。
「お嬢様はおいでで?」
「あ、いえ。いま、ちょっと出てまして」
新蔵は格子から急いで出てくると、お稲の前に正座した。
「そうですか。……じゃあ、伝えて頂けますか?」
「え?あ、はい」
「よかったら、また遊びに来てください、と」
「あ、はい、お伝えします。お名前は?」
「お稲と申します」
「お稲さんですね?かしこまりました。お伝えします」
「……それじゃ」
お稲がお辞儀をした。
「あ、はい、どうも……」
新蔵も頭を下げた。
あららら、背を向けたお稲の後ろ姿を見ながら、口をポカーンと開けてにやけちまってら。
おーい!新蔵!鼻の下が伸びちまってるぜ。あ~あ~あ~、デレ~ッとしちまって、まるで、阿呆が酢に酔ったみてぇな面だぜ。なんでぃ、一目惚れか?
お沙希は太助に、新蔵はお稲に惚れちまって。先々、どうなっちまうんでぃ?ま、予想がつかなくもねぇけどよ。……あ~あ~。(語りのため息)
一方、番屋では。
「お嬢さん、貴重な情報提供だったんですが、嘉右衛門が殺された時刻、与市は賭場に居たのが判明しました」
兵治は残念そうに、肩を落とした。
「そうかい。……ってことは、下手人は他に居るってこったな。けど、嘉右衛門の後妻と与市は臭い仲だ。与市の身辺も探ったほうがいいぜ」
「へい、合点承知之助でい」
「……」
(お梗のほうを見張ってみるか……)
「お嬢さん、おかえりなさいませ」
「おう、新蔵、勘定は合ってんだろな?一文でも足りなきゃ、昼飯抜きだぜ」
「へ。……あ、先程、お稲さんて方がおいでに――」
「えっ!で、なんて?」
(太助さんにちなんだことかな……?)
お沙希は不安げな面持ちでぃ。
「また、遊びに来て――」
「えっ!ほんとに?やりーっ」
(ってことは、酔っ払っても嫌われなかったんだ。じゃなきゃ、おふくろさんがわざわざ来て、また遊びに来て、なんて誘うわけないもんね?クッ。また太助さんに会えるぅ)
お沙希はニヤッとした。
「お嬢さん?」
「ん?うっさいっ!めしは?」
「お亀がご用意を」
「おう、新蔵。勘定のほうは合ってん――」
「それは、先程、おっしゃいました」
「ムム……うっさいっ!いちいち人の揚げ足を取んじゃねーっ!」
お沙希は、でっけぇ足音をさせるってぇと、外股で引っ込んだ。
「……」
今すぐにでも太助に会いてぇお沙希だが、嘉右衛門の事件が解決してねぇもんだから、ラブラブモードにはなれねぇんですな。その辺のとこは、商人の娘だけあって、しっかりしてら。つまり、ケジメって奴だ。仕事は仕事、恋は恋。公私混同はしねぇ。なかなかのしっかり者だ。その辺もまた、魅力的だなぁ。
――宵五ツ(午後8時)には布団に入るって、お梗は言ってたな。それが本当かどうか、この目で確かめてみっか。
お沙希は、新蔵から借りっぱなしの小袖を着るってぇと、ほっかぶりをして、嘉右衛門の屋敷に向かった。――
仮に外出するとしても、玄関から出入りはしないだろう、と推測したお沙希は、勝手口が見える松の木に身を隠した。――
五ツは過ぎたか……。月光に陰となった勝手口の軒下に、お沙希は目を据えていた。と、その時、音もなくやって来た黒い人影が、勝手口の戸を無造作に開けた。
ん?中から心張り棒はしてなかったのか?お沙希は不審に思った。
着流しの男は中に入ると、静かに戸を閉めた。
……誰でぃ?与市って奴か?お沙希は首を傾げた。――
お沙希は、お亀の部屋の雨戸を三回、軽く叩いた。帰宅したら、合図する手筈になっていた。
勝手口を開けたお亀は、しょぼしょぼさせた目を擦った。
「……おかえりなさいませ」
「ん。おやすみ」
「おやすみなさいませ……」
――翌朝、めしを済ませたお沙希は、兵治に会いに番屋に行った。
「ゆんべの五ツ頃、与市はどこに?」
「相変わらず、賭場に入り浸りでっさ」
「えっ?……」
(ってことは、あの男は与市じゃなかったのか……。ま、あとは兵治に任すっか。それより、太助さんに会いてぇ)
「こんばんは~」
江戸小紋でおしゃれに決めるってぇと、丸型の平打簪を挿して、太助んちに遊びに来たお沙希でぃ。
「まあ、お嬢さん。よくおいでくださいました。さあさあ、お入りください」
お稲は満面の笑みでぃ。
「これ。花売りに遇ったものだから」
お沙希が、手にした鬼灯の鉢を差し出した。
「ま~、カワイイ。いつもありがとうございます」
鉢を受け取ると、頭を下げた。
「さあさあ、どうぞ」
「失礼しま~す」
――暮六ツ(午後6時)頃、太助が帰ってきた。
太助と目が合った途端、お沙希は頬を染めると、
「……こんばんは」
小さな声で言って、俯いた。
「あ、いらっしゃい」
太助も満更でもない顔だ。
「またまた、無理矢理に母さんが誘ったんだよ」
「そんなこと……」
「迷惑でしたでしょ?」
洗った手を手ぬぐいで拭きながら、お沙希を見た。
「ぃぇ、うれしかったです」
蚊の鳴くような声で言った。
「お嬢さん、お酒も付けましょうね」
お稲が土間から振り向いた。
「あ、いえ。今夜はご遠慮します。番頭さんに叱られて。太助さんに迷惑が及ぶからと」
お沙希がおんぶのことを言った。
「そんな。気にしないでください。お嬢さんをおんぶできて光栄です」
太助はそう言いながら、お沙希の前に座った。
「ヤだ。光栄だなんて、恥ずかしい。おほほほ」
お沙希は指先で口元を隠すってぇと、上品に笑った。似合わないけどな。ま、お沙希のやりてぇようにさせとくか。
「そうですか?じゃ、ご飯だけでも食べてってください。折角、お嬢さんのために作ったんですから」
お稲が勧めた。
「え。お言葉に甘えて頂きます」
「あ~、よかった。作った甲斐があった。あ、さっき買った天ぷらも添えましょうね。うふふ」
お稲は嬉しそうにご飯をよそった。
太助と目が合ったお沙希は、恥じらうように俯いた。
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