朝靄の中に

紫 李鳥

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 麦わら帽子のつばから覗くと、同年代のTシャツの男が道端から笑顔を向けていた。

「あ、こんにちは」

 急いで腰を上げた。

「かわいいですね、ワンちゃん」

「ありがとうございます」

「お名前は?」

「あ、ブッチーです」

「ブッチー?なんか、友達に付ける愛称みたいですね」

 男はそう言って、愛嬌のある笑顔を向けたので、ブッチーの名前の由来は伏せることにした。余計なことをしゃべって、わざわざ自分のキャラクターを教える必要はないと思った。

「ブッチー!」

 男が呼ぶと、ブッチーは「クゥンクゥン」と甘える声で鳴き、しっぽを振っていた。この時、ブッチーは人懐っこい性格なんだと優梨は思った。

「また、会いに来てもいいですか?」

「えっ?」

「ブッチーに」

「……ええ」

「それじゃ。あっ、菅井すがいと言います。よろしく」

「篠田です」

「それじゃ、また。ブッチー、バイバイ」

 ブッチーに触れることができなかった菅井は、残念そうに手を振ると、坂を下りて行った。ブッチーを見ると、さっきと同じようにしっぽを振って、菅井を目で追っていた。樫の木からリードを外さず、菅井にブッチーを触らせなかったことを少し後悔した。だが、万が一にも菅井を噛んだりして怪我けがをさせたら大変なことになる。優梨は自分にそう言い聞かせゴム手袋を脱ぐと、樫の木からリードを外した。



 次の土曜日。テーブルクロスを編んでいると、骨の形をした歯磨きガムを噛んでいたブッチーが、突然顔を上げて動きを止めた。途端、

「クゥンクゥン」

 と嬉しそうに鳴きながら玄関に走った。もしかしてと思っていると、案の定、

「こんにちは。菅井です」

 菅井の声がした。

「はーい」

 返事をすると、戸を開けた。そこには、あの日と同じ菅井の笑顔があった。

「こんにちは。これ、ブッチーくんにプレゼントです。おやつとか噛むと音が鳴るおもちゃとか」

 有名な百貨店の紙袋を差し出した。

「ありがとうございます。ブッチーも喜びます」

 足元を見ると、ブッチーがしっぽを振りながら菅井を見上げていた。

「ブッチー、久しぶり。元気だった?」

 菅井は腰を下ろすと、慣れた手付きでブッチーの頭を撫でた。

「クゥンクゥン」

 ブッチーは前足をバタバタさせて、菅井に抱っこを要求していた。

「……よかったら、お茶でもどうぞ」

「では、お言葉に甘えて」

 菅井は人懐っこい笑顔を向けると、

「ブッチー、どれ」

 と、ブッチーを抱き上げた。ブッチーは菅井のあごに何度も鼻先を付けてペロペロと舐めていた。

「ブッチー、くすぐったいよ」

 これほどにブッチーが慕うんだ。悪い人ではないだろう。優梨はそう思いながら押し入れからクッションを出すと、居間のフローリングに置いた。

「コーヒーと麦茶、どちらがいいですか」

「できればアイスコーヒーを」

 ブッチーを撫でていた菅井が顔を上げた。



 グラスに氷を入れると、冷蔵庫のボトルコーヒーを注いだ。居間を覗くと、クッションに座っている菅井が何か語りかけながら仰向けになったブッチーのおなかを撫でていた。

「どうぞ」

 菅井の前にレース編みの白いコースターを置くと、グラスを載せた。

「あ、いただきます」

「ミルクは入れます?」

「いいえ、ブラックが好きなんで」

 菅井はそう言ってグラスを持った。

「お近くですか?お住まい」

「えっ?」

 菅井が驚いた顔をした。

「いいえ。……東京です」

「えっ!東京からわざわざブッチーに会いに来たんですか?」

「ええ。それと、この町が好きだから」

「じゃ、こっちに移住を考えてるとか?」

「逆です」

「逆?」

「この町に住んでたんです。しかし、妻が東京に帰りたいと言い始めて。最初は妻もこの町を気に入っていたのですが……。結局、東京に戻ったんです」

「……そうだったんですか」

「休みになると、気が付くと車を走らせていました。渓流も見たいし、ブッチーにも会いたくて。……また、来ていいですか?」

 菅井が遠慮がちな視線を向けた。

「ブッチー、どうする?また来てほしい?」

 ブッチーを見ると、胡座あぐらをかいている菅井を見上げてしっぽを振っていた。

「また、来ていい?ボギー」

 菅井はそう言って、ブッチーを抱き上げた。

「ボギーって?」

「えっ?……ああ、以前飼っていた犬の名前です」

「亡くなったんですか?」

「えっ?……ええ、まあ。じゃ、そろそろ帰るよ、ブッチー。どうも、お邪魔しました」

 菅井が腰を上げた。

「こちらこそ、ブッチーにおみやげをありがとうございます」

「喜んでもらえて嬉しいです。それじゃ。ブッチー、バイバイ」

 戸を開けた菅井に、ブッチーは「クーンクーン」と悲しげに鳴いていた。菅井はブッチーを見下ろしながら静かに戸を閉めた。途端、優梨の中に寂しさが押し寄せた。……この感情は何なのだろう。優梨はこの時初めて、菅井に対する自分の気持ちに気付いた。


 それは、菅井にもらったエビ天のおもちゃをブッチーが噛んでいる時だった。

「ウー、ワンワン!」

 突然吠えた。誰か来たのかと窓から覗くと、ガスの検針だった。知らない人に吠えるブッチーは頼もしい番犬だ。そんなふうに感心して、ふと思った。……ブッチーはなぜ、菅井に初めて会った時、吠えなかったのかと。吠えるどころか歓迎していた。――優梨の中に菅井への疑惑が芽生えた。
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