朝靄の中に

紫 李鳥

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 次の土曜日。やって来た菅井は大きな袋を抱えていた。

「ドッグフードです。重かった~」

 おどけた表情をした。

「……ありがとうございます」

 袋を受け取ってブッチーを見ると、しっぽを振りながら菅井を見上げていた。

「ブッチー、一週間ぶり。会いたかったよ」

 菅井はそう言ってブッチーを抱き上げると、頭を撫でた。

「どうぞ。ホットとアイス、どちらにします?コーヒー」

 居間に通した。

「アイスを」

 即答すると、ブッチーとじゃれ始めた。



 菅井はアイスコーヒーを飲みながら、噛むと、ブーと音が出るブタのおもちゃと遊んでいるブッチーを眺めていた。優梨はアイスコーヒーを飲み終えると、話を切り出した。

「……菅井さん。ブッチーのこと知ってますよね?以前から」

 その言葉に菅井は動きを止めると、顔を上げず黙ってブッチーを見ていた。

「あなたが捨てたんですか?ブッチーを。いや、ボギーを」

「……すいません」

 頭を下げた。

「……段ボール箱に捨てられているのを見つけて。飼うつもりで拾ったのですが、妻が動物嫌いなのを知らなくて。結局、また捨てることに。保健所に届けたら殺処分さつしょぶんされるかもしれない。そんな不安がよぎり、どうしたらいいかと困り果てていました。そんな時、引っ越してきたあなたを見かけたんです。この人ならかわいがってくれる。そう直感しました。優しそうなあなたに飼ってもらいたくて……」

 菅井はうつ向いたままでボソボソと言った。

「つまり、私をだましたんですね」

 優梨は語気を荒らげた。

「そんなつもりじゃ」

 顔を上げた菅井が弱い視線を向けた。

「だってそうじゃないですか。ブッチーに初めて会うような素振りで近付いて」

「すみません。……ブッチーに会いたくて」

 そこまで言うと、駆けてきたブッチーが菅井の頬を舐めた。そんなブッチーを菅井が優しく撫でた。その様子を見て、優梨はとがめる気力を失った。

「どうか、ブッチーを飼ってやってください。ブッチーの養育費は毎月払います」

「ぷっ」

 優梨が噴いた。人間の子供扱いで、“養育費”と言ったのが可笑おかしかった。

「お願いします」

 菅井は正座をすると、深々と頭を下げた。

「やめてください。そんなつもりじゃ」

「分かってます。でも、僕がそうしたいんです。どうか、お願いします」

 更に深く頭を下げた。

「……分かりました」

「ほんとですか?」

 一変して、菅井が少年のような笑顔を向けた。

「ええ」

「よかった。ブッチー、よかったな」

 菅井はそう言って、ブッチーを撫でた。ブッチーも嬉しそうにじゃれていた。

「一つだけお願いがあります。時々、ブッチーに会いに来ていいですか?」

「……ええ。菅井さんのブッチーでもあるのですから」

「ありがとうございます。やったー。ブッチー、やったー」

 菅井はブッチーを胸元に抱くと、頭を撫でながら見つめていた。ブッチーも菅井の顎を舐めながら喜びを表現していた。それはほのぼのとした光景だった。


 それからも、土曜日になると菅井はやって来た。来る度にブッチーのベッドやトイレを買ってきてくれて、ブッチーに必要なものはすべてがそろった。まるで、菅井が生みの親で、優梨が育ての親のようだった。

 
 優梨は畑に種を蒔いたり、レース編みをしたりして毎日を過ごしていた。そんな時、テーブルクロスの購入者からメールが届いた。

〈先日、篠田様のショップでテーブルクロスを購入した津島と申します。素敵な商品をありがとうございました。丁寧な仕上がりにとても満足しています。
 それで、お願いがあるのですが、ソファーの背もたれカバーを編んでいただけないでしょうか?デザインは篠田様にお任せします。時間がある時で構いません。よろしくお願いいたします〉

 それにはソファーのサイズが書いてあり、写真が添付されていた。早速、お礼の返事をした。

 優梨は七色の虹を感じた。菅井とブッチーの関係が明白になったことや商品の注文があったことで。これからどう生きるべきか、優梨は自分の進む道が見えた気がした。



 それは、樫の木が紅葉を始めた頃だった。味噌汁の具にする大根を畑から抜いていると、靄の中に何かが動いた。顔を上げると、黒いボストンバッグを提げた菅井が立っていた。

「妻と別れました」

 ぽつりと言った。

「……そうですか」

「自由の身になりました。で、一部屋貸していただけないでしょうか」

「えっ?」

「もちろん、家賃は払います」

 菅井はそう言って、まばたきのない目を向けた。

「クゥンクゥン……」

 家の中ではブッチーが嬉しそうな声で鳴いていた。

「ブッチーがお待ちかねですよ」

 優梨はそう言って、ゴム手袋をした手に持った大根の土を落とした。

「……ありがとう」

 菅井が小さな声で礼を言った。



 間もなくして、朝餉あさげの匂いと共に、楽しげにはしゃぐ子犬の声が聞こえてきた。




  完
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みんなの感想(1件)

2021.08.24 ユーザー名の登録がありません

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2021.08.24 紫 李鳥

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解除

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