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雪に落ちた一輪の椿
しおりを挟む雪が降っていた。――生暖かいものが首筋から背中に下りていた。硬直した肉体は、逃れられない囚人のように、その毒牙に堪えていた。
「……ほんに綺麗な肌や。なんも心配することないで。可愛がってやるさかいな」
すゞ子を水揚げした旦那は、はだけた赤い襦袢に顔を埋めると、すべすべした肌に、そのザラザラした猫のような舌を転がした。
「イヤーーーっ!」
すゞ子は敏捷にすり抜けると、夜会巻から朱色の玉かんざしを抜き、弾かれたパチンコ玉のように勢いよく、旦那の首を刺した。
「ぐぇーーーっ!」
噴き出した血がすゞ子の顔に飛び散った。身をくねらせ悶絶する旦那の背中にも刺した。
「イヤや、イヤや、イヤやっ!」
何度も、何度も……。白いシーツは真っ赤に染まっていた。
すゞ子は、精神病院のベッドに居た。外は雪化粧。白い世界はそれだけで美しかった。すゞ子は、窓に降り注ぐ雪を見つめていた。
ノックの後にドアが開いた。〈朝霧楼〉の女将、磨智子だった。
「具合はどないや」
着替えが入った風呂敷包みを置いた。
「あ、女将はんや。見て、雪降ってるで。綺麗やろ?」
「ぁぁ、綺麗やな……」
「ショックで、神経がおかしなったんやろ。記憶も喪失してますし、心因性の記憶障害やと思うけど、だいぶ安定してますよってに、退院してもかましまへんえ」
「……そうどすか」
医者からの退院許可に、磨智子は安堵と共に困惑の色も見せた。身寄りのないすゞ子をどうすべきか、思案に暮れた。――
――磨智子は汽車に乗ると、故郷に向かった。
「へえ、働きもんどすよってに、どうぞ、使ってやっておくれやす」
「それは助かるけど、子連れの男所帯に来てくれるかな」
幼馴染みの、農業を営む赳夫が懸念した。
「心配おへん。赳夫はんを見込んで、預けるんどす」
数日後、すゞ子は、磨智子と共に汽車に乗った。
「上林すゞ子言います。よろしゅう、お頼ん申します」
「近江赳夫と言います。これ、息子の健壱です」
「すゞ子どす。こんにちは」
「……コンニチワ」
健壱は恥ずかしそうに、赳夫の背後に隠れた。
「ほな、よろしゅう頼んます。すゞ子、近江はんに迷惑かけんよう、お気張りや」
「へぇ。女将はん……」
――すゞ子はよく働いた。東雲の時刻には起きて、野良仕事に出掛ける赳夫の朝飯と弁当を作り、四歳の健壱を相手にしながら、掃除、洗濯をし、赳夫が帰ってくる時刻には、食事の支度をした。
「すゞ子ちゃんの料理が、我が家の味になるな。健壱はこの味で育つんだから」
赳夫は満更でもない顔をした。
「〈朝霧楼〉の女将はんに教えてもろたんどす。お母ちゃんが死んで、女将はんとこに売られてきて。女は料理の一つも出来んかったらあかん、言うて」
姉さん被りにたすき掛けのすゞ子は、豚汁を杓子で掬いながら、女丈夫を覗かせた。
「……オイチイ」
健壱が大学芋を褒めた。
「……ありがとう」
すゞ子が照れた。
「お母さんは幾つの時に亡くなったの?」
「……十歳の時。貧乏やったさかい、病院に行くお金も無かったんや」
すゞ子は寂しそうに俯いた。
「悪かったね、余計なことを聞いて」
「……ううん」
すゞ子は笑顔を向けた。
――また、冬が来た。
赳夫は、親子ほど歳の離れたすゞ子を娘のように思いながらも、一つ屋根の下で寝起きをしているうちに情が移っていた。
十六歳の誕生日を迎えたら、求婚しようと考えていた。
――それは、雪の降る夜だった。
「来週の誕生日が来たら、結婚してはくれまいか」
「…………」
「……こんなオジサンはイヤか?」
「ううん、赳夫さんのことは好きや。……けど」
すゞ子は言いづらそうに、口ごもった。
「……一緒に暮らしてるうちに、なんか、娘のようでもあり、女房のようでもあり、なんか、肉親のように思えてな……。手も繋いだことないのに不思議なもんだな」
「……うちも、赳夫さんのこと、お父ちゃんのようでもあり、恋人のようでもある。手も繋いだことおへんのに、……不思議やな」
互いは見つめ合って笑った。
初夜。
すゞ子は結った髪に朱色の玉かんざしを挿すと、赤い長襦袢で布団に入った。
「綺麗だ。俺には勿体ないほどに綺麗だ」
寝室の行灯に、目を閉じたすゞ子の顔が淡く浮き上がっていた。
赳夫は、すゞ子のふっくらした唇に、薄い唇を重ねると、襦袢の脇から、小さな乳房に触れた。
すゞ子は恥ずかしそうに乳房を手で隠すと、背を向けた。
赳夫は、すゞ子の項に接吻をした。
「ぁ~……」
すゞ子の吐息が漏れた。赳夫の唇は、徐々に背中に下りていた。
途端、すゞ子の体が硬直した。
「イヤーーーっ!」
すゞ子は悲鳴を上げると、物凄い形相でかんざしを抜いた。そして、なんの躊躇もなく、赳夫の喉を刺した。
「う゛ぇーっ!」
噴水のように噴き出した血が、すゞ子の顔に飛び散った。
赳夫は息絶えていた。――我に返ったすゞ子は、目を丸くして、動かない赳夫を見つめていた。
すゞ子は茫然としながら、素足で庭に出ると、血にまみれた顔を降る雪に晒した。そして、松の木に背もたれし、手にしたかんざしを両手で強く握ると、自分の喉を目掛けた。
「うっうー……」
崩れ落ちたすゞ子に、降る雪が積もっていた。
赤い長襦袢に、黄色の伊達締めをしたすゞ子の姿はまるで、雪に落ちた一輪の椿のようだった。
完
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