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しおりを挟む結局、松枝を追い出すことができなかった。そして、それからも、松枝の外出が止むことはなかった。
そんなある日。松枝に抱かれた千代がけたたましい泣き声を上げた。
「やかましい!なんなのこの子。おつむがおかしいんちゃうん」
途端、放り投げるがごとく、千代を布団に置いた。
買い物から帰ったキヨは、残酷までの松枝のその様子を覗いて、愕然とした。
……千代が殺されかねない。
そのことがあってから、キヨは臥薪嘗胆の策を練った。そして、松枝を呼ぶと、キヨは作り話を聞かせた。
「千代はおつむに異常があるらしいので、専門の病院に預けることにしたさかい」
キヨのその話に、松枝は残念そうに伏し目がちになると、憂える表情を演出していた。そして、キヨに背を向けた途端、我慢していた含み笑いをすると、噴き出しそうになるのを懸命に抑えて部屋に戻った。
――十八年の月日が流れた。田所聡は、友人に誘われて行った華道の発表会で松枝と出会い、恋仲になって七年を経ていた。
松枝より五つ六つ若い聡は、主導権を握る松枝に手綱を握られている格好だった。料亭の離れで逢瀬を重ねながらも、“大人同士の関係”を前提に、不即不離を貫いていた。
そんな折、父親の浩一郎に誘われて、久し振りに祇園の料亭に呑みに行った。
料亭〈月路〉は、浩一郎の馴染みの店で、女将の秋乃とは長い付き合いだった。
「社長はん、ご無沙汰どした。本日はおいでくださって、ほんまにおおきに」
紺地に白と黄の糸菊模様の付け下げを着付けた秋乃は、丁重に礼を述べた。
「久し振りやったな。野暮用重なってな、会いとうても会いに来られへんかった。堪忍してや」
恰幅のいい浩一郎が小さくなった。
「へぇ、許したる。聡はんも、ようおいでくださった。本日は新人の芸子はんが居るさかい、すぐ連れてきますよって」
秋乃は、聡が来るのを予知していたかのように、そう言って出ていった。
間もなく、雪見障子が開いた。そこには、雛菊のように清楚で、初々しい芸妓の姿があった。聡はハッとして、目を見開いた。
「千代菊言います。どうぞよろしゅうお願い申します」
千代菊は三つ指をついて深く頭を下げた。
「おう、こら可愛い。さあさあ、こっちに来なはれ」
上機嫌の浩一郎が手招きした。
千代菊は、長い裾をぎこちなく引きずると、聡の横にちょこんと座った。
「よろしゅうお願い申します」
大きな黒い瞳を聡に向けると、銚子を持った。
「ああ。よろしく」
猪口を手にした聡が千代菊と目を合わせた。
――千代菊に出会ってから、聡は頻繁に〈月路〉に通うようになった。
「千代菊はいくつになる」
「十八どす」
「……十八か。一回り以上も違うな」
聡が憂えを帯びた表情をした。
「やけど、聡はんはまだ二十代にしか見えまへん」
「ハハハ……。千代菊はおだてるのが上手だな」
聡は満更でもなかった。
「おだててなんかいてはらへん。ほんまに二十代にしか見えへんもの」
千代菊はムキになって、上目で見た。
聡は面食らった。千代菊のその目は、若さ特有の一途さのようなものを思い起こさせた。
「……分かったよ。ありがとう」
聡は照れ臭そうに鼻で笑うと、子供を宥めるかのような目を向けた。すると、千代菊が白い歯をこぼした。
「……ところで、千代菊はどうして芸子なんかに?」
酌を受けながら訊いてみた。すると、突然、注いでいた千代菊の手が止まった。
「……両親早うに亡くなって、遠い親戚に育てられました。……やけど、あんたにかかったお金は、働いて返してもらうさかいって。……あの家から一日も早う出ていくには芸子になるしかなかった……」
千代菊は辛そうな顔で俯いた。
「……苦労したんだな」
聡は、我が事のように憂える表情をした。
「……聡はんは京訛りがあらへんどすなぁ」
ふと気付いて、千代菊が訊いた。
「ああ、大学は東京だ。少し働いていたし。そのせいだろ」
「ほな、うちにも東京弁、教えとぉくれやす」
「ああ。けど、僕の東京弁が正しいかどうかは保証できないよ。それでも良ければ」
「うん。それでええ」
千代菊が目を輝かせた。
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