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しおりを挟む松枝の容態は日毎に悪化していた。髪を乱し、着崩れしただらりの帯で、家の中を徘徊していた。その日も、裸足で庭に入ると、菊に鼻先を近付け、匂いを嗅いでいた。
「桃色の花はめんこいーな。うーん、ええ匂いやわ」
そう言って薄桃色の小菊を手折ると、髪に挿した。
「お義母はん、どや?似合うてます?」
障子を開けた部屋で裁縫をしているキヨに話し掛けた。
「……へぇ。よう似合うてます」
キヨはそう答えながら、踊り子のように舞っている松枝を哀れに思った。
(そろそろ、入院させたほうがええ。……その前に、菅井のこと訊いてみよう。こないな状態では、まともな回答は得られへんやろうが)
「……松枝はん。菅井先生を知ってはるか?」
「……すがい?……ああ、お医者はんな。うちが芸子のころ、よう遊びに来てくれはったわ」
(!……繋がった。松枝と菅井が繋がった)
「善蔵のことは?」
「ぜんぞう?……」
「亡くなった、あんたの夫や」
「!うちやないっ!殺したんはうちやないっ!」
松江は取り乱すと、汚れた足で廊下を走って行った。その度に揺れるだらりの帯を見ながら、キヨはこう推測した。松枝にぞっこんだった菅井は、松枝の言いなりになり、善蔵に毒を盛った。医者なら、薬を使って生かすも殺すも自由にできる。……何のために。――遺産を手に入れるためだ。だが、それは推測に過ぎない。ましてや、善蔵がこの世を去ってから長い年月を経た今、それを証明することはできない。キヨはため息と共に肩を落とすと、項垂れた。
その夜、愛の巣に予期せぬ来客があった。それは、土産を提げた浩一郎だった。
「……お父さん」
聡が驚いた顔をした。
「入らしてもらうで」
浩一郎は勝手に入った。
「……社長はん、おいでやす」
千代が三つ指をついた。
「千代菊、元気どしたか?上がらしてもらうで」
革靴を脱いだ。
「へぇ、どうぞ。散らかしてますけど。今、お茶を淹れますよって」
「茶はいらん。酒にしてくれ。人肌の燗や。寒うなったさかいな。ガッハッハ」
浩一郎は豪快に笑った。
「へぇ。つまみも作るさかい、座っておくれやす」
押入れから座布団を出した。
「寿司も買うてきたで」
ちゃぶ台に置いた。
「おおきに」
千代は礼を言いながら、割烹着を纏った。
聡は諦めたようにため息を吐くと、浩一郎の前に腰を下ろした。秘密にしていた愛の巣を教えたのが誰なのかは、言わずと知れた。浩一郎を見ると、悠然と煙草を喫んでいた。
「なんの用だよ、突然に」
聡は無愛想に言った。
「親が子供のとこに来たらあかんのんか?」
「親子の縁を切ったんじゃなかったのか?」
「わてはなんも言うてへん。あんたが勝手にほざいた台詞やあらへんか」
「……それで、なんの用だよ」
聡は苛立っていた。
「そないに慌てな。酒呑みながら話すさかい」
「……」
聡は横を向いた。
「社長はん、おまちどおさまどす」
千代が徳利と猪口を運んできた。
「おお、白い割烹着がよう似合うてますなぁ」
浩一郎が褒めた。
「えっ、ほんまどすか?おおきに。うれしいわ」
千代も調子に乗っていた。聡は一人、愉快ではなかった。
「ほな、どうぞ」
千代が酌をした。
「おう、こらあ、うれしいな。聡、あんたも呑みなはれ。いつまでもそないな仏頂面してへんで」
これ以上の口論を避けたかった聡は、仕方なく猪口を手にした。
「千代菊も呑みなはれ」
浩一郎が勧めた。
「社長はん。うち、まだ未成年どす」
「……そやったな。すまんすまん。ガッハッハ」
浩一郎は高笑いしながら、責めるような目を聡に向けた。「お前が嫁にしたいという女はまだ未成年なんだぞ」そんなふうに言われているようだった。「じゃ、そう言うあんたはどうなんだ?芸子は妾にしろと嘯いたじゃないか。あんたに俺を責める権利はない」と、聡は腹の中で反論した。
千代が作った夕飯の余ったおかずをつまみにしながら、味音痴の浩一郎は旨そうに酒を呑んでいた。――その時だった。突然、浩一郎が話を変えた。
「千代菊はん。あんた、かの有名な〈戸田酒造〉のお嬢はんやったんどすなぁ?」
「えっ?……ええ」
千代は小さく返事をして、俯いた。
「聡、なんで最初に話してくれへんかったんや。それを知っとったら結婚を承諾してましたがな」
聡を見ながら、白菜の漬物を口に入れた。
「また、あんたの言う、毛並みか?家柄で結婚する訳じゃないだろ。それに、あんたに話した時は、千代菊のことはまだ何も知らなかった」
「戸田千代はんや」
浩一郎が即答した。……千代菊の本名を浩一郎の口から聞かされるとは思わなかった聡は、自分が知らない千代のことを知っている浩一郎に腹が立った。傍らの千代が、申し訳ないと言うような目で聡を見るとすぐに視線を落とした。
「で、式はいつにする?」
浩一郎のその言葉に驚いた聡と千代は、同時に目を合わせた。――その夜、菅井が自殺をした。遺書はなかった。
翌日、キヨに結婚の報告をするために、千代は聡を伴って実家に赴いた。
「お祖母ちゃん!」
千代の声に、キヨが急いで廊下を来た。
「千代、よう来てくれた。元気にしとったか?早う入りなはれ」
千代の腕を握った。
「……聡はんも来てはる」
口ごもった。
「……しゃあない。呼びなはれ」
キヨは、松枝の男だった聡に好意を持っていなかった。
「聡はん」
千代の声に、聡が玄関から顔を出すと、深々と頭を下げた。
「挨拶はあとや。さあ、二人とも中に入りやす」
キヨは忙しく手招きした。そして、居間に行くと、松枝の様子を話して聞かせた。
三人が松枝の部屋まで行くと、何やら童謡が聞こえてきた。
「松枝はん、開けますえ」
障子を開けたそこには、髪を乱した松枝があやとりをしていた。
「松枝はん」
キヨの声に振り向いた松枝を見て、三人は一斉に後ずさりした。真っ白い顔に真っ赤な口紅を塗っていたのだ。それは、千代が精神病院で演じた白痴を彷彿とさせた。だが、松枝は演じている訳ではなかった。
「あっ、聡はんや。逢いに来てくれはったん?うれしいわ」
抱きつこうとした松枝を聡は避けた。すると、松枝はよろよろと廊下に倒れた。
「……そないにいじめんといて。殺したんはうちちゃう。……あらっ、千代がおる。なんで千代がここにおるん?千代はおつむがおかしなって病院におんねん。……そうや、あやとりしまひょ。なあ、あやとりしまひょ」
松枝は徐に立ち上がると、指に赤い毛糸を絡めて、千代に歩み寄ってきた。千代は聡の後ろに隠れた。
「アハハハハ……」
松枝は笑い声を上げると部屋に入り、背を向けて横座りをした。そして、何やら童謡を口ずさむと、一人であやとりを始めた。
三人は目を合わせると、言葉にできないそれぞれの科を内に秘めながら、松枝の背中に憐憫の眼差しを向けた。――間もなくして、松枝は精神病院に入院した。
金太郎のよだれかけをした赤子を抱いた千代が、聡を伴ってキヨに会いに来たのは、庭の山百合が芳香を放つ頃だった。――
完
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