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死に急いだ男
しおりを挟む七月の雨は長かった。蟄居を余儀なくされた保田亮夫は散歩すらできず、原稿用紙を前に朝っぱらから酒を呷っていた。
「そんなに呑んだら、毒よ」
同棲している石田滝が、茶碗を洗いながら憂色を浮かべた。
「死ぬことなんて恐れちゃいないさ。遅かれ早かれ人間は死ぬんだ。このまま書けないんなら死んだほうがましだ」
太宰に憧憬していた亮夫は、白髪まじりの頭を掻きながら、簡単にそんな言葉を口にしていた。
「……あと一年待ってみたら?その間に傑作が書けるかもしれないじゃない」
「お前は簡単に傑作なんて言うが、書き手には分かるんだよ、自分の限界ってもんが。俺にはもう書けねぇ。『五月雨』以上のもんは」
『五月雨』は、亮夫が新人賞を受賞した作品だった。未亡人に恋する苦学生の話で、未亡人が不治の病だと知って、無理心中を図るというものだった。
亮夫はまた、湯呑みに一升瓶を傾けた。
「好きな酒を呑んで死ねたら本望だ」
「あなたは自分勝手ね。残された私の身にもなってよ。あなたと一緒に死ぬならまだしも、一人であなたの跡を追う自信はないわ」
前掛けで手を拭きながら、座椅子の亮夫の傍らに座った。
「俺の跡なんか追うことねぇさ。生きてりゃそのうち、新しい男ができるさ」
「……冷たいのね」
滝は悲しそうに俯いた。
「お前を道連れにしたくねぇだけさ」
「あなたと私は一心同体じゃない」
「無理すんなって。一時の感情でそんなことを口にするな」
滝を一瞥すると、また酒を流し込んだ。
「……」
亮夫の遺体が波打ち際で漂っているのを発見されたのは、それから数週間後だった。荒波に揉まれたせいか、顔や体の肉は殆んどなく、まるで食い残しの豚足のようだった。
その遺体を亮夫だと断言したのは、他でもない、滝だった。亮夫だと判断した根拠は、左小指の先が無いことだった。若い頃に働いていた工場で、誤って切断したと聞いていると述べた。
机の抽斗に遺書があったことから、自殺と断定された。二枚の原稿用紙には、小説を書けない絶望感が切々と綴られていた。
亮夫と同棲していたことなど、店の者も客も誰一人として知らなかった。滝は重い気持ちを隠して店に出た。
「滝ちゃん、おはよう。指名が入ってるわよ」
渋色の絽を着た、ママの庸子が声をかけた。
「あ、おはようございます。はい、すぐ行きます」
灰色のスーツを着た滝が笑顔を作った。
客席を見ると、安藤和男が手を振っていた。安藤は、「安藤組」の組長で、事務所から近いこともあって、頻繁に通っていた。
「いらっしゃいませ」
滝は深々と頭を下げた。
「滝ちゃんに会いたくて、また来ちゃった」
酒が入った安藤は上機嫌で滝を迎えた。
「ありがとうございます」
滝は安藤の横に座ると、アイロンをかけた花柄のハンカチをスカートの上に置いた。三十路を間近にした滝だったが、柔らかい物腰と、華美を削いだ清楚さを売りにしていた。安藤の傍らには二人の舎弟が若いホステスと駄弁っていた。
「ね、今度、映画でも観に行かない?」
安藤が耳元で囁いた。
「えっ!ほんとに?……うれしい」
滝は恥じらうように俯くと、上手に安藤の誘いをかわしていた。
それから間もなくだった。他の客から指名が入った滝は、安藤の真後ろの席で接客をしていた。
「ったく。高崎の野郎はどこに消えちまったんだ。あれからひと月近くなるってぇのに、行方が分からねぇ」
安藤が舎弟に愚痴を溢していた。
「足抜けですかね」
「見つけたら、ただじゃ済まさねぇ」
安藤は憤っていた。
高崎は安藤組の舎弟で、この店にも何度となく飲みに来ていた。
それから程なくして、覆面作家の、『生きていた男』というミステリー小説が上梓され、飛ぶように売れた。
スランプに陥った作家が、事故を装い保険金を手にするというあらすじのもので、事故に見せかけて、自分の身代わりに殺したのは、行方不明になっている「安藤組」の舎弟、高崎を暗示させる内容のものだった。
その後、店を辞めてアパートを引っ越した滝は、机に向かって万年筆を動かす男のアパートに移った。それはシナリオどおりの結末だった。――
完
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