道化への報酬

紫 李鳥

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 八年勤めたものの、どうもサラリーマンは性に合わなかった。大して大きくもない会社でありながら、一丁前に派閥とやらがあって、虫が好かない上司の顔色をうかがっては、追従ついじゅうに必死になっていた。それが間違いだと気付きながらも、その小さな組織の色に当然のように同化して、自分を見失っていた。

 そんな時、久し振りに会った大学時代の友人が、対照的に溌剌はつらつとしているのを目の当たりにして、現状に置かれた自分の存在があまりにもちっぽけに思えた。

「――俺も初めは、今の仕事が合ってるかどうか半信半疑だったんだが、働いて三日目ぐらいしてか、ちょっとしたきっかけで喋り出したら、出るわ出るわ。立て板に水よ。それがまたウケるもんだから、調子に乗っちゃってさ。ああ、これが天職だって、ピーンと来たね」

 榎田えのきだは学生時代から確かに口が立った。ムードメーカーで、その場をにぎやかにしたり、なごませたりはお手の物だった。小太りで愛嬌あいきょうのあるその面持ちは、当時、偏った持論を心に掲げて神経を尖らせていた俺を癒してくれた。

「……俺にも、……できるかな?」

「……今、なんて言った?」

 予想だにしなかったのか、聞き違いだと思った榎田は、ジョッキを口元から離すと聞き返した。

「お前の店で、一緒に……」

「……マジかよ」

「ああ。……試しにさ」

 俺は自信のない目を向けた。




「あんらぁ、ヤーさん。いらっしゃ~い」

 タヌキが真っ赤なマキシ丈のドレスで客を迎えた。

「その、ヤーさんはやめろよ。ヤクザみてぇに聞こえっから」

 客の矢田は、迷惑そうに言いながらも満更ではなかった。

「あんら、いつもヤなこと言っていじめっから、ヤーさんなのよ。も、ヤ~だ」

 矢田のボトルを開けながら、タヌキがやにのついた黄土色の歯をのぞかせた。

「いじめられてんのは、こっちだろが。……あれっ。昨日キープしたボトル、もう、一口もないじゃん」

 矢田が考える顔で、残り少ないボトルを不思議そうに見た。

「ハイッ!ボトルをとりましょう。矢田さま、何する、かにする、ナポレオン?それとも手頃な大五郎?しみじみ飲むなら大五郎~。ショーが観たけりゃ、ナポレオン~」

「大五郎!」

 矢田が弾みで答えた。

「ハイッ!しとしとぴっちゃん、一本!」

「ハイッ!焼酎が出るぞ~、焼酎が出るぞ~、みんな飲みましょ~、ハイッ!」

 カウンターの中で客の相手をしていた色黒のママ、カラスが、そう歌いながら、棚から焼酎を出した。

「……どうも、いらっしゃいませ」

 他の客席にいたスズメが、カラスから手渡された焼酎を持ってきた。

「あ、ヤーさん。紹介するわ。今日からなの」

 タヌキが紹介した。

「スズメです。よろしくお願いしま~す」

「あらっ、キレイじゃん。俺、こっちのほうがいい」

 矢田がスズメの腕を引っ張った。

「フンだ。ほら、スズメ、そこのけそこのけ、タヌキが通る」

 スズメを尻で押しのけると、手洗いに行った。可愛いをアピールするかのように、ピンクのドレスを着たスズメが矢田の横に座った。

「スズメちゃんだっけ?」

「ええ」

「一緒に飲も」

「はい、いただきます」

 微笑びしょうを浮かべながら、付けまつげをパチパチさせた。



 タヌキが榎田で、スズメが俺。白々明しらしらあけの街を、十五分ほど歩いて、百人町ひゃくにんちょうのアパートまで帰る。――酒の臭いと、化粧の残滓ざんしをシャワーで洗い流すと、バタンキューだった。

 生活は一変したが、苦ではなかった。むしろ、夜の勤めのほうが快適だった。起きるのは、午後の二時~三時。コーヒー好きの俺は、起きたらまず湯を沸かす。ポットの生温い湯で淹れたコーヒーほど不味まずいものはない。ハンドドリップにペーパーフィルターをセットし、ブルマンをさじに大盛り五杯。全体を湿らすと、三十秒ほど待つ。徐々に湯を注ぎ、サーバーの四杯分の目盛りでストップ。濃いコーヒーが好きだった。コーヒーと煙草。それが俺の朝食だ。サラリーマン時代からの習慣だった。

 俺には、四年ほど付き合っている恋人がいる。勿論、今の仕事のことは言っていない。四角四面な女だ、莫迦ばかにされるのは目に見えていた。埼玉の実家から通うOLの芳美よしみは平日は来ない。部屋に来るのは休日に限られていた。長年付き合っている馴れ合いからか、電話をすることも寄越すことも滅多になかった。


 新聞とテレビを観て、食事の時間までを過ごす。自炊はしない。近所の定食屋で、俺にとってはブランチの日替り定食を食べる。魚あり、肉あり、野菜ありだ。だから、食事のバランスは悪くない。

 出勤すると、ドレスに着替え、化粧をする。支度が整った瞬間、遊び半分で足を踏み入れた職業に、わずかばかりの躊躇ためらいが生じる。だが、自分に何が向いているのかの天職を探る手段として選んだ道だ、「誇りを持て」そんな自らの激励で気合いを入れた。


 そんな休日のこと。

「――まだ寝てんの?」

 芳美の声で目を覚ました。

「もう、夜になっちゃうよ」

 甘ったるい芳美の声が耳をくすぐった。

「……う」

 俺は薄目で芳美を確認すると、寝返りを打った。

「ん?……ファンデ臭い」

「……!」

 芳美のその言葉にアッと思った。店で化粧を落としたものの、帰宅してシャワーを浴びていなかったのだ。
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