七変化

紫 李鳥

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前編

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 それは、紫陽花が色を鮮やかにする頃だった。大学からの帰路、にわか雨に遭った崇文たかふみは、古い佇まいの軒先に雨宿りをしていた。

 格子戸を開ける音に振り向くと、傘を差した和服に白い割烹着かっぽうぎ姿の女が顔を覗かせた。

 崇文は、あっ、と小さく声を漏らすと、無断で軒先を借りていることを謝罪するかのように軽く頭を下げた。

「あの……」

「えっ?」

「邪魔だ」と、とがめられるのかと思い、崇文は立つ位置を気にした。

「よかったら、この傘使うとぉくれやす」

 黒い男傘を差し出した。

「……でも」

 崇文は躊躇ちゅうちょした。

「どうぞ、使うとぉくれやす」

 受け取るのを強制するかのように、女はもう一度、傘を持った手を崇文の前に差し出した。

 崇文は照れ隠しのように頭をかくと、ゆっくりと頭を下げて傘を受け取った。



 それから数日経った快晴の日だった。傘を持って歩くのは気が引けたが、次の雨まで待つのは、もっと気が引けた崇文は、目立たないように胸元に傘を隠すと、猫背になって往来を行った。


「……こんにちは」

 前回は気づかなかったが、表札の横に『書道教室』とあった。紫陽花が見える格子戸から、障子が少し開いた縁側に声をかけた。

「はーい」

 女が雪見障子から顔を出した。

「……まぁ」

 崇文の顔を認めたのか、前回同様の割烹着姿の女は急いで沓脱石くつぬぎいしにあるサンダルをつっかけると、飛び石を来て格子戸を開けた。

「先日は、……傘をありがとうございました」

 崇文は遠慮がちに小声で礼を言った。

「まぁ、こないなええ天気に傘なんか持って、気ぃ引けたやろう? 」

「ええ。少し」

「ふふふ。わざわざおいでくださったんどすさかい、お茶でも飲んでいっとぉくれやす 」

「あ、はぁ」

 断る理由がなかった崇文は、女の言葉に甘えた。


 女の名は堂本祐理子どうもとゆりこ。書道を教える未亡人だった。そのことがきっかけで、祐理子との付き合いが始まった。三十前後だろうか、ふと見せる何気ない仕草は少女のように愛らしかった。

 東京で生まれ育った崇文は、京都弁になかなか馴染なじめなかったが、祐理子のおかげで違和感がなくなった。

 それからは、ついでを装っては祐理子に会いに行った。居心地の良さと憧憬の念を含んだ特別な感情は、やがて、恋慕に変わっていった。

 夕飯時を狙ってきては、崇文が好きだと言った酒を酌してくれる、傍らの祐理子のうなじにある小さなほくろに目を据えていた。

「関東は味濃いんやろう?お口に合うんやろか 」

 そう言って顔を向けた祐理子から目を逸らすと、いわしの煮付けに箸をつけた。

「……ん。美味しい」

「ほんまに?よかったわ」

 祐理子が嬉しそうな顔をした。崇文は銚子を手にすると、恥じらうように俯く祐理子の前にある猪口ちょこに近づけた。

「まぁ、おおきに」

 祐理子の細い指先が添えられた猪口の縁が、薄く紅を塗られた唇に触れた。呑むと頬を染める祐理子を知っていた崇文は、薄紅色に変わるその瞬間を見届けたかったのだ。祐理子を眺めながら、崇文は頭の中で好きな俳句を詠んでいた。



     し
   淡 も
 愛 き つ
 し 紅 け
 き さ の
 汝 す



 ほんのりと頬を染めたのは、二杯目を飲み干した頃だった。抱きしめたい衝動に駆られながらも、学生の身分である中途半端な立場は、その器ではないと、崇文は諦めた。

 帰り際、腰を上げた拍子によろめいた祐理子を慌てて支えた。酔いも手伝ってか、うつろな目をした祐理子の唇に、酒でべとついた唇を重ねた。

「うっ……」

 逃れようとする祐理子の細い首を押さえた。やがて、力が抜けた祐理子の体を支えると、畳に横たえた。

 息苦しそうにもだえる祐理子の結った髪から、珊瑚さんごかんざしが抜けた。それを横目に、崇文は祐理子の着物の脇から指を入れた。途端、

「あかん!」

 祐理子は大きな声を上げると、素早く身をかわした。

「……好きです。……あなたが」

 酔いに任せ、崇文は想いを口にした。

「嬉しいけど、うち……、あかんのどす」

 横を向いたままで語る祐理子の乱れ髪が、妙に窈窕ようちょうに映った。

「……僕のことが嫌いですか」

「そうちゃう。……うちの乳房、……綺麗ちゃうから」

「……」

「かんにんな。帰っとぉくれやす 」

「……いやだ」

 崇文は急いで身を起こすと、蛍光灯の紐を引っ張った。暗くなった部屋の雪見障子から外灯が淡く漏れていた。

「これなら見えない」

「触ったら、……分かってまう」

「じゃあ、触らない」

「……けど」

「触らないから。絶対に」

「……」

 祐理子は目を伏せると考える素振りを見せた。そして徐に身を起こすと、帯締めに手をやった。――


 長襦袢のままで背を向けている祐理子の項に、そっと唇を触れた。慣れない手つきで伊達帯だておびをほどいてやると、ゆっくりと横たえた。

 胸を覆った祐理子の両手を掴み、それに指を絡ませると、唇だけで愛撫あいぶをした。乳房を避けながら、崇文は割れ物にでも触れるかのように、慎重に丁寧に祐理子の柔肌を下りていた。――それは、肌を重ねた瞬間だった。崇文の左胸に何か硬いものが触れた。その違和感にすぐさま体を離したが、腕の中であえぎ、もだえる祐理子を現実に引き戻すのは余りにも酷に思え、何事もなかったかのように祐理子を抱いた。

 ……乳がん?

 そんな病名を浮かべては、崇文の足は幾度となく、祐理子の家へ向かった。ハンディを背負った祐理子は、けがをして歩けない子犬のようで、崇文にとって愛しい存在だった。行く度に向ける、子供のような無垢むくな笑顔が堪らなく愛しく思えた。

 幼い頃から、弱いものやはかなげなものに惹かれる傾向があった。崇文は、みかん箱に捨てられた、けがをした子犬に逢いに行く心境だった。

「……同情やったら、いやや」

「同情なんかじゃない」

「……嬉しい」

 いつものように、乳房を覆った祐理子の手を掴んでは、そのさくらんぼ大のかたまりにくちづけをした。

 その度に流す祐理子のなみだが、雪見障子から漏れる月明かりに美しく耀かがやいていた。まるで、残された灯を謳歌するかのように。愛し合う喜びに感謝するかのように……。

 どうして手術をしないのだろう……。

 幾度となく抱いた疑問だった。だが、それを訊かないのが、愛する人への配慮だと崇文は考えていた。



     梅
   か 雨
 肩 細 寒
 を き や
 抱 ひ
 く と
   の
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