過去からの客

紫 李鳥

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 新庄に住む松田羽留子まつだはるこの許に、鬼怒川で温泉宿を営む芦川行弘あしかわゆきひろからの同窓会の返事が届いたのは、山吹が咲き乱れる頃だった。



拝啓
 春浅き山には雪を見
春深き里には菜の花を見
早春と晩春の間で
せせらぐ川が一本の帯を成しています
 ご無沙汰しています
その後お変わりありませんか
私は相も変わらず安宿の主として
貧乏暇なしと言った具合です
折角の同窓会のお誘いですが
残念ながら出席できそうにありません
皆に宜しくお伝えください
取り急ぎご返事まで
 お風邪など召しませぬよう
ご自愛ください
       敬具



「残念だわ……」

 読み終えた羽留子がぽつりと言った。

「……何、同窓会の返事か?」

 炬燵こたつ蜜柑みかんを剥いていた高志たかし一瞥いちべつした。

「うん。……今は旅館経営すてるんだげど、彼高校卒業すて東京さ行ってがら一回すか会ってねの。それも偶然さ。あなたと出会う前だがら、……二十年になるわ。彼が結婚の報告で実家さ来でだ時さ。結婚すたごど誰にも教えねんだがら……」

 羽留子は丸顔を更に膨らました。

「友達付き合いじゃなかったのか?」

「そのづもりだったわ。彼、友達も多いっけす、私もその一人だど思ってだ。……彼、無口だったんだげんと、どごどなぐ惹がれるものがあったわ……」

 羽留子は当時を回顧かいこするかのように天井を仰ぐとにやりとした。

「……ふうん。ま、旅館をってれば仕方ないさ。大きな旅館なら誰かに後のことを頼めるだろうが、小さな旅館なら難しいさ」

「そりゃそうだべげど……」

 羽留子は残念そうに口を尖らせた。

「……誰書いだのがすら」

 便箋びんせんを片手に独り言のように呟いた。

「ん?」

「女の人の字よね」

「奥さんにでも代筆してもらったんだろ」
 
「だって、新庄さ来だ人どは別れでるもの。三年前の手紙さ書いであったわ」

「再婚したかもしれないさ」

「……そうね。だったら知らしぇでぐれればいいげんど。冷でえんだがら」

 河豚ふぐのように膨れっ面をした。

「やけにご執心しゅうしんだな」

「だって、手紙ぐらいぐれでもいいでねど思って。同級生だったんだがら」

 後ろめたさを隠すかのように早口で言うと、高志を瞥見べっけんした。

「……んだげんと、綺麗な字よね。私もこのぐらい書げだらな」

 便箋を持ったままつくづくと言った。

「どれ、見せてみろ」

 最後の一個を口に放ると、羽留子から便箋を受け取った。



 その筆跡を見た途端、高志の中に稲妻が走った。当時の光景が連写のように、パチパチパチパチとシャッター音と共に現れた。それは決して美しい映像ばかりではなかった。むしろ汚泥にまみれた記憶だった。どろどろしたコールタールの底なし沼でもがくがごとく。――


「……あなた?」

 羽留子の声でハッとした。

「どうすたの?」

「……どうもしないさ。ま、無理だな。右下がりのお前の癖字は直らないだろ。この字をお手本に写経のように練習すれば、多少はうまくなるかも」

「もう、嫌味なんだがら。んだげんと、いい考えがも」

 楽天家の羽留子は、すぐに気を取り直すと、炬燵の真ん中に置いたフルーツバスケットから蜜柑を一つ取った。

 高志は、三つ折りにした便箋を入れながら、封筒の筆跡も確認した。

 ……間違いない。あいつの字だ。やはり、あいつにも癖があった。せっかちの性分同様に、楷書より行書が巧かった。自作の脚本を代筆してもらった時に、何度も目に焼き付けた筆跡だ。間違いない。高志は、当時を回顧した。――



 大学を卒業して、取り敢えず就職した。だが、好きな芝居を諦めきれず、一年足らずで会社を辞め、新劇の役者になった。バイトをしながら、友人、知人にノルマのチケットを無理矢理押し付け、それでも役者を続けていた。

 だが、五年経っても日の目を見ることはなく、取るに足りない脇役止まりだった。素質のなさを自覚しながらも、「好きな芝居をやれてるだけで幸せじゃないか」そんな激励で、自分を慰めていた。


 あれは、六本木のスナックでキッチンのバイトをしている時だった。そこは新劇の演出家が営っている店で、役者仲間の口利きで働けた。たまに顔を見せる演出家の妻は、有名な連ドラにも出演していた中堅の俳優だった。

 他にバイト感覚の若いホステスを二人置いていた。一人は十七、八のソース顔の沖縄の子。もう一人は、どこの出身かは知らないが、いつもツンと澄まして、俺とはろくに口も利かない気の強そうな十八、九の子だった。名前を順子じゅんこと言った。

 だがよりによって、その順子と関係ができたのだ。閉店時間が過ぎても帰らない客を相手にして、最終に乗り遅れたのがきっかけだった。沖縄の子が休みで、二人だけだった俺達は、始発まで近くの〈アマンド〉で時間を潰した。

 ハキハキと物を言う、小生意気そうな第一印象とは違って、俺の前で寡黙かもくにミルクティーを飲む順子の、ふと見せる寂しげな表情に惹かれたのかもしれない。

 初めて順子を抱いたのは、友人の家でだった。当時の俺は、食うのに精一杯でラブホテルに行く金もなかった。二十八にもなりながら、恋愛経験の少なかった俺は、若い順子の肉体に溺れた。

 間もなくして、一緒に暮らすことになった。友人宅にでも居候していたのか、それとも男の部屋から逃げてきたのか、紙袋を両手に提げた身軽な格好の、まるで野良猫みたいな順子と、洗足池の風呂もない安アパートで同棲を始めた。――
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