金魚たちのララバイ

紫 李鳥

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 その日、部活で帰りが遅くなった小生与志子おのよしこは、バスを降りると家路を急いでいた。秋の日は釣瓶落としだ。あっという間に暗くなる。山間やまあいの人家の疎らな道には街路灯もない。しかしながら、与志子は慣れた足取りで暗くなった道を歩いていた。

 間もなくして、砂利の音と共にヘッドライトの明かりが背後から近付いてきた。振り向くと、車は徐行した。

「あれっ、よしこちゃん?」

 声を掛けたのは兄の友人で、村一番の素封家そほうかの一人息子、君島正彦きみじままさひこだった。

「あらっ、正彦さん」

「今、帰り?遅いね」

 開けた窓に運転席から顔を覗かせた。

「部活でミーティングしてたから」

 茜色のマフラーを背中に戻しながら、背を低くした。

「送っていくよ。乗りな」

「いいんですか?ありがとうございます」

 与志子は軽い気持ちで助手席に乗った。

「……ん?」

 ドアを閉めた途端、アルコール臭かった。運転する正彦の横顔を見た。シンナー中毒者のような、瞬きのない目を前方に据えていた。

「……お酒呑んでるんですか?」

「ああ、少しな」

 悪びれる様子はなかった。

「まずいですよ。停めてください」

 だが、正彦は前方を見据えたまま返事をしなかった。

「降ろしてくださいよっ!」

 与志子は、ドアハンドルを動かした。

「あっ、そっちじゃない」

 車は人家のない道にカーブした。

「いやだー、降ろしてーっ!」

 必死に叫んだ。だが、正彦は与志子を見ることもなく、薄ら笑いを浮かべていた。

 逢魔時おうまがときに白く浮かんだ車は、やがて、もみの林に消えた。――


 与志子は玄関の前に佇んでいた。明かりが漏れる戸口の向こうには、父と兄のいつもの軽口もなく、重苦しい静寂がよどんでいた。戸を開ける勇気がなかった。――だが、マフラーのボンボンを握り締めると、

「ただいまっ!」

 と、元気な声を上げた。

「バカヤロー!今、何時だと思ってるんだ」

 途端、父、一二三かずふみ癇癪玉かんしゃくだまが飛んできた。

「……ごめんなさい。部活で――」

 晩酌をしている一二三に謝った。

「いいから、めし作ったから食え」

 お茶を飲んでいた兄の民雄たみおが優しく言った。与志子は民雄の横に座ると、マフラーを外した。

「……いただきます」

 小さな声で言うと、箸を持った。こんにゃくと玉ねぎの甘辛しょうが焼きを食べながら、思わず涙が溢れた。そのことに気付かれまいと、俯いたままで、民雄が温め直してくれた大根と油揚げの味噌汁を啜った。……美味しかった。


 民雄に打ち明けようか迷った。――結局、話せなかった。

〈父さん、兄さん、ごめんなさい。どうしてもこの村にいたくないんです。わけは言いたくありません。父さんや兄さんと同じように、畑仕事を手伝いながら花嫁修業でもするつもりでした。本当です。でも、事情が変わったんです。黙って出ていくことを許してください。必ず手紙書きます。父さん、兄さん、元気でいてください。お金少し借ります。 与志子〉

 高校を卒業した与志子は、置き手紙をすると汽車に乗った。

 春なのに、磐梯山ばんだいさんいただきはまだ白い。父さん、兄さん、ふるさとの会津、そして、悪夢よ、さようなら……。与志子は車窓に流れる山並みを眺めながら、心の中でそう呟いた。――


 上野駅に着いた与志子は、人の多さに圧倒され、立ちすくんだ。どこに急いでいるのか、行き交う人達は皆が早足だった。人ごみを縫うようにして歩き、やっと構内を出ることができた。

 当てのない与志子は、浮浪者になった思いだった。上野公園のベンチに腰を下ろすと、キヨスクで買った求人誌を開いた。だが、職種を決めかねていた。

 ……会社勤めをするには履歴書が必要だ。住民票を移動したら父に居場所がバレてしまう。会津に連れ戻されるのは嫌だ。……履歴書の要らない仕事は水商売くらいしかないか。だが、男にこびを売る仕事なんか絶対に嫌だ。かと言って、他に何がある?与志子がそんなことを考えている時だった。

「あのう……」

 グレーのコートを着た優男が声を掛けた。

「……はい?」

 顔を上げた。

「仕事を探してるみたいですけど」

「……ええ」

「わたくし、こう言う者ですが」

 男は内ポケットから名刺を出した。

〈クラブ晃
 オーナー坪井晃つぼいあきら

 と、あった。

「私、ホステスとかイヤなんですけど」

 名刺を見た与志子は、露骨に嫌な顔をした。

「いや、ホステスじゃないです。失礼」

 晃は与志子の横に腰を掛けた。

「麗人クラブです」

「……れいじん?」

「そう。つまり、女性が男の格好をして、女性のお客さんと会話をするんです。“男裝の麗人”て聞いたことない?」

「……ありますけど」

(……じゃ、この人、女なの?)

「一目見てイケると思った。そのボーイッシュな顔立ちに髪型。身長は?」

「……168です」

「いいねいいね。ね、お茶しよう。おいで」

 晃の細い指が、与志子の毛玉ができたウールコートに触れた。
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