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第三章 口舌り
第三十一話 過労 31 3-5-1/3 93
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クイに別れを告げ、ユミは鳩の巣を後にする。
腰のがま口にはキリの書いた鴛鴦文が入っている。
これをソラに読んでもらおうというのが、かねてからの計画だった。
巣を訪れる前はミズの落第が尾を引いて気が重くなっていたが、その件についてもある程度悩みが払拭された。
自らミズへとコナの想いを届けることが出来ないのは口惜しいが、2人の行く末は見届けたい。その顛末を知れば、アサも喜んでくれるのではないかと夢想する。
とは言え疲労が頂点に達していた。
孵卵の監督を務め、結果の報告を終え、その足でクイと対峙したのだ。我が家へと歩を進める毎に、抱えていた緊張感が解けていくが、それとともに足取りが重くなるのを感じていた。
ミズの孵卵が最短とされる3日で済んだのは幸いだったが、その間碌に休むことが出来ていない。
ミズは終始、歌うか眠るかを繰り返していた。彼女が眠った隙にサイと交代で仮眠をとってはいたのだが、心身共に負荷が蓄積していった。
先刻、サイはテコにあっさり投げられてしまっていたが、それも彼女の疲労があってのことだろう。それを含めてテコの戦略が功を奏したと言える。
大人の勝負に手段は選んでいられないと言うのがサイの座右の銘でもあるが、投げられた彼女は実に満足そうだった。傍から見れば阿呆鴛鴦と言いたくなる気持ちも今のユミなら理解できる。
家路が長い。
支えになるのはやはりキリとの思い出だ。もりすを駆使して鴛の手の温もりを記憶から引きずり上げる。
朦朧とした意識の傍ら、甘い気持ちになったり、羞恥心がこみあげたり。夢の中のような帰り道ではあったが、どうにか間借りしている長屋の前に辿り着く。
いざ我が家へと足を踏み入れようとした時、背後から太い男の怒声が聞こえてくる。
「ユミ!」
「トキ教官!?」
振り返ってみれば、そこにはかつての恩師が立っていた。
そのただならぬ剣幕にユミの眠気も覚めてしまう。
「お袋さんが倒れた!」
「お母さんが!?」
一体いつ? 私が家を空けていたから?
そのような疑問が浮かんだが、居ても立ってもいられなくなる。
「お母さんは医術院?」
「ああそうだ。たまたま俺が近くにいたから運んでやれたんだが……。早く行ってやれ!」
「ありがとう!」
言い終わる前に駆け出していく。足取りは嘘のように軽くなっていた。
――――
「お母さんは!?」
医術院の正面玄関へと足を踏み入れるや否や、受付台に座る女性へと問いかける。
ユミの鬼のような形相に一瞬気圧されたものの、受付嬢は冷静に応じる。
「落ち着いてユミちゃん。お母様は無事です。ちょっと疲れたみたいで……。あと、院内では静かに」
「ご、ごめんなさい」
既に顔なじみとなっていた彼女の言葉が胸に刺さる。
鳩になって間もない頃は幾度もこのような注意を受けてきたが、今となっては懐かしい感覚に肩をすくめる。
「お母様は2階の突き当りの……、ここの部屋です。」
嬢は受付台の傍らに掲げられた院内地図へ描かれた一室を指し示す。
「ありがとう」
「3人部屋だからくれぐれも大きな音を立てないでね」
「はいぃ……」
繰り返される注意にユミの動揺はむしろ鎮まっていく。それに乗じる様にぺこりと頭を下げ、母の待つ病室へと足を向けた。
階段を昇り、廊下を歩く。脳裏によぎるのはユミ自身の孵卵で一時帰宅した際の母の姿だ。
止むをえない部分もあったとは言え、試験開始前夜よりも一回りほど縮んでしまったその体を目の当たりにして、ユミは罪悪感を覚えたものだった。
トミサの医術院へ通うようになって以来、母はおおむね元気な様子に見えた。そのおかげでユミは鳩として安心して家を空けることが出来たのだ。
やがて件の病室の前まで辿り着き、1つ大きく息を吐く。
――大丈夫、お母さんは無事だって言ってた。
嬢の言葉を思い出しながら自身を勇気づける。
先刻のクイとの会話では母が人質になっている一面を認めざるを得なかったが、トミサへ連れて来たこと自体は後悔していない。
人との関りが増えたのはユミだけではなく母も同様だ。今回の入院の原因は単なる疲労だったとは言え、1人では行き倒れていた懸念もある。
トキが偶然近くに居たのは確かに運が良かったのだろうが、たとえそうでなかったとしてもトミサで暮らす限りは誰かが助けてくれたはずなのだ。
これも鳩の縛めによって維持された平和による恩恵と言えるのだろう。欠点があるとすればその恩恵を享受できる者が限られている点なのだが、今のユミはこの体制に感謝するしかなかった。
意を決して病室の戸を叩こうとした手を引っ込める。中にいるのは母だけではないのだ。
他の入院患者に配慮して、戸をゆっくりと横へ滑らせる。戸の縁に蝋でも塗られているのだろうか、まるでひっかりが無い。
部屋の中には横並びに寝台が3つ配置されていた。奥、中央、手前。
奥の寝台は垂れ幕で姿は隠されている。
また手前の寝台には、人の寝ていた痕跡はあるものの今においては不在の様である。
見た目には中央の寝台で1人だけが体を横たえているような状況だ。
ユミはゆっくりその人影へと近づき、顔を覗き込む。間違いなく母の顔だ。安らかな寝息を立てている。
ユミの胸へと安堵感が一気に押し寄せた。
「お、かあ……さん」
薄れゆく意識の中、絞るように声を出す。
母の枕元へ顔を突っ伏すと、ユミもそのまま眠りに落ちていく――。
腰のがま口にはキリの書いた鴛鴦文が入っている。
これをソラに読んでもらおうというのが、かねてからの計画だった。
巣を訪れる前はミズの落第が尾を引いて気が重くなっていたが、その件についてもある程度悩みが払拭された。
自らミズへとコナの想いを届けることが出来ないのは口惜しいが、2人の行く末は見届けたい。その顛末を知れば、アサも喜んでくれるのではないかと夢想する。
とは言え疲労が頂点に達していた。
孵卵の監督を務め、結果の報告を終え、その足でクイと対峙したのだ。我が家へと歩を進める毎に、抱えていた緊張感が解けていくが、それとともに足取りが重くなるのを感じていた。
ミズの孵卵が最短とされる3日で済んだのは幸いだったが、その間碌に休むことが出来ていない。
ミズは終始、歌うか眠るかを繰り返していた。彼女が眠った隙にサイと交代で仮眠をとってはいたのだが、心身共に負荷が蓄積していった。
先刻、サイはテコにあっさり投げられてしまっていたが、それも彼女の疲労があってのことだろう。それを含めてテコの戦略が功を奏したと言える。
大人の勝負に手段は選んでいられないと言うのがサイの座右の銘でもあるが、投げられた彼女は実に満足そうだった。傍から見れば阿呆鴛鴦と言いたくなる気持ちも今のユミなら理解できる。
家路が長い。
支えになるのはやはりキリとの思い出だ。もりすを駆使して鴛の手の温もりを記憶から引きずり上げる。
朦朧とした意識の傍ら、甘い気持ちになったり、羞恥心がこみあげたり。夢の中のような帰り道ではあったが、どうにか間借りしている長屋の前に辿り着く。
いざ我が家へと足を踏み入れようとした時、背後から太い男の怒声が聞こえてくる。
「ユミ!」
「トキ教官!?」
振り返ってみれば、そこにはかつての恩師が立っていた。
そのただならぬ剣幕にユミの眠気も覚めてしまう。
「お袋さんが倒れた!」
「お母さんが!?」
一体いつ? 私が家を空けていたから?
そのような疑問が浮かんだが、居ても立ってもいられなくなる。
「お母さんは医術院?」
「ああそうだ。たまたま俺が近くにいたから運んでやれたんだが……。早く行ってやれ!」
「ありがとう!」
言い終わる前に駆け出していく。足取りは嘘のように軽くなっていた。
――――
「お母さんは!?」
医術院の正面玄関へと足を踏み入れるや否や、受付台に座る女性へと問いかける。
ユミの鬼のような形相に一瞬気圧されたものの、受付嬢は冷静に応じる。
「落ち着いてユミちゃん。お母様は無事です。ちょっと疲れたみたいで……。あと、院内では静かに」
「ご、ごめんなさい」
既に顔なじみとなっていた彼女の言葉が胸に刺さる。
鳩になって間もない頃は幾度もこのような注意を受けてきたが、今となっては懐かしい感覚に肩をすくめる。
「お母様は2階の突き当りの……、ここの部屋です。」
嬢は受付台の傍らに掲げられた院内地図へ描かれた一室を指し示す。
「ありがとう」
「3人部屋だからくれぐれも大きな音を立てないでね」
「はいぃ……」
繰り返される注意にユミの動揺はむしろ鎮まっていく。それに乗じる様にぺこりと頭を下げ、母の待つ病室へと足を向けた。
階段を昇り、廊下を歩く。脳裏によぎるのはユミ自身の孵卵で一時帰宅した際の母の姿だ。
止むをえない部分もあったとは言え、試験開始前夜よりも一回りほど縮んでしまったその体を目の当たりにして、ユミは罪悪感を覚えたものだった。
トミサの医術院へ通うようになって以来、母はおおむね元気な様子に見えた。そのおかげでユミは鳩として安心して家を空けることが出来たのだ。
やがて件の病室の前まで辿り着き、1つ大きく息を吐く。
――大丈夫、お母さんは無事だって言ってた。
嬢の言葉を思い出しながら自身を勇気づける。
先刻のクイとの会話では母が人質になっている一面を認めざるを得なかったが、トミサへ連れて来たこと自体は後悔していない。
人との関りが増えたのはユミだけではなく母も同様だ。今回の入院の原因は単なる疲労だったとは言え、1人では行き倒れていた懸念もある。
トキが偶然近くに居たのは確かに運が良かったのだろうが、たとえそうでなかったとしてもトミサで暮らす限りは誰かが助けてくれたはずなのだ。
これも鳩の縛めによって維持された平和による恩恵と言えるのだろう。欠点があるとすればその恩恵を享受できる者が限られている点なのだが、今のユミはこの体制に感謝するしかなかった。
意を決して病室の戸を叩こうとした手を引っ込める。中にいるのは母だけではないのだ。
他の入院患者に配慮して、戸をゆっくりと横へ滑らせる。戸の縁に蝋でも塗られているのだろうか、まるでひっかりが無い。
部屋の中には横並びに寝台が3つ配置されていた。奥、中央、手前。
奥の寝台は垂れ幕で姿は隠されている。
また手前の寝台には、人の寝ていた痕跡はあるものの今においては不在の様である。
見た目には中央の寝台で1人だけが体を横たえているような状況だ。
ユミはゆっくりその人影へと近づき、顔を覗き込む。間違いなく母の顔だ。安らかな寝息を立てている。
ユミの胸へと安堵感が一気に押し寄せた。
「お、かあ……さん」
薄れゆく意識の中、絞るように声を出す。
母の枕元へ顔を突っ伏すと、ユミもそのまま眠りに落ちていく――。
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