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第四章 巣立ち
第四十三話 報い 43 4-4-1/4 131
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「ケン!」
その大きな背中に向けて怒声が飛んでくる。
ケンと呼ばれた男はくるりと振り返り、声の主と対峙する。
「カラ……、か」
月明かりの下、赤く光らせたケンの瞳には、怒りに燃えるカラの姿が映っていた。
その憎悪の理由にもケンは既に気づいていた。
――――
ケンが不義密通の末にソラを授かったのは11年ほど前のことである。
そして初めてラシノへ足を運んだのがその1年前となる。
この村への訪問は、数ある鳩の務めの内の1つという認識でしかなかった。
実際一目見た際のラシノの印象は、辺鄙で過疎な村だというものだった。
唯一評価できる点があるとすれば、蓬香る共同浴場の存在だ。
ラシノまでの道中で蓄積した疲労も、湯舟に浸かることで癒されていくのを感じたのだった。
とはいうものの、それ以外については特に面白味を見出すことも出来ず、与えられた任務を済ませて早々にトミサへ帰りたいと思っていた。
しかし出会ってしまった。魔性の女とでも言うべき存在に。
それはラシノに滞在中の2日目の夜のことだった。
その日の仕事を終えたケンは、昨晩と同様に浴場で身を清めていた。すると隣の女湯から、耳をくすぐるような鼻歌が聞こえてくる。
それが妙にケンの琴線に触れてしまい、音を頼りに暫く女の様子を伺っていた。
鼻歌はやがて衣擦れの音に変わる。ケンも応じるように着物へ腕を通し、男湯側の脱衣所の戸を開き小屋から出た。
程なくして女も浴室から外へと現れた。ケンは女との邂逅を偶然のように振舞おうとしたが、その姿を見て息を飲む。
湯上りのアイは、頬を火照らせ、髪を湿らせていた。それはまるでこの世のものとは思えないほどの艶っぽさを帯びていた。
対するアイも、ケンに対して同様の感情を抱いたようだった。
お互いに名前だけは交わしたはずだった。それ以上の言葉は発するまでも無かった。
気づいた頃には、女と2人で朝を迎えていたのだった。
この時のケンはまだ、アイの内に眠る狂気など知る由も無かった。
実のところ、これはケンにとって久方ぶりの衝動であった。
これ以前の衝動体験ともなれば、さらに時間を1年前まで遡ることになる。
それはマイハでの出来事だった。
鳩の務めでウラヤに赴いた際、当然のように飛び込んだその場所で、1人の百舌鳥を見かけたのだった。
ケンがマイハへ通うのは初めてではなかったが、その百舌鳥とは初対面だった。明らかに他の者とは異なる雰囲気にケンは自ずと心惹かれてしまったのだ。
今にも折れてしまいそうな手足で、丁寧に洗濯物を干す様は儚くも美しさを感じた。また彼女の背後からは他の百舌鳥達が囃し立てていたが、彼女は真一文字に口を結び、必死で耐え忍んでいたようだった。その姿は健気であったが、それ以上に心の強い女性であるのだとケンは感銘を受けることになる。
ケンは居ても立っても居られなくなった。
有り金をその場に投げると、百舌鳥の手を引きヤマの医院まで引き連れて行く。
ケンはその百舌鳥を手に入れたいというより、美しいままでいて欲しいという衝動に駆られていた。
故にマイハから連れ出した後は特に手を出すつもりもなかったのだ。
しかしその後の百舌鳥の態度は、ケンに手加減させることを許さなかった。
そのことに負い目を感じ、結局ヤマには一連の出来事について話すことが出来ないでいた。
ケンが鳩になりたいと思ったのは、赴いた先の村で出会った者と鴛鴦の契りを結べると知ったことがきっかけだった。
鴛鴦の契り自体への関心は薄かったが、幼い頃からトミサの塀の内でも女に言い寄られることが多かった。故に鳩になれば、この世界のもっと多くの女と巡り合うことが出来るのではないか、そう考えたのだった。
そんな好奇心に駆られるまま孵卵を受験し、すんなりと合格を果たした。
鳩になって以来は、以前より暴力衝動と性衝動に駆られやすくなったと感じていた。しかし思い描いていた通り、女に不自由のない生活が現実となり、それらの衝動に頭を悩ませることもほぼ無かった。
また件の百舌鳥と出会って以来、かつてのような衝動が湧きたつこともほぼなくなっていた。百舌鳥を思えば、他の女に対して魅力など毛ほども感じられなかったのだ。
そして自身への縛めとして、2度とマイハに足を踏み入れぬよう、ウラヤへの出張は避ける様になっていた。
ところがアイは、恐ろしく魅力的だった。百舌鳥とは対照的に我が物にしたいという欲望に駆られてしまった。
既にアイが鴛鴦文で相手の決まった女であると知った頃には遅かった。
ラシノに赴く機会は多くなかったが、フデからアイの腹が膨らみ始めているとの報告を受けた時には青ざめた。
しかし対するアイの反応はあっけらかんとしたものだった。烙印を受けることになると言うのであれば、その前に森へ逃げ込み、親子ともども3人で暮らせば良いなどと言い出した。
もはやその頃のケンにとっての最優先事項は、我が子の安全を守ることになっていた。
何も罪を持たぬ我が子にそのような暮らしを強いる訳にはいかない。そもそも森の中で、子供が生き続けられるとも考え難い。
ケンは藁にも縋る思いで、ヤマに助けを求めたのであった。
ヤマによるソラの奪取計画は概ねうまくいったと言える。
未遂に終わったものの、アイがソラの眼を抉ろうとしたことは到底許せるものではなかったが。
その大きな背中に向けて怒声が飛んでくる。
ケンと呼ばれた男はくるりと振り返り、声の主と対峙する。
「カラ……、か」
月明かりの下、赤く光らせたケンの瞳には、怒りに燃えるカラの姿が映っていた。
その憎悪の理由にもケンは既に気づいていた。
――――
ケンが不義密通の末にソラを授かったのは11年ほど前のことである。
そして初めてラシノへ足を運んだのがその1年前となる。
この村への訪問は、数ある鳩の務めの内の1つという認識でしかなかった。
実際一目見た際のラシノの印象は、辺鄙で過疎な村だというものだった。
唯一評価できる点があるとすれば、蓬香る共同浴場の存在だ。
ラシノまでの道中で蓄積した疲労も、湯舟に浸かることで癒されていくのを感じたのだった。
とはいうものの、それ以外については特に面白味を見出すことも出来ず、与えられた任務を済ませて早々にトミサへ帰りたいと思っていた。
しかし出会ってしまった。魔性の女とでも言うべき存在に。
それはラシノに滞在中の2日目の夜のことだった。
その日の仕事を終えたケンは、昨晩と同様に浴場で身を清めていた。すると隣の女湯から、耳をくすぐるような鼻歌が聞こえてくる。
それが妙にケンの琴線に触れてしまい、音を頼りに暫く女の様子を伺っていた。
鼻歌はやがて衣擦れの音に変わる。ケンも応じるように着物へ腕を通し、男湯側の脱衣所の戸を開き小屋から出た。
程なくして女も浴室から外へと現れた。ケンは女との邂逅を偶然のように振舞おうとしたが、その姿を見て息を飲む。
湯上りのアイは、頬を火照らせ、髪を湿らせていた。それはまるでこの世のものとは思えないほどの艶っぽさを帯びていた。
対するアイも、ケンに対して同様の感情を抱いたようだった。
お互いに名前だけは交わしたはずだった。それ以上の言葉は発するまでも無かった。
気づいた頃には、女と2人で朝を迎えていたのだった。
この時のケンはまだ、アイの内に眠る狂気など知る由も無かった。
実のところ、これはケンにとって久方ぶりの衝動であった。
これ以前の衝動体験ともなれば、さらに時間を1年前まで遡ることになる。
それはマイハでの出来事だった。
鳩の務めでウラヤに赴いた際、当然のように飛び込んだその場所で、1人の百舌鳥を見かけたのだった。
ケンがマイハへ通うのは初めてではなかったが、その百舌鳥とは初対面だった。明らかに他の者とは異なる雰囲気にケンは自ずと心惹かれてしまったのだ。
今にも折れてしまいそうな手足で、丁寧に洗濯物を干す様は儚くも美しさを感じた。また彼女の背後からは他の百舌鳥達が囃し立てていたが、彼女は真一文字に口を結び、必死で耐え忍んでいたようだった。その姿は健気であったが、それ以上に心の強い女性であるのだとケンは感銘を受けることになる。
ケンは居ても立っても居られなくなった。
有り金をその場に投げると、百舌鳥の手を引きヤマの医院まで引き連れて行く。
ケンはその百舌鳥を手に入れたいというより、美しいままでいて欲しいという衝動に駆られていた。
故にマイハから連れ出した後は特に手を出すつもりもなかったのだ。
しかしその後の百舌鳥の態度は、ケンに手加減させることを許さなかった。
そのことに負い目を感じ、結局ヤマには一連の出来事について話すことが出来ないでいた。
ケンが鳩になりたいと思ったのは、赴いた先の村で出会った者と鴛鴦の契りを結べると知ったことがきっかけだった。
鴛鴦の契り自体への関心は薄かったが、幼い頃からトミサの塀の内でも女に言い寄られることが多かった。故に鳩になれば、この世界のもっと多くの女と巡り合うことが出来るのではないか、そう考えたのだった。
そんな好奇心に駆られるまま孵卵を受験し、すんなりと合格を果たした。
鳩になって以来は、以前より暴力衝動と性衝動に駆られやすくなったと感じていた。しかし思い描いていた通り、女に不自由のない生活が現実となり、それらの衝動に頭を悩ませることもほぼ無かった。
また件の百舌鳥と出会って以来、かつてのような衝動が湧きたつこともほぼなくなっていた。百舌鳥を思えば、他の女に対して魅力など毛ほども感じられなかったのだ。
そして自身への縛めとして、2度とマイハに足を踏み入れぬよう、ウラヤへの出張は避ける様になっていた。
ところがアイは、恐ろしく魅力的だった。百舌鳥とは対照的に我が物にしたいという欲望に駆られてしまった。
既にアイが鴛鴦文で相手の決まった女であると知った頃には遅かった。
ラシノに赴く機会は多くなかったが、フデからアイの腹が膨らみ始めているとの報告を受けた時には青ざめた。
しかし対するアイの反応はあっけらかんとしたものだった。烙印を受けることになると言うのであれば、その前に森へ逃げ込み、親子ともども3人で暮らせば良いなどと言い出した。
もはやその頃のケンにとっての最優先事項は、我が子の安全を守ることになっていた。
何も罪を持たぬ我が子にそのような暮らしを強いる訳にはいかない。そもそも森の中で、子供が生き続けられるとも考え難い。
ケンは藁にも縋る思いで、ヤマに助けを求めたのであった。
ヤマによるソラの奪取計画は概ねうまくいったと言える。
未遂に終わったものの、アイがソラの眼を抉ろうとしたことは到底許せるものではなかったが。
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