トキノクサリ

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人形山 -3-

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 サイレンは止まる事がなかった。僕らは畑を抜け、町の入口あたりまで走ってきた。町はまだ、特に騒がしい様子でもなかった…というか、いつも通り、人影はなかった。ただ、普段より車通りは少ないように感じた。
 ウミが、セーラー服の胸許に手を当てて呼吸を整えながら、心配そうな表情で今来た道を振り返った。途端、彼女は、僕の肩越しに視線を送り、息を飲んだ。僕はその表情に訝りながら、ウミの視線の方向を、同じく振り返った。
「…まさか…噴火したのか…?」
 人形山の頂上付近から、煙とも蒸気ともとれる気体が薄っすらと吹き上がっているのが、遠目に分かった。僕たちがいる場所は、恐らく風下になる筈だけれど、今のところ異臭はしない。
 僕は、視線を噴煙から外さないウミの顔を見遣った。気丈なウミは、震えるでもなく、取り乱すでもないが、眉をひそめて不安そうな表情をしていた。彼女は恐らく、幼少期より島の噴火の被害について、学校や祖父から聞かされていたに違いない。
「過去に、噴煙が上がったことは?」
 僕がウミに訊いた。ウミはかぶりを振った。
「ううん…初めて。わたしも、多分島の全員が初めてだと思う…」
「サイレンが鳴った、という事は、噴火する事態を想定していた、って事だよね? 避難訓練とかをしたことは?」
 今度は首を縦に振った。
「小学校、中学校と、毎年やってた…。でも、サイレンを聞いたのは初めて…」
「この場合、どういう行動をすればいいか、習ってる?」
「うん、噴火が始まっていれば、できるだけ大きな建物に隠れる。外にいる場合は、ヘルメットやリュックで火山弾の被害から身を護る…。でも、今はまだそんな段階じゃないよね。町の人たちの様子を伺いながら、役場までいこう! アスカの小学校の様子が解るかもしれないし、おじいちゃんにも状況を早く説明してあげたいし」
 僕らは互いに、不安を隠せないまま、歩道を歩き始めた。もし噴火した場合、マグマは町まで届くのだろうか? そうでなくとも、灰が大量に降るようであれば、恐らく陸に避難しなければならないだろう。

 役場は既に人だかりができており、多くの人が情報収集にやってきていた。町内放送で状況を説明すればよいものの、それをしないで人が集まってくるのを許してしまったという事は、判断が遅れているんだろうか。
 駐車場を走り抜けて、人垣をどう潜り抜けようか画策しようというタイミングで、中から数人の大人が不安そうな面持ちで出てきた。ウミはすかさず、その大人たちに話かけた。
「先生、小学校は無事ですか? アスカたちは…」
 なるほど、小学校の先生たちか。さしずめ、電話がつながらずに足で情報を取りに来た、というところだろう。
「大丈夫、安心して」若い女性の教員が答えた。「まだ噴火には至っていないみたい。クラブ活動で残っている子供たちには帰宅指示を出したから、アスカさんはもう家についていると思うわ」
 ウミは、少し安堵の表情を見せると、教員にお礼を言った。
「いずれ避難指示は出るかもな」体育教師と思われるジャージ姿の男性が言った。「これから、小規模な地震が頻発したり、二酸化硫黄とかのガス濃度が高まるようだと噴火の可能性が高まるから、それ次第だ。どのみち、いつでも家を空けられるように持ち出し荷物はある程度まとめておいた方がいいよ」
「溶岩か火砕流が、町に流れてくる恐れは、あるんでしょうか?」
 僕が訊いた。
「役場の人が言うには、前回の噴火の記録では集落がいくつか潰されたそうだが、今の町や集落の配置は溶岩を避けるように作られているとのことだ。だけれども、溶岩が必ずしも毎回同じ流れ方をするとは限らない」
 町が飲まれる可能性もゼロではない、という事か。
 ウミは、祖父とアスカが心配だと言うので、僕らは役場で別れてそれぞれ帰宅した。やがてサイレンは止み、代わりに告知の放送が流れた。とりあえず現状では自宅待機指示だ。
 帰宅すると、僕の祖母は屋外におり、人形山の噴煙をいつになく険しい表情で見つめていた。前回の噴火が数百年前だとすると、祖母は噴火を経験していない筈だ。何かを知っているような表情だが…気のせいか。

 翌日、事態は相変わらず判然としなかったが、授業は通常通り行われた。子供たちにとっては自宅にいるよりも校舎内にいた方が生存確率が高まるという判断だろうか。僕らが漠然とした不安と共に数学やら古典やらの講義を聞いている間、陸からは自衛隊やら研究員やらがやってきたようだ。観測装置の設置に来たらしい。高台にあるこの高校も設置対象に選定されているらしく、隊員が大掛かりな装置を担いで屋上へと上がっていく様子が、教室の窓越しに伺えた。数名の隊員は、いずれもガスマスクや防護服を身に着けている。火山噴火への対策とは、こんなに物々しいものなのだろうか。

「噴火すれば、ガスの濃度が高まるだろうからな」僕と野辺は窓際の机の上に腰掛け、校庭を駆け回る隊員たちの様子を伺った。「空気中のガスの濃度でも測定する装置だろ」
 野辺の推測には説得力があった。だからガスマスクをしている訳だ。設置する本人たちが倒れては島民を護れない。
「これからどうなると思う?」僕は、呟くように野辺に訊いた。「野辺は、少なくとも僕よりは、噴火時にどういう対策が取られるか知っているだろ?」
「オレは地質には詳しくないんだが、人形山の溶岩は粘度が高いらしい。つまり、噴火したからといってすぐに町まで降りてくるという訳じゃないし、万一噴火しても現在人が住んでいる地域は安全だとオレ達は聞かされて育ってる。だから、想定内の噴火であれば島外避難はないんじゃねえかな」
 そういうものなのか。存外に島民は楽観的なのかもしれないな。
「であれば、そこまでパニックに陥るような事はなさそうだね」
「今生きている人間は、誰も噴火を経験していないからな、そりゃあ、不安さ。ガスや火砕流が大丈夫だったとしても、灰は降るだろうしな…」
「灰か…確かに、そいつは厄介そうだね」
 僕の言葉に、野辺は机から降りると、神妙な表情で僕の方を向いて立った。
「ブルーシートとか、掃除道具とか、今のうちに仕入れておいた方がいいかもな。灰が降り始めると品不足になるに違いない。金物屋は島に何軒もないからな」

 噴煙が観測された日から数日間、小さな地震が一日に何度も起こった。マグマが蠢いて、地下の巨石たちを飲み込んでいるのだろうか。学校では全員にヘルメットが配布され、登下校時の着用が必須化された。ウミの情報によると、島の小学校では、もともと荷物入れはリュックだろうと手提げだろうと任意だったが、ランドセルでの登下校が推奨されるようになったらしい。いずれも、噴火による火山弾から身を護る事を前提とした対応だ。アスカはランドセルを子供っぽいと嫌がっているらしい。あの娘らしいと言えば、そうか。陸の小学校では、昨今ランドセルは様々なデザインや色の物が一般的にみられるようになったが、この島では男子が黒、女性が赤、の伝統に倣っている。デパートまで船を乗り継いで買いに行くような事は難しいのだろうな。出入りの業者が毎年、一括で納入でもしているのだろう。

 毎晩、僕とウミは、スマホのメッセンジャーアプリで連絡を取り合った。

―― もうすぐ噴火しそうだね。うちは、おじいちゃんとアスカだけだから心配

―― この地震の感じだと、もう数日のうちには噴火するだろうね。うちは原付にシートを毎日被せているけれど、それ以外の対策はやっていないかな。風呂の水は毎晩張りっぱなしにしてるけれど

―― おじいちゃんね、毎日外に出て、人形山の方を深刻な顔つきで見上げてるんだよ。そんなに心配しても仕方がないのにね

―― 僕の祖母も全く同じ状況。噴火したら、すぐに逃げ出せるかを気にしているんだろうか。昼間は麓の神社に出かけているみたいだけれど、神頼みをするほど生に執着している様子もないんだよね。そういう性格でもないし

―― 授業中なら、わたしたち、避難は一緒だね。お互い家にいるときに噴火したら、連絡とりあって家族をつれて避難しようね

―― 島外避難にならなければいいけどね。灰の処理だけだったら、ウミの家に手伝いに行くよ

―― うん、ありがと
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