秘密のアルバイト

春日井駿

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15.お母さん

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 美由紀は305号室のドアを静かに押し開けた。病室の中に足を踏み入れると、整然と整備されたベッドが目に入ったが、肝心の母の姿がない。カーテンが軽く揺れ、窓から差し込む午前の光だけが白いシーツを照らしている。
「あれ?お母さん?」
 美由紀の心臓が一瞬止まったような感覚に襲われた。入院患者が病室にいないということは、急変したのか、それとも手術なのか。頭の中に最悪のシナリオが次々と浮かんでは消えていく。
 その時、廊下から車椅子の音が聞こえてきた。美由紀が振り返ると、看護師に車椅子を押してもらった母の文華がゆっくりと病室に戻ってきた。
「あら、美由紀?」
 文華が驚いたような、それでいて嬉しそうな表情を浮かべた。
「お疲れ様でした」
 看護師が丁寧に挨拶しながら、車椅子をベッドの横に停めた。
「雪城さん、検査お疲れ様でした。結果は後日お伝えしますね」
「ありがとうございました」
 文華が看護師に礼を言うと、看護師は美由紀の方を向いた。
「お嬢さんですね。お母様、朝から心電図とエコー検査を受けてらして、今戻ったところなんです」
「そうだったんですね。ありがとうございます」
 美由紀が安堵の息を吐きながら頭を下げた。検査だったのかと分かり、胸の奥でざわめいていた不安が少し落ち着いた。
 看護師が部屋を出ていくと、文華が車椅子からベッドの端に腰掛けた。その動作はゆっくりで、以前より体力が落ちていることが一目で分かった。
「美由紀、来てくれたのね。嬉しいわ」
 文華の顔に温かい笑顔が広がった。
「お母さん、体調はどう?検査は大丈夫だった?」
「ええ、大丈夫よ。定期的な検査だから心配しないで」
 文華が優しく微笑んだが、美由紀には母の顔色が以前より悪くなっているように見えた。
「それにしても美由紀、今日はとてもおしゃれね。その服、すごく素敵よ」
 文華が美由紀の服装を上から下まで眺めながら言った。
「そのブラウスのフリルが上品だし、スカートも品があるわね。とてもお似合いよ」
「ありがとう、お母さん」
 美由紀が少し照れながら答えた。
「でも、見慣れない服ね。新しく買ったの?」
「実は...新しいアルバイトを始めたの」
「アルバイト?」
 文華が少し驚いた表情を見せた。
「うん。夏休みの間だけの短期のお仕事なんだけど、必要な道具や服は全部雇い主の方が用意してくださるの。この服も、お仕事で必要だからって」
「そうなの。どんなお仕事?」
「家事のお手伝いとか、お屋敷の管理のお手伝いみたいな感じ」
 美由紀が慎重に言葉を選びながら説明した。
「職場の方たちはみんなとても優しくて、頼りになる人ばかりなの。女性だけの職場だから、お母さんも安心してくれると思って」
「そう...それは良かった」
 文華の表情が明らかにホッとしたものに変わった。
「女性だけなら安心ね。美由紀はまだ17歳だから、男性がいる職場だと心配だったけど」
「職場の先輩たちも親切で、今日もお母さんのお見舞いに車で送ってもらったの」
「そんなに良くしてもらって...ありがたいことね」
 文華が安心したような表情を見せたが、その直後、少し苦しそうに眉をひそめた。
「お母さん、大丈夫?横になった方がいいんじゃない?」
 美由紀が心配そうに立ち上がった。
「大丈夫よ、大丈夫。ちょっと疲れただけ」
 文華が手を振って制した。
「せっかく美由紀が来てくれたのに、寝てるなんてもったいないわ」
「でも無理しないで」
「本当に大丈夫よ。それより、そのアルバイトのことをもう少し聞かせて」
 美由紀が再び椅子に座った。
「夏休み中は泊まり込みでお仕事するから、新聞配達とカフェのアルバイトはしばらくお休みすることにしたの」
「泊まり込み?」
「うん。お屋敷に住み込みで働くの。その方が効率がいいし、お給料も良いって」
「そうなの...でも美由紀が家にいないと寂しいわね」
「お母さんには毎日連絡するから」
 美由紀が母の手を握った。
「それで、お母さんの方はどう?何か変わったことはある?」
「私は相変わらずよ。病院生活だから、毎日同じような感じ」
 文華が苦笑いを浮かべた。
「朝起きて、食事して、検査があったり診察があったり。看護師さんたちは親切だけど、やっぱり家の方がいいわね」
「早く退院できるといいね」
「そうね...でも先生の話だと、まだしばらくかかりそうよ」
 母娘は他愛のない話を続けていたが、美由紀は意識的に腕の位置に気を配っていた。昨日の織姫にメスで傷つけられて張り付けられた人工皮膚が、ブラウスの袖から見えないように注意していた。
「美由紀、その腕どうしたの?」
 文華が鋭い母親の目で美由紀の二の腕を見つめた。ブラウスの袖から少しだけ覗いている人工皮膚の端を見つけてしまったのだ。
「え?」
 美由紀の心臓が跳ね上がった。
「その、腕に何か貼ってない?」
「あ、これ?」
 美由紀があわてて袖を下ろしながら答えた。
「アルバイト先で、不注意で引っ掛けちゃって。ちょっと傷になっちゃったから、絆創膏を貼ってるの」
「大丈夫なの?ひどい傷じゃないでしょうね?」
 文華が心配そうに身を乗り出した。
「大丈夫、大丈夫。軽いかすり傷よ。でも念のため消毒して貼ってるだけ」
 美由紀の説明は少し早口で、言い訳がましく聞こえたが、文華は頷いた。
「気をつけなさいよ。慣れない仕事だから、怪我をしやすいのかもしれないけど」
「はい、気をつけます」
 美由紀は太ももの傷のことが気づかれないよう、スカートの丈を確認しながら座り直した。
 それから30分ほど、母娘は昔の思い出や、美由紀の学校の話、母が読んでいる本の話など、様々な話題で会話を続けた。文華の笑顔を見ていると、美由紀の心も少しずつ軽くなった。
「そろそろ時間ね」
 美由紀が時計を見ながら言った。
「職場の先輩が車で待ってくださってるので」
「そう、ありがたいことね。お礼を言っておいて」
 文華が立ち上がる美由紀を見つめた。
「美由紀、あまり無理をしないでね。お金のことは何とかなるから」
「お母さん、心配しないで。私、頑張るから」
美由紀が母を抱きしめた。文華の体が以前より細くなっていることに気づいて、胸が痛んだ。
「また来るからね」
「気をつけて帰りなさい」
 美由紀が病室を出ようとした時、廊下で看護師に呼び止められた。
「あの、雪城さんのお嬢さんでいらっしゃいますね」
 中年の女性看護師が美由紀の前に立っていた。
「はい、そうです」
「少しお時間をいただけますでしょうか。ナースステーションでお話があります」
 美由紀の胸に嫌な予感が走った。看護師の表情が妙に固く、真剣だった。
「はい...分かりました」
 ナースステーションの一角に設けられた面談スペースで、看護師が美由紀に向き合って座った。
「お母様の病状についてですが...」
 看護師が重い口調で切り出した。
「実は、今日の検査結果を含めて、担当医とも相談したのですが...」
 美由紀の手のひらに汗が滲んだ。
「お母様の心機能が、予想以上に悪化しています」
「悪化...ですか?」
「はい。このままの状態が続くと...」
 看護師が一瞬言葉を飲み込んだ。
「申し上げにくいのですが、半年ほどで...」
 その先の言葉を聞いた瞬間、美由紀の世界が崩れ落ちていくような感覚に襲われた。頭の中が真っ白になり、看護師の声が遠くから聞こえてくるようだった。
「手術の成功率も、当初考えていたより低くなってしまって...」
 美由紀の目に涙が溜まってきた。必死にこらえようとしたが、喉の奥が詰まって言葉が出てこない。
「何か、ご質問はありますか?」
 看護師の優しい声が聞こえたが、美由紀はただ首を振ることしかできなかった。
「分かりました。何かありましたら、いつでもお声かけください」
 美由紀はふらつく足でナースステーションを後にした。廊下を歩きながら、涙をこぼさないよう必死に下を向いていた。
 病院の正面玄関に出ると、理久が車から降りて手を振った。
「お帰りなさい、美由紀ちゃん」
 理久の明るい声が聞こえたが、美由紀はうつむいたまま車に向かった。
「美由紀ちゃん?どうしたの?」
 理久が美由紀の異変に気づいた。
「何もありません...帰りましょう」
 美由紀が車の助手席に座ると、理久もすぐに運転席に戻った。
「お母さんはお元気だった?」

 車を発進させながら理久が尋ねたが、美由紀からの返答はなかった。
 高速道路に入ってしばらくすると、美由紀の我慢が限界に達した。
「うああああああ!」
 突然、美由紀が大声で泣き始めた。それは今まで抑えてきた感情が一気に溢れ出したような、魂の底からの慟哭だった。
 理久が驚いて急いで路肩に車を停めた。
「美由紀ちゃん、美由紀ちゃん!」
 理久が後部座席に移り、泣き崩れる美由紀を抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫よ」
 理久の温かい腕の中で、美由紀は子供のように声を上げて泣き続けた。
「お母さんが...お母さんが...」
「辛かったのね、一人で頑張って」
 理久が美由紀の髪を撫でながら、まるで实の姉のように優しく声をかけ続けた。
「泣きたい時は泣いていいのよ。我慢しなくていいから」
 10分ほど泣き続けた後、美由紀の嗚咽がようやく収まった。
「ごめんなさい...汚してしまって」
「全然大丈夫よ。落ち着いた?」
 理久がハンカチで美由紀の涙を拭いてあげた。
「何があったのか話したくなったら、いつでも聞くからね」
 美由紀は頷いたが、まだ話せる状態ではなかった。
 理久は少し大回りをして海岸線を通るルートを選んだ。夕日が海に沈んでいく美しい光景を見せることで、美由紀の心が少しでも癒やされればと思ったのだ。
「綺麗ね」
 理久が夕焼けの海を見つめながら呟いた。
「美由紀ちゃんは一人じゃないからね。みんな美由紀ちゃんの味方よ」
 リリーハウスに到着したのは夕方7時頃だった。美由紀は理久にお礼を言うと、誰とも会わないよう急いで自分の部屋に向かった。
 部屋のドアを閉めると、美由紀は再びベッドに倒れ込んで泣き始めた。今度は声を殺して、枕に顔を埋めながら。母を失うかもしれないという現実が、胸を締め付けるように苦しかった。
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