蘭妃は冷宮生活を満喫中!〜呪いの猫皇子とフシギ生活〜

明夏 向日葵

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星燈の夜ーひとひらの願いー

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怜花宮の屋根の上には、音もなく夜風が吹いていた。
遠く離れた宸極殿の方向から、空を切り裂く音が響く。

――ドン……!

間もなく、夜空に大輪の火の花が咲いた。赤、青、金。ゆらめく光が暗い空にひとつずつ咲き、散っていく。怜花宮の広縁からもそれはよく見えた。

「……星燈の夜宴、か」

茗渓は手すりにもたれて空を見上げながら、小さくつぶやいた。
その言葉の意味が胸にじわじわと沁みるのに、そう時間はかからなかった。

燈華の日――
家族や大切な者と灯を囲み、想いを分かち合う日。
この世界の民たちにとって、もっともあたたかく、もっとも切ない一日。

けれど、彼女に“今”の家族はいなかった。
かつての世界での両親や妹たちの顔が、ふと脳裏に浮かぶ。
食卓に集い、笑い合い、他愛もない話に花を咲かせた、あのぬくもり。

「……もう会えないのよね」

そう呟いた瞬間、熱いものが頬をつたった。
視界が滲んだ。胸が詰まる。

「バカみたい、今さら……」

その時だった。
黒猫の怜綾が、音もなく膝の上に飛び乗ってきた。
しなやかな体を丸め、茗渓の泣き顔をじっと見上げる。

「……怜綾?」

黒い耳がぴくりと動いた。けれど、彼は何も言わない。ただ、あたたかく彼女に寄り添っているだけ。

茗渓はその小さな背を、そっと撫でた。

「怜花宮の暮らしは自由で気ままで、嫌いじゃないわ。でも……やっぱり、独りは寂しいのよ」

風がやみ、ふっと空気が止まる。

「ねえ、怜綾――あなたが人間だったら、一人の生活もきっと寂しくないのに……」

言ったその瞬間だった。

彼女の膝の上にいた重さがすっと消え、ぬくもりが消えた。

「……怜綾……?」

そこには、あの小さな猫の姿ではなく、黒衣をまとった、一人の青年が静かに立っていた。
漆黒の髪は肩まで流れ、見覚えのある金色の瞳が浮かび上がった。
金の飾りのついた深い黒の外套を纏っている。美しく整った顔立ちに、どこか影を落とすような鋭い瞳。耳元には細く揺れる銀の飾り。だが、よく見ればその頭には柔らかな猫耳が、腰にはしっぽが……。

「に、人間……!? で、でも猫耳が……っ」

茗渓は目を見開き、声を震わせた。

怜綾は一歩、ゆっくりと茗渓に近づく。

「驚かせてすまない。これが本当の姿だ。――私は、人間だ」

「え……?」

「呪いによって猫の姿に変えられた。そして、月の夜だけ、この姿に戻れる」

月明かりの下、茗渓と怜綾は並んで座っていた。
打ち上がる花火の残響が遠くに消えていく。
怜綾は、胸元に手を置いて一度、目を閉じる。

「俺は――呪われた身だ」

ぽつりと、彼がそう告げた。

茗渓は息をのんだ。目の前にいる青年が、つい数刻前まで猫だったとは思えない。
その瞳の奥にある深い影が、彼の言葉に真実を添えていた。

「呪いをかけたのは、今の高妃に仕える陰陽師。名を雨魘(うえん)という」

「雨魘……?」

「俺がまだ幼かったころ。母は、先帝の寵妃だった。そして、高妃にとっては、母も俺も、存在そのものが邪魔だった」

「じゃあ……」

「冷宮で自害に見せかけられて亡くなった。誰にも看取られず、誰にも弔われず、静かに命を終えたんだ」

茗渓は息を呑んだ。怜綾の横顔が、月光に照らされて冴える。

「雨魘は、高妃の命令で俺に呪いをかけた。“先帝の血を引く者を、皇位継承から外すために”と」

「それが……あの呪いの理由……」

「俺が“猫”として冷宮に閉じ込められていたのも、すべてはそのため。誰にも見つからぬように、忘れられるように…。だが、この呪いのを解く"答え”は、幽燈殿にある。」

「幽燈殿……?」

「後宮の奥、誰も近づこうとしない場所だ。存在を口にすることすら避けられている。そこに、俺の呪いを解く鍵があると……昔、ある人が教えてくれた」

怜綾は続ける。

「けれど、俺ではそこへ近づくことすらできなかった。何か、強い力に遮られるようにして。……まるで、結界のようなものが張られているかのように」

茗渓は静かに息を呑んだ。
しかし、この時の彼女にはまだ、自分がその場所に入れる「鍵」だという自覚もなければ、確証もなかった。

「でも……どうして今、話してくれるの?」

怜綾は、じっと茗渓を見つめた。

「君と出会ってから、少しずつ変わった。君が、俺の孤独を見つけてくれた気がして」

茗渓は、何も言えなかった。
ただ彼の手の温もりを感じながら、自分の心の内に芽生えていた想いの正体に、ゆっくりと向き合い始めていた。

「だから……もう少しだけ、この姿で、君のそばにいてもいいか?」

その言葉に、茗渓はゆっくりと頷いた。

「……うん。いてよ。ずっと」

夜空に、最後の大輪の花火が咲いた。
その光の下、ふたりの距離は、確かにひとつ、近づいていた。
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