蘭妃は冷宮生活を満喫中!〜呪いの猫皇子とフシギ生活〜

明夏 向日葵

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呪いを解く者

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昼下がりの市街は、春の陽気に包まれて活気に満ちていた。屋台の掛け声と笑い声が交差し、人の流れはひっきりなしに行き交う。 

茗渓はその中に溶け込むように、素朴な旅装に身を包み、黒髪を布で覆っていた。今日の目的はひとつ。風裂の廃寺へ向かう前に、目立たぬ衣を整えること。

「意外と、楽しいかも……」

露店に並んだ干し果物や花飾りを横目に、そう呟いた瞬間――

「……ほぅ」

すれ違いざま、どこか粘つくような視線を感じた。立ち止まり、振り返ると、そこには腰をかがめた老婆がひとり。ぼろぼろの麻衣をまとい、顔の半分が深いフードに隠れている。

「お前さん……変わった匂いがするねぇ」

老婆は茗渓にすっと近寄ってきた。異様な存在感。だが、どこか禍々しくも、見透かすような眼差しが突き刺さる。

「……えっと、どなたですか?」

「名などどうでもいい。――それより、呪いの匂いがする」

茗渓の背がぞくりと凍る。老婆の手が、自分の腕に触れる寸前で止まった。

「お前自身ではない。だが、すぐ傍にいるだろう? 呪いを受けた者が」

「……!」

「図星のようじゃな。ならばよい」

老婆はぐっと顔を寄せ、嗅ぎとるように囁いた。

「その呪いは……お前の命運にも関わっておる。どちらが先に喰われるか。命か心か、あるいは両方か――」

「……何を、言っているの?」

「連れてこい。その者を。わしの前へ」

その声は低く、凍るように静かだった。

「連れてくれば……助けることも、できるかもしれんぞ」

茗渓の喉がごくりと鳴る。老婆の真意はつかめない。ただ、その目の奥には――確かに何かを知っている者の、それがあった。

「……わかりました。考えてみます」

その言葉を最後に、老婆はくるりと背を向け、人の流れにまぎれるように姿を消していた。

気づけば胸の奥が、いやに速く脈打っている。茗渓はそっと自分の手のひらを見下ろした。

(怜綾の呪いのことを……知っている? まさか……)

その時、微かに――風に紛れて届いた声。

「……急ぐがよい。時は、そう長くは残されておらぬ」

振り返っても、そこにはもう誰もいなかった。

月明かりが差し込む縁側に、茗渓と怜綾は並んで座っていた。

茗渓は少し迷った後、小さく息をついた。

「今日、街で……ちょっと不思議な老婆に出会ったの」

「老婆?」

「そう。突然話しかけられて、『呪いの匂いがする』って……私じゃなく、近くにいる誰かが呪われてるって言ってた」

怜綾の金の瞳が、静かに揺れる。

「それって……」

「あなたのこと、よね」

怜綾は何も言わずに頷いた。茗渓は続ける。

「その人、言ったの。“その者を自分の前に連れてこい”って」

茗渓の手が膝の上でぎゅっと握られた。

「私は……怖いの。正体も分からない人に、あなたを会わせるなんて。もしそれが罠だったら? もし、あなたを傷つけるための嘘だったら?」

すると、怜綾は静かに目を閉じて、しばらく沈黙していた。そして、低く、穏やかに口を開く。

「構わないよ」

「えっ……?」

「その呪いを解く鍵になる可能性があるなら、たとえ誰が相手でも、俺は会う。――たとえ裏切られてもな」

怜綾は茗渓の方を見ないまま、夜の闇を見つめている。その横顔は、どこか痛々しいほどに静かだった。

「呪いを持つ身だ。怖いものはないよ。もう失うものも、守るものも、ほとんどない」

「そんな言い方、しないでよ……!」

思わず声を荒げた茗渓に、怜綾はゆっくり振り返る。その瞳に、ほんの微かな光が宿っていた。

「大丈夫だ。……君が見つけてきた人なら、信じてみたいと思える」

「でも……」

「俺は、“信じたい”と思える自分に、驚いてるくらいだ」

その言葉が、思っていた以上に胸に刺さった。

「……わかったわ。案内する。あの人のところへ」

怜綾は一度だけ、真剣な眼差しで彼女を見つめ、静かに頷いた。

夜風が、静かに二人の髪を撫でた。

朝靄が街を包む中、茗渓は懐に黒猫を抱えながら、昨日老婆と出会った通りを何度も往復していた。

「いない……昨日の場所にも、市場にも、路地にも……どこにもいない」

腕の中の怜綾――猫の姿の彼は、茗渓の鼓動の速さを感じ取っているように、じっと静かにしていた。いつもなら甘えるように顔をすり寄せる彼が、今朝に限っては妙に大人しい。

茗渓はふと気づいた。もう何度目の角を曲がったのか分からない。目にする建物はどれも見慣れず、人の声すら遠くなっていた。

「え……ここ、どこ?」

足元には枯れ草が茂り、木々の影が濃くなっている。どうやら人里を外れ、森の奥へ迷い込んでしまったらしい。

「そんなに歩いたつもりはなかったのに……」

振り返っても、戻る道はわからなかった。

と、そのとき。

――コトン……。

乾いた音が、木々の間から微かに聞こえた。

「……誰か、いるの?」

周囲を見回したそのとき、視界の隙間から何かの“屋根”の端が見えた。苔むし、古びた瓦。木の葉に隠され、まるで人の目から消えることを望んだようなその建物――

「……家?」

木立をかき分け、茗渓はそっと足を進める。

そこにあったのは、時の流れに忘れ去られたような古民家だった。蔦が絡まり、戸口は半ば崩れかけている。けれど、つい昨日見た老婆の、あの異様に透き通った目と、呪いを見抜いた言葉が脳裏に過った。

「ここ……何かある」

茗渓は猫の怜綾を抱き直し、戸の前に立った。

風もないのに、軒先の風鈴が――カラン、とひとつ鳴った。

怜綾の耳がぴくりと動く。

「……ねえ、ここ、入ってみてもいい?」

答えるはずのない猫は、ただじっと彼女の胸に顔を埋めた。けれどその仕草が、不思議と「行け」と言っているように思えた。

「……うん。行こう。私たちが、答えを見つけるために」

茗渓はゆっくりと戸に手をかけた。

その瞬間――

ゴウン……と、建物の奥から地鳴りのような音が、微かに響いた。

風も、虫の声も、すべてが止まる。

そして扉は、茗渓が力を込めるより早く、軋んだ音を立てて、内側へと、ゆっくり開いていった。

ギィ……。

音を立てて開いた扉の向こうには、誰もいない空間が広がっていた。
外観の古さに反して、中は意外にも清掃が行き届いており、わずかながら人の気配すら感じる。だが、あの街で出会った老婆の姿はどこにもなかった。

「……やっぱり、誰もいないわね」

茗渓はそうつぶやくと、腕の中に抱いた黒猫――怜綾の頭をそっと撫でた。
怜綾は耳をぴくりと動かすだけで、黙って彼女の腕の中にいた。

古びた卓の上には、埃ひとつない湯呑みと、まだ炭の香りが残る囲炉裏の跡。
つい昨日まで誰かが住んでいたかのようだった。

「妙ね……こんな山奥なのに。まるで、私たちが来るのを知っていたみたい」

茗渓は囲炉裏の近くに薪をくべ、火を起こす。
しばらくして、パチパチと薪が弾ける音が室内に広がり、ほのかな温もりが満ち始めた。

「……今日は、ここで一晩を過ごすしかなさそうね」

茗渓は、怜綾を布団の上にそっと置き、自分もその隣に腰を下ろす。
囲炉裏の火に照らされて、彼女の横顔が揺らめいた。

「本当に、もしかして、あの人が烏瓏なのかしら…?でも、ただの老婆には思えなかったもの」

猫の姿の怜綾は、茗渓の言葉に反応するように小さく鳴いた。
だが、何も答えはない。

「ねえ、怜綾……私、少し怖いの」

茗渓はぽつりと呟いた。

「本物の冥月之書が見つかるのか、烏瓏に会えるのか……私に、あなたの呪いを解くことができるのか、わからなくて」

黒猫は、そっと茗渓の腕に額を押しつけた。
その仕草に、茗渓は少しだけ笑う。

「……ありがとう。少し、元気出た」

夜は更けていく。
外では風が木々を揺らし、どこか遠くで梟が鳴いた。

囲炉裏の火も静かに落ち着き、部屋に満ちていた明かりがやわらかな橙色に変わったころ。
茗渓はすっかり眠りについていた。

安らかな寝息が、怜綾の耳に静かに届く。
彼女の頬はまだ微かに赤く、身体には熱の余韻が残っているはずなのに、その表情はどこまでも穏やかだった。

怜綾は、そっと茗渓のそばに座ると、細く息を吐きながら手を伸ばす。

指先で、茗渓の額の髪をそっとかき上げ、ぬくもりの残る肌に優しく触れた。

「……こんなこと、君が起きてたら絶対できないな」

誰に聞かせるでもなく、小さくつぶやいた。

「俺にも、この呪いが解けるのか……正直、わからない」

月明かりが障子越しに差し込み、怜綾の瞳をかすかに照らす。

「君に出会うまでは……俺は一生、黒猫の姿のままだと思ってた。
人に思い出されることもなく、忘れられて、ただ怜花宮の隅で、朽ちるように終わっていくんだと」

指先が少し震える。けれどそのまま、茗渓の髪をそっと撫でた。

「でも……君と出会って、変わったんだ」

その声はかすれて、けれど確かだった。

「人間に戻りたいと……心から思った。
この呪いを解きたい。生きたい。と…」

その言葉は、彼の胸の奥からゆっくりと零れ落ちた。

眠る茗渓は何も答えない。けれど怜綾は、彼女の存在が、その温もりが、確かに自分を変えたと感じていた。

しばしそのまま見つめてから、怜綾はそっと手を引っ込めると、彼女の隣で丸くなり、目を閉じた。

――茗渓のためにも、俺はこの呪いを終わらせる。

静かな決意だけが、夜の中に燃えていた。
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