蘭妃は冷宮生活を満喫中!〜呪いの猫皇子とフシギ生活〜

明夏 向日葵

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気づいてしまった恋心

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廃寺の扉をくぐった、その瞬間――

まるで空気が変わったような感覚に、茗渓はほんの一瞬だけ目を細めた。
重たく軋んでいたはずの木の扉を背に振り返ると、そこにあったはずの風裂の廃寺は、すでに跡形もなく消えていた。

視界の先には、見慣れた後宮の裏手、怜花宮へと続く静かな裏路地が広がっている。

「……戻ってきた、のね」

茗渓がぽつりとつぶやいた。

怜綾は言葉を返さず、ただ月の光を背に、静かに茗渓の隣に立っていた。

夜風がふわりと吹き、二人の髪と衣を揺らす。
それはまるで、夢と現実の境を静かに撫でるようだった。

――だけど、夢ではない。
袖の奥にしまった小さな丹薬〈影輪露〉の重み。
そして、彼と共に歩いた記憶。たしかに全部、現実だった。

「……“真実の愛”だけが、彼の呪いを解ける」

あの瞬間、烏瓏が言った言葉が脳裏に甦る。
それは、ひどく残酷な希望。
選ばれた一人の愛だけが、彼を救う――それ以外、何も届かない。

(だったら……私がその人であればいいのに)

自分でも驚くほど、自然にそう思った。

彼の痛みを知った。孤独を知った。
そして、自分がどれほどその存在に救われてきたかを、気づいてしまった。

(私、怜綾のこと……)

胸がきゅっと締めつけられる。
ただの同情じゃない。
ただの運命の交差でもない。
これは、確かに「恋」なのだと――心が告げていた。

隣にいる彼に、それを打ち明ける勇気はまだない。
でも、せめて。

せめて、この想いだけは――。

「……帰ろうか」

茗渓の声に、怜綾が小さく頷く。

「……ああ」

ふたりは歩き出す。
夜はまだ深く、道の先は見えないけれど。
茗渓の胸には、はじめて気づいた想いの灯が、確かに灯っていた。

――この呪いを解けるのが、私だったらいい。
そう願ってしまうほどに、彼を愛してしまったのだ。

月が昇り、怜花宮の庭先に白く冷たい光を落とす。
虫の音すら遠ざかった静寂の中、怜綾は縁に座って、ひとり夜空を見上げていた。

茗渓と並んで歩いた帰り道の余韻が、まだ身体の奥に残っている。
あのとき彼女が口にしなかった想いを、怜綾の心はどこかで感じ取っていた。

だが――

「……愛とは、なんだ?」

ぽつりと呟いた声が、夜の静けさに溶けていく。

「母様……」

空を見上げたまま、怜綾は目を閉じた。
胸の奥にある記憶が波紋のように広がっていく。

「あなたは、いつも優しかった。けれど、愛という言葉は……たった一度も、俺に教えてはくれなかった」

冷宮での日々。
誰にも忘れられ、誰にも気づかれず、猫の姿で生きるしかなかった孤独な時間。
それを越えて、今、自分はこうして人間として戻る一歩を歩み出している。

けれど、それは希望と同時に、恐ろしさでもあった。

「“愛を得なければ、存在ごと消える”。……そんな呪いが、あるものか」

否定するように笑ってみせた唇は、ひどく脆く震えていた。

「俺には、分からない。……愛とは何だ。恋とは、どういうことなのだ」

彼女の笑顔に胸が高鳴った。
彼女の涙に、心が揺れた。
けれどそれが“愛”なのか、“情”なのか、それすらも怜綾には分からない。

「このまま……呪いが解けなければ、俺は“記憶”すら残せず、消えていく」

母を救えなかった罪。
母の名誉を汚したままの歴史。
そして、名を呼ばれることのない未来。

「……怖いんだ、母様」

初めて、怜綾は自分の弱さを認めた。

「怖い……このまま消えてしまうのが、誰にも思い出されずに終わるのが、こんなにも怖いなんて……」

膝に顔を埋めた怜綾の肩が、ふるふると震える。

月明かりの下、誰も見ていない場所でだけ、彼は子どものように泣いた。怜花宮の朝は静かだった。
けれど茗渓の胸の中は、いつもと違う波音がざわついている。

(なんだろう……怜綾の顔、ちゃんと見られない)

黒猫の姿で縁側に寝転がる怜綾――その時は自然に触れ合える。
頭を撫でたり、声をかけたり、呼吸を重ねるように過ごせるのに。

夜、人の姿に戻った彼に出会うと――
無意識に目を逸らしてしまう。言葉がぎこちなくなる。

「……茗渓、最近、俺を避けてないか?」

怜綾の声が、ふいに静かな朝の空気を切り裂いた。
彼の金色の瞳がじっと彼女を見つめる。まっすぐで、どこか優しさに満ちているのに、その奥にはほんの少しの寂しさが滲んでいた。

(どうしてこんなにも彼の顔をまっすぐ見られないのだろう?)
胸の内が締め付けられ、言葉が詰まる。

「……そんなこと、ないわよ」

小さな声で否定するけれど、震える自分の声が耳に痛い。
まるで自分が嘘をついているみたいで、嫌になる。

「猫のときは撫でてくれるのに、俺が人になると急に距離を取る……そんなに変わるか?」

怜綾の問いが、彼女の心の奥をえぐる。
このまま打ち明けてしまったら、どうなるのだろう?

(私が彼に気持ちを伝えたら――彼の呪いは解けるの?それとも壊れてしまうの?)
不安が渦巻き、答えは出せない。

「それは……ちょっと、私の問題だから。気にしないで……」

言葉を絞り出すとき、心が引き裂かれるようだった。
この秘密の重みが、茗渓の胸を押し潰す。

怜綾は少し首を傾げて、ただ静かに見つめる。

「問題……とは?」

その一言に、彼女の胸がぎゅっと締まる。

(もし私が打ち明けてしまったら、彼は笑ってくれるだろうか。受け止めてくれるだろうか。――それとも、離れていってしまう?)
恐怖と期待が交錯し、言葉が消えてしまいそうになる。

「……別に、気にするほどのことじゃないのよ」

やっと出た声は、嘘みたいに弱く、か細い。

怜綾の瞳がしばらくじっと彼女を見つめていた。
やがて、ふっとため息のように息を漏らして、視線を外す。

その背中に、彼女の想いが届かないことを祈りながら――茗渓はただ、静かに涙をこぼした。
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