蘭妃は冷宮生活を満喫中!〜呪いの猫皇子とフシギ生活〜

明夏 向日葵

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君を想いて夜に泣く

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冷たい朝の風が、怜綾の黒い毛並みに絡みつく。
畑に残された、転がる籠とちぎれた野菜。
あまりに唐突で不自然なその風景は、まるで――何者かの痕跡のようだった。

(……この気配、まさか)

空気の奥に、ほんのわずか――人の肌なら決して気づかぬほどの禍々しさが漂っていた。
だが、猫の感覚はそれを逃さない。

(……間違いない。この気配、覚えている)

怜綾の瞳が細く鋭くなる。
十年前、自身を呪いの闇に沈めた陰陽師――

(雨魘……貴様か)

背筋を走る悪寒を振り払い、怜綾は勢いよく地を蹴った。
黒猫の姿のまま、ひらりと屋根の上へと舞い上がる。

(雨魘の仕業だとすれば……まず向かうは芳燭殿)

高妃の居所。
彼女が命じたのであれば、茗渓はすでにそこに囚われているかもしれない。
あるいは――すでに、手遅れかもしれない。

(…そんなこと、あってたまるか)

喉奥で低く唸るように唸ると、怜綾は屋根瓦の上を風のごとく駆けた。
幾重にも連なる宮殿の棟を飛び越えながら、猫の耳が必死に茗渓の気配を探る。

(……いない。芳燭殿には、茗渓の気配はない)

立ち止まり、朝日を浴びながら息を整える。

(そもそも……高妃が命じたのなら、あの女は茗渓を即座に“処分”するはずだ。なのに……)

攫うなどという回りくどい手段に出た理由がわからない。
だが、それは逆に――

(……高妃の指示ではない?)

頭の中で点と点が繋がっていく。
呪術を操るあの男なら、自らの意志で茗渓を攫うこともあり得る。

(……雨魘の、単独行動……)

もしそうなら――

(茗渓は、後宮の外に連れ去られた可能性が高い)

怜綾の中に、じわりと焦燥が広がっていく。
後宮という保護された世界の外、どこへ連れ去られたのかもわからない。

茗渓の名を呼びたい衝動を抑えながら、怜綾はぐっと地を踏みしめた。

(雨魘……貴様の狙いは、何だ)

冷静さを失ってはいけない。
だが――胸の奥に燃える焦がれるような想いは、すでに怜綾を突き動かしていた。

(茗渓……必ず見つけ出す。君を二度と、誰にも奪わせない)


怜花宮に戻ったときには、夜空に月が高く輝いていた。
銀白の光が静かな庭を包み、葉の上には夜露が瞬いている。

離れの前、怜綾はぽつりと佇んでいた。
その姿は、猫耳と尻尾を残しながらも人の姿を保っている。
けれど、彼の瞳に宿る感情は、ひとりの青年のものだった。

「……まだ何一つ、君に大切なことを言えていない」

ぽつりと漏れた声は、風に溶けて消える。

「“愛している”と、伝えられていないんだ……」

空を見上げれば、あのとき茗渓と見た月と同じ、澄んだ光がそこにあった。
優しく、遠く、手が届かないほどに。

「俺は……自分の気持ちに気づくのが遅すぎた」

唇を噛みしめながら、怜綾は両の拳を強く握る。

「それでも……茗渓は、こんな俺を愛してるって……大切だって言ってくれたのに……」

こみあげてくる感情が、胸を締めつける。
苦しみと後悔と、喪失への恐怖――
考えただけで、息が詰まる。

「……失うなんて……そんなの、考えたくもないのに……」

その瞬間、瞳からすっと、一筋の涙が頬を伝った。

月明かりの下、その涙は静かにきらめいて地に落ちる。

そのときだった。
庭の奥から、ふいに気配が現れた。

「……殿下」

聞き慣れた声に、怜綾が振り返る。
そこには、忠臣・天馬の姿があった。

その目が、驚きと戸惑いを浮かべる。

「……泣いて……おられるのですか?」

怜綾は答えなかった。
ただ、月を背に静かに立ち尽くしていた。

だが、やがて天馬が歩み寄り、軽く膝を折る。

「……どうか、お話しください。何があったのか」

少しの沈黙のあと、怜綾は重く口を開いた。

茗渓がいなくなったこと、
雨魘の気配を感じたこと、
どこを探しても見つからず、手がかりすらないこと――

すべてを聞いた天馬は、静かに頭を垂れた。

「……それほどまでに、殿下にとってあの方が……」

「……ああ、俺には……茗渓しかいない」

力なく微笑みながらそう呟いた怜綾に、天馬はしっかりと顔を上げる。

「であれば……私も共に探します」

怜綾が目を見開く。

「天馬……?」

「私は、殿下の忠臣。殿下が涙を流す理由を放ってはおけません。あの方が、殿下にとってどれほど大切な存在か――今、よくわかりました」

天馬の瞳は、まっすぐだった。
揺るぎない忠誠と、真の理解がそこに宿っている。

「必ず……連れ戻しましょうー。蘭妃様を」

怜綾の胸に、微かな光が差し込んだ。
暗闇の中に射した、一筋の希望の光。

「……ありがとう、天馬」

かすかに微笑んだ怜綾の頬に、夜風がそっと触れた。
月は高く、変わらず空にあった――
まるで、茗渓の微笑みのように優しく。
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