蘭妃は冷宮生活を満喫中!〜呪いの猫皇子とフシギ生活〜

明夏 向日葵

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香煙に導かれて

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目を開けた瞬間、まず飛び込んできたのは、ひどく薄暗い天井だった。

「……ここは……?」

喉の奥が乾いている。声はかすれ、室内には誰の気配もなかった。だが、空気に漂う何かが、異様だ。湿った埃と、血の気配にも似た、禍々しい冷たさ。

あたりを見回そうとして、そこで気づく。

「……え?」

体が……動かない。

動かそうとした両手には、硬く冷たい感触。見下ろすと、手首には鉄の輪がはめられ、太い鎖で椅子の背もたれに繋がれている。足元も同じだ。足首が椅子の脚に固定され、びくともしない。

(なにこれ……なにが、起こってるの……!?)

背筋に冷たいものが走った。ここは、明らかに“普通の場所”ではない。窓はない。壁は黒ずんだ木で覆われ、苔が這い、朽ちた柱の裂け目からはどこかの森の湿気が入り込んでいる。

ここは牢? いや、それとも――

「ようやく目覚めましたか」

突然、空気が震えた。

不意に、部屋の奥から姿を現したのは、見覚えのある男だった。死人のように青白い肌、半面を覆った黒い覆面。禍々しい気配を全身にまとい、すうっと滑るようにこちらへ歩み寄ってくる。

「……貴方、まさか……雨魘……っ」

口から漏れた名に、男は静かに笑った。

「覚えていてくれて光栄です。貴女には、これから“大切な役目”を果たしていただきますので」

「大切な……役目?」

椅子に縛られたまま、茗渓は身を震わせた。目の前の男の気配が、あまりにも異質すぎて、息を吸うたびに胸が圧迫されるような感覚になる。

「怜綾殿の呪い……それを解く鍵は、貴女です」

雨魘の言葉に、茗渓の目が見開かれる。

「……っ、私が……? でも、どうして……」

「詳しいことは、いずれお話ししましょう。まずは――この幽蓮殿で、ゆっくりと“準備”を進めさせてもらいます」

「……何を、する気……っ!」

茗渓が叫ぶが、男は冷たい微笑みを崩さず、くるりと背を向けた。

「どうかご安心を。貴女が“その言葉”を口にするまでは、命は取らぬと、高妃様とお約束しましたので」

そのまま部屋の扉のような板戸をくぐり、雨魘は闇に消える。再び室内に残されたのは、古びた屋敷と、鈍く光る鉄の鎖、そして茗渓の荒い呼吸だけ。

(怜綾……お願い……気づいて。私、ここにいる……)

そう心の奥で祈りながら、茗渓は唇をきつく噛みしめた。

重く沈んだ空気の中、雨魘は扇子の骨で鉄の床をゆっくりと打ち鳴らした。

「……ふむ。なかなか言わぬものですな」

鋭く目を細め、鉄の椅子に鎖で繋がれた茗渓を見下ろす。

茗渓の額には汗が滲み、唇は噛みしめられ、手首の肌には拘束の痕が赤く浮かんでいた。
だが――その瞳は、曇っていない。怜綾を信じる、その意思だけが確かにそこにあった。

「……私は、怜綾を信じない」
その一言さえ吐けば、どれだけ苦しまずに済むか――
そわかっていて、茗渓はなおも言わなかった。

雨魘の唇が、ねじれる。

「ならば……どうぞ、目に焼きつけてくだされ」

そう言って、扇をひと振りした。

周囲の闇が淡く揺れ、茗渓の目の前に、まるで水面に浮かぶように映像が現れる。

──華やかな殿の中、雅楽が響き、紅い衣装の花嫁と白銀の礼服を纏った花婿が並んでいた。

その顔は、怜綾。そして、その隣に立つのは――麗妃。

まばゆい光の中、二人は笑い合い、怜綾が静かに言葉を紡いだ。

「……愛している。麗妃様」

それを聞いた瞬間、茗渓の胸に、鋭い刃が突き刺さったような痛みが走った。

(……いや……やめて……そんなわけ、ない……)

だがそれでも、声は出ない。
叫びも、泣き言も、諦めの言葉さえ、唇を割って出てこなかった。

雨魘の声が低く響く。

「貴女が誰よりも望んだその言葉は、永遠に貴女に向けられることはないでしょうな」

「呪いが解ければ――怜綾は貴女を捨てますよ。悪妃と噂され、誰からも信じられぬ蘭妃など、彼にふさわしくはない。長年想い続けていた麗妃と婚姻するのが、むしろ自然というもの」

「……それでも、貴女は彼を信じるのですか?」

幻影の中で、怜綾と麗妃が穏やかに見つめ合い、笑い合っていた。

その様子を見ながら、茗渓は、ぽつりと口を開いた。

「……たとえ……この幻が本当の未来になったとしても……」

雨魘の目が、鋭く茗渓を見据える。

「……あの人と過ごした日々は……嘘じゃない」

その声には、確かな熱が宿っていた。

「この想いが……私の片想いで終わったとしても、悔いはないのよ……」

涙が、茗渓の頬を静かに伝う。

「だって……あの人が、また人間の姿で……笑ってくれていたら……それで、私は……いいの」

その姿に、雨魘の目が細められる。
想定していた反応とは違った。
彼女は“結果”ではなく、“過程”に価値を見出している。
だから壊れない。折れない。呪いを守るために邪魔な存在――だと、改めて悟る。

「……実に、厄介な女ですな」

雨魘の唇が、冷たく歪んだ。

幻の景色がふっと霧散し、幽蓮殿の陰鬱な空気が戻ってくる。
闇の中に揺れる燭火が、茗渓の頬に伝う涙を照らしていた。

椅子に繋がれた彼女の姿を、雨魘はしばし黙って見下ろしていた。
その目には、感情というものが希薄だった。ただ“道具を扱う者”の冷たい観察者の眼差し。

「……なるほど。なるほど、なるほど……」

雨魘は口元に手をやり、ひくついたように笑った。

「──貴女の想いは、幻想では折れぬと。ならば、もう幻など見せる意味はありますまい」

その声が、凍てつくような温度を帯びる。

「いいでしょう。ならば……肉体から砕くまでです」

言うが早いか、雨魘は指を一つ打ち鳴らす。

ギィ……と鉄の扉が開き、怪しげな香の匂いとともに、道具を積んだ木箱が転がり込んでくる。

茗渓の目に、ぞっとするような光沢を放つ鉤爪や鉄箆(てっぺい)が映った。

「やめて……っ」

震える声で訴える茗渓に、雨魘は静かに言った。

「……恐れることはありません。命までは取りませんとも。ただ、少し“言葉”を引き出すだけ……『私は怜綾を信じない』、ただ、それだけでよいのです」

「絶対に言わない……!」

茗渓の声は震えていたが、その瞳には恐怖よりも、決意の色が強く滲んでいた。

「……ふふ……」

雨魘は、まるで上等な獲物に対する執着を隠せないような、歪んだ笑みを浮かべた。

「ならば、どこまで耐えられるか――試してみましょうか、蘭妃さま」

ギリ、と鉄の鎖がきしむ音がした。
幽蓮殿の空気が、一層禍々しく、重く、冷たく沈んでいく。

一方その頃ーー

昼下がりの陽光が、城下の喧騒を優しく包んでいた。
市場のざわめき、香草の匂い、呼び売りの声──
だが、怜綾の心は静まり返った水面のように、深く沈んでいた。

「殿下、お加減は……」
抱きかかえる天馬が、そっと問いかける。
猫の姿をした怜綾はその問いに耳を動かしただけで、返事はしなかった。

(……茗渓は、どこにいる)

胸の奥でざらつくような不安が渦巻いていた。
影輪露の効力が切れた今、再び黒猫の姿に戻ってしまった怜綾は、自由に動ける時間が限られている。
それでも、じっとしてはいられなかった。

天馬は柔らかな布で怜綾を包むと、軽やかに街路を駆け出した。

* * *

いくつもの通りを巡り、人気のない裏路地まで足を延ばした時だった。

天馬の腕の中で、怜綾がぴくりと耳を動かす。

(……あれは)

角の茶屋の軒先に、ひとり座る老女がいた。
薄墨色の衣に身を包み、白髪を垂らして静かに香を焚いている──
それは自身の呪いについて解呪の方法を教えてくれた老婆──烏瓏(うろう)だった。

怜綾は、ぱたりと天馬の腕から飛び降りると、短い四肢で一目散に駆けだす。

「こら、殿下!あまりお急ぎになりますと……!」

天馬の制止も聞かず、怜綾は老婆の前で足を止めると、ぴたりと地面に座り込んだ。

烏瓏は、その漆黒の猫を見て、目を細めた。
そのまなざしは、問うていた。必死に、何かを訴えるように。

「……おやおや、やっぱり、お主だったかのう」

老婆──烏瓏は、くしゃりと笑うと、そっと手を差し出した。
その手のひらに淡く紫がかった霧のような光が灯る。

「猫の姿じゃと、何かと不都合があるじゃろう。少しばかり、手を貸してやろうかの」

指先が怜綾の額に触れた瞬間、空気が一変する。

──月呪(げつじゅ)。
それは、かつて烏瓏が編み出した、一時的に“姿”を取り戻すための秘術。
朧月のごとき白い光が怜綾を包み、その身がゆっくりと地に伸びていく。

黒猫の姿が、青年の姿へと変わってゆく。
白く透き通る肌に、金の瞳。そして、わずかに残る猫耳と尾。

「……助かった。だが、どうして……?」

「お主の気配が、あまりにも悲しみに満ちておったでな。放ってはおけんわい」

烏瓏は肩をすくめ、香炉の煙の向こうから、ゆるりと問いかけた。

「それで……わしに、何の用じゃ? こんな年寄りに何の用事かの?」

怜綾は一歩前に出ると、唇を噛みしめながら言った。

「……茗渓が攫われた。俺の……愛する人だ。攫ったのは、雨魘。――陰陽師だ。同じ陰陽師なら、名を聞いたことがあるのでは?」

その名を聞いたとたん、烏瓏の顔に苦々しい色が浮かんだ。

「……あやつが、また。まったく……困った弟子じゃよ」

煙の中で、彼女の目が鋭く光る。

「愛隠の呪……本来ならば、他者に使ってはならん術じゃ。ましてや、命を奪うために使うなど言語道断」

「……止められるのは、貴女しかいない」

烏瓏は長いため息をついた。

「ふん、師として責任は取らねばならん。わしとて、目を背け続けていた報いじゃ……」

そして、怜綾を見つめるその瞳に、確かな決意が宿った。

「茗渓とやら――その娘が囚われておるとすれば、“幽蓮殿”じゃろうな。あそこはあやつの隠れ場所。世間から忘れ去られた呪禁の地じゃ。普通の者には辿り着けぬ」

「ならば……案内を」

「よいとも。だが、心せい。あそこは生きて帰れる保証などない場所じゃ。それでも行くか?」

怜綾は一瞬の迷いもなく、頷いた。

「……ああ、行く。たとえ命を落とすことになろうと、茗渓を取り戻す」

「ふふ……いい顔になったのう、坊や」

烏瓏は微笑むと、香炉を手に立ち上がった。

「では――参ろう。お主が守りたいもののために」

月の光が、二人の行く道を静かに照らしていた。
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