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落日の妃
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正装に身を包んだ怜綾は、静かに本殿の扉の前に立った。
白い衣は陽の光を受けて眩しく輝き、その背に伸びた黒髪がゆるやかに風に揺れる。
昼下がりの空は高く、澄み渡っていた。
「怜綾、参上つかまつりました。」
その声が殿内に響いた瞬間、内侍が戸を開けた。
玉座には皇帝・怜瑾と、その傍らに麗妃が座していた。二人の表情は厳粛でありながらも、どこか怜綾に向けた柔らかさを含んでいた。
「顔を見せよ、怜綾。」皇帝が短く言う。
「はっ。」
怜綾は玉座の前に進み、膝を折り、深く頭を垂れる。
「まずは、突然の失踪と、長らくの沈黙、誠に申し訳ございませんでした。」
「……謝罪は要らぬ。お前が生きて戻ってきた、それだけで十分だ。」
皇帝はそう言いながらも、鋭い眼差しでその姿を見つめる。
「お主が言っていた、真実を聞かせよ。」
怜綾は静かに口を開いた。言葉の一つ一つが、心を切り裂くような痛みを伴っていたが、それでも伝えなければならなかった。
「……私の母、怜妃様は、“高妃様の御膳に堕胎薬を持ち込んだ”という罪を着せられ、冷宮へと追いやられました。
ですが、母はそんなこと、決してしておりませんでした。すべては、高妃様による謀略だったのです。」
皇帝と麗妃が目を見開く。
「それでも母は、怜花宮にて私と共に、慎ましく静かに生きておりました。
たった二人きりの暮らしでしたが……私は母のそばで、穏やかな時間を過ごしておりました。」
怜綾は唇を噛み、目を伏せた。そして、思い出すように声を絞る。
「ですが、十年前――。先帝陛下の命で、私一人が本殿へと呼ばれていたその間に……
母は、怜花宮の奥にて、首を吊って亡くなっていました。」
本殿の空気が静まり返る。麗妃は手を口元に添え、震える眼差しで怜綾を見つめた。
「母の死の真相もわからぬまま、私は悲しみを抱えて帰った怜花宮で……その日、見知らぬ陰陽師――雨魘に襲われ、呪いをかけられました。
そして私は、猫の姿へと変えられ、人としての在り方を奪われたのです。」
「猫……の姿に……?」皇帝が低く呟く。
怜綾は、はっきりと頷いた。
「はい。それが“愛隠の呪”というものだと気づいたのは、つい最近のこと。
そして、この呪いをかけた雨魘こそ――高妃様に仕えていた陰陽師であり、この全ての元凶でございます。」
その声には、もはや怯えも迷いもなかった。
真実を伝えるために、怜綾はここまで戻ってきたのだ。
「……母を陥れ、私の命も運命も奪い、後宮を意のままに操ろうとした……。この全ての黒幕は、高妃様です。」
皇帝は手にしていた玉佩をぎり、と強く握りしめた。
麗妃の目には、すでに涙が溢れていた。
「……怜綾、貴方は……十年もの間、そんな孤独と戦ってきたのですね……」
怜綾は、深く頭を下げた。
「私はもう、過去を恨んで生きるつもりはありません。
ですが、母の名誉だけは――どうか、取り戻させてください。」
しばしの沈黙ののち、皇帝は重く口を開いた。
「……全てを明らかにする。怜妃殿の名誉は、皇帝として償わねばならぬ。
高妃に対しては……然るべき処分を下す。だが、証が揃わねば民も納得はすまい。
芳燭殿――高妃の宮を捜索せよ。そこで真が見えるはずだ。」
怜綾の目に涙が滲んだ。それでも崩れることなく、まっすぐに頭を下げる。
「ありがたき幸せにございます……陛下、麗妃様…。」
麗妃はそっと立ち上がり、怜綾の前に膝をついた。
その手が、優しく怜綾の頬を包む。
「よく、戻ってきてくれましたね。怜綾。――おかえりなさい。」
怜綾の瞳から、静かに一筋の涙がこぼれた。
本殿から密命を受けた禁衛たちが、芳燭殿へと静かに、だが確実に歩を進めていた。
厳かな沈黙の中、殿内に踏み込んだ彼らの手には、皇帝直筆の捜索令がある。もはや誰も、それを拒むことはできない。
「芳燭殿の主・高妃様の命により、宮内の捜索を行う」
隊長がそう告げると、侍女たちは青ざめ、誰一人として動けずにいた。
金襴の織物や豪奢な調度が並ぶ寝殿、香炉の煙が揺れる静寂の書房、そして高妃が私的に使用していた小部屋の一つ——その床板が、わずかに浮いていた。
「ここを……」
衛士が手を伸ばす。床板を持ち上げると、中には数本の文が納められた小箱が隠されていた。
「密書……です!」
捜索隊の一人が叫ぶ。素早くその場で開かれた文のうち、ひときわ目を引く一通があった。
《麗妃の膳に“水月花”を混ぜよ。腹に子が宿っては厄介だ。趙妃に知らせておけ——高》
その筆跡は、確かに高妃のものだった。
すぐさま皇帝へ報告が届けられ、やがて本殿に召された高妃は、緋色の衣をまといながらも、いつもの威厳はすでに消え失せていた。
「高妃」
皇帝の声が、雷のように静かに響いた。
「この文に見覚えはあるか?」
目の前に差し出された密書を見て、高妃は一瞬だけ瞠目したが、すぐに伏し目がちに口を開く。
「……これは……私が書いたものではございません。何者かの、罠にございます……」
「罠?ならばなぜ、芳燭殿の床下にそれがあったのか説明せよ。趙妃からも証言が上がっている。
お前が密かに、雨魘を使って怜綾に呪いをかけさせたことも、すでに暴かれている。」
追及の言葉に高妃は沈黙した。肩が微かに震え始め、やがて口元に自嘲の笑みが浮かぶ。
「……全てが思い通りになると思っていた……。怜綾さえ消えていれば、全てが静かに収まると……」
「愚かなる者よ」
皇帝が立ち上がり、冷たい視線を投げた。
「お前は皇族を呪い、妃を害し、ついには皇統を脅かす罪を犯した。その罪、極めて重い」
麗妃は一言も発せず、ただ静かにその様子を見つめていた。怜綾もまた、深く瞳を伏せる。
「高妃、汝は今より、妃の身分を剥奪し、“碧落の院”へ幽閉とする。
二度とこの後宮の光を見ることはない」
「……碧落の院……っ」
その名を聞いた瞬間、高妃の顔から血の気が引いた。
そこは、かつて後宮の裏にひっそりと存在した廃殿。誰にも相手にされず、老いて死を待つ妃たちの終焉の地——。
「怜張は、共に謀を働きし罪により、皇子の身分を剥奪、後宮より追放とする。
趙妃には、妃の位を取り上げ、実家に帰す処置とする。」
判決の言葉に、殿内の空気が一層張り詰める。
怜綾は静かに目を閉じ、長く封じてきた痛みの一つに、終止符が打たれる音を確かに聞いた。
白い衣は陽の光を受けて眩しく輝き、その背に伸びた黒髪がゆるやかに風に揺れる。
昼下がりの空は高く、澄み渡っていた。
「怜綾、参上つかまつりました。」
その声が殿内に響いた瞬間、内侍が戸を開けた。
玉座には皇帝・怜瑾と、その傍らに麗妃が座していた。二人の表情は厳粛でありながらも、どこか怜綾に向けた柔らかさを含んでいた。
「顔を見せよ、怜綾。」皇帝が短く言う。
「はっ。」
怜綾は玉座の前に進み、膝を折り、深く頭を垂れる。
「まずは、突然の失踪と、長らくの沈黙、誠に申し訳ございませんでした。」
「……謝罪は要らぬ。お前が生きて戻ってきた、それだけで十分だ。」
皇帝はそう言いながらも、鋭い眼差しでその姿を見つめる。
「お主が言っていた、真実を聞かせよ。」
怜綾は静かに口を開いた。言葉の一つ一つが、心を切り裂くような痛みを伴っていたが、それでも伝えなければならなかった。
「……私の母、怜妃様は、“高妃様の御膳に堕胎薬を持ち込んだ”という罪を着せられ、冷宮へと追いやられました。
ですが、母はそんなこと、決してしておりませんでした。すべては、高妃様による謀略だったのです。」
皇帝と麗妃が目を見開く。
「それでも母は、怜花宮にて私と共に、慎ましく静かに生きておりました。
たった二人きりの暮らしでしたが……私は母のそばで、穏やかな時間を過ごしておりました。」
怜綾は唇を噛み、目を伏せた。そして、思い出すように声を絞る。
「ですが、十年前――。先帝陛下の命で、私一人が本殿へと呼ばれていたその間に……
母は、怜花宮の奥にて、首を吊って亡くなっていました。」
本殿の空気が静まり返る。麗妃は手を口元に添え、震える眼差しで怜綾を見つめた。
「母の死の真相もわからぬまま、私は悲しみを抱えて帰った怜花宮で……その日、見知らぬ陰陽師――雨魘に襲われ、呪いをかけられました。
そして私は、猫の姿へと変えられ、人としての在り方を奪われたのです。」
「猫……の姿に……?」皇帝が低く呟く。
怜綾は、はっきりと頷いた。
「はい。それが“愛隠の呪”というものだと気づいたのは、つい最近のこと。
そして、この呪いをかけた雨魘こそ――高妃様に仕えていた陰陽師であり、この全ての元凶でございます。」
その声には、もはや怯えも迷いもなかった。
真実を伝えるために、怜綾はここまで戻ってきたのだ。
「……母を陥れ、私の命も運命も奪い、後宮を意のままに操ろうとした……。この全ての黒幕は、高妃様です。」
皇帝は手にしていた玉佩をぎり、と強く握りしめた。
麗妃の目には、すでに涙が溢れていた。
「……怜綾、貴方は……十年もの間、そんな孤独と戦ってきたのですね……」
怜綾は、深く頭を下げた。
「私はもう、過去を恨んで生きるつもりはありません。
ですが、母の名誉だけは――どうか、取り戻させてください。」
しばしの沈黙ののち、皇帝は重く口を開いた。
「……全てを明らかにする。怜妃殿の名誉は、皇帝として償わねばならぬ。
高妃に対しては……然るべき処分を下す。だが、証が揃わねば民も納得はすまい。
芳燭殿――高妃の宮を捜索せよ。そこで真が見えるはずだ。」
怜綾の目に涙が滲んだ。それでも崩れることなく、まっすぐに頭を下げる。
「ありがたき幸せにございます……陛下、麗妃様…。」
麗妃はそっと立ち上がり、怜綾の前に膝をついた。
その手が、優しく怜綾の頬を包む。
「よく、戻ってきてくれましたね。怜綾。――おかえりなさい。」
怜綾の瞳から、静かに一筋の涙がこぼれた。
本殿から密命を受けた禁衛たちが、芳燭殿へと静かに、だが確実に歩を進めていた。
厳かな沈黙の中、殿内に踏み込んだ彼らの手には、皇帝直筆の捜索令がある。もはや誰も、それを拒むことはできない。
「芳燭殿の主・高妃様の命により、宮内の捜索を行う」
隊長がそう告げると、侍女たちは青ざめ、誰一人として動けずにいた。
金襴の織物や豪奢な調度が並ぶ寝殿、香炉の煙が揺れる静寂の書房、そして高妃が私的に使用していた小部屋の一つ——その床板が、わずかに浮いていた。
「ここを……」
衛士が手を伸ばす。床板を持ち上げると、中には数本の文が納められた小箱が隠されていた。
「密書……です!」
捜索隊の一人が叫ぶ。素早くその場で開かれた文のうち、ひときわ目を引く一通があった。
《麗妃の膳に“水月花”を混ぜよ。腹に子が宿っては厄介だ。趙妃に知らせておけ——高》
その筆跡は、確かに高妃のものだった。
すぐさま皇帝へ報告が届けられ、やがて本殿に召された高妃は、緋色の衣をまといながらも、いつもの威厳はすでに消え失せていた。
「高妃」
皇帝の声が、雷のように静かに響いた。
「この文に見覚えはあるか?」
目の前に差し出された密書を見て、高妃は一瞬だけ瞠目したが、すぐに伏し目がちに口を開く。
「……これは……私が書いたものではございません。何者かの、罠にございます……」
「罠?ならばなぜ、芳燭殿の床下にそれがあったのか説明せよ。趙妃からも証言が上がっている。
お前が密かに、雨魘を使って怜綾に呪いをかけさせたことも、すでに暴かれている。」
追及の言葉に高妃は沈黙した。肩が微かに震え始め、やがて口元に自嘲の笑みが浮かぶ。
「……全てが思い通りになると思っていた……。怜綾さえ消えていれば、全てが静かに収まると……」
「愚かなる者よ」
皇帝が立ち上がり、冷たい視線を投げた。
「お前は皇族を呪い、妃を害し、ついには皇統を脅かす罪を犯した。その罪、極めて重い」
麗妃は一言も発せず、ただ静かにその様子を見つめていた。怜綾もまた、深く瞳を伏せる。
「高妃、汝は今より、妃の身分を剥奪し、“碧落の院”へ幽閉とする。
二度とこの後宮の光を見ることはない」
「……碧落の院……っ」
その名を聞いた瞬間、高妃の顔から血の気が引いた。
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