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背徳
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将吾さんとは、その後もすれ違う日々が続いた。
将吾さんはわたしが起き出す頃に仕事から帰ってくる。おはようやおやすみの挨拶をするときはあるけれども、それ以外はメッセージアプリを通して連絡を取る。直接会話する時間がなくなった。
すれちがいの生活の中、将也さんのことばかりを考えている自分に気が付く。
いけない、と記憶を奥深いところに押し込むけれども、甘く淫らな記憶はゆっくりと鎌首をもたげ、気がつけばわたしは、何度となくあの夜を反芻してしまうのだ。
優しく、けれども情熱的に包み込むキス。少し冷たい指先。ギターだこで固くなっている左手中指の腹。リズミカルに揺れる腰と、体の内側で感じた、忘れられない存在感……思い出すと、中心が絞りあげられるようにきゅうと熱くなる。
反すうすれば会いたくなる。もう一度抱かれたいと望んでしまう。
将吾さんを愛していることに変わりはない。でも、将也さんにも強く惹かれている。
抱かれたから好きなのか。それとも、体を知らずとも好きになったのか。
将也さんに自ら望んで抱かれ、将吾さんを裏切ってしまった。
その事実が、わたしの心を重くさせた。
将也さんとのことがあってから、二週間ほど経ったころのことだった。
定時で仕事を終え、夕飯の買い出しのために帰り道でスーパーに寄った。
レジで会計をしているときに、スマートフォンが震えた。将吾さんからだ。ロック画面に表示されたメッセージの一部には「帰りが遅くなる」という一文が見えた。その文に、安堵のため息を漏らした。
将也さんからの連絡は一切なかった。
今、何をしているのか。わたしを抱いたのは、「愛してる」と囁いたのはなんだったのか。
将也さんは、あの日わたしが感じた蕩けるような快楽を、同じように感じただろうか。
食材で重くなったエコバッグを肩にかけて歩きながら、とりとめなく考えが過ぎる。
家に着き、靴を脱いだときに家の電話が鳴った。慌てて上がり込み、エコバッグをテーブルの上に置いて電話に出た。
「はい、柳島です」
「……七海ちゃん? 将吾、いる?」
電話の主は将也さんだった。後ろめたい気持ちとは裏腹に、ときめいてしまう自分を罪深いと思う。
「今日は帰り、遅くなると思います」
「そっか」
受話器を通して聞こえる、将也さんの声や息遣い。頬が熱くなるのがわかる。
「調子、どう」
「あ……、えと、大丈夫です」
「そっか」
「あの」
「ん?」
「あ……いえ、その」
聞きたいことはたくさんある。なのに、言葉が見つからなくて、わたしは黙った。
「将吾、何も言ってきてない? 気づいてないかな」
「多分、大丈夫です」
「そうか」
電話の向こうで将也さんも黙る。電話越しに互いの息遣いを聞いていると、あの夜のことが思い出されて体の芯が焦れてしまう。
「もし将吾がなんか気づいたら、オレからちゃんと言うから」
「はい」
「なにかあったときのために、七海ちゃんの番号、教えてくれる」
「あ……はい」
将也さんはわたしの携帯電話番号を聞くと切った。わたしは受話器を持ったまま、しばらく立ちすくんでいた。
将吾さんが何か言ってきたら、と将也さんは言った。ならば、将吾さんが何も気づかず、何も言ってこなければ、この中途半端な状態が続くのだろうか。
その日は、朝から小雨が降っていた。将吾さんは昨晩も遅く帰ってきたようだった。
将吾さんを起こさないように、そっとベッドを出る。キッチンに立つとコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
しばらくすると、コーヒーの良い香りが立ち上る。目を閉じてその香りを思い切り吸い込みながら、また物思いに沈んだ。
いつか、将也さんのことを忘れられるだろうか。将吾さんは、気づかないままでいてくれるだろうか。答えのない不安の中で、わたしは知らずにため息をついた。
「七海、オレにもコーヒーちょうだい」
いつの間に起きてきたのか、将吾さんに声をかけられ、わたしはマグカップを落としそうになった。
「何、そんな驚くこと?」
「あ、ううん、違うの。昨日遅かったのに、早起きだなって思って」
わたしは震える手でマグカップにコーヒーを注ぐと、将吾さんに渡した。将吾さんはマグカップを持ってソファに座り、ノートパソコンを起動させた。
「七海、今日どっか出かけないか」
唐突に聞かれ、答えに迷う。二人きりで出かけるのは、できることなら避けたかった。
「家でゆっくりしたほうが良くない? 将吾さん、昨日も帰り遅かったし」
「いや、オレが出かけたいんだよ」
将吾さんは「ここのところ忙しかったから、気晴らしできそうなところに行きたくて」とわたしを見た。この状態で、どんな理由があっても断るのは不自然だろう。
「じゃあ、温泉とかどうかな。近場で、日帰りできそうなところとか」
「いいね、ちょっとリサーチするか」
将吾さんがノートパソコンで検索を始める。わたしは朝食の準備をしながら、ぼんやりとした不安を感じていた。
朝食を終えると支度をして車に乗り込んだ。
わたしは窓外を流れる景色を見ていた。カーステレオから流れる男性シンガーの声が、耳心地よい。車は用賀を抜け、東名高速に乗って多摩川を越えた。
「そういえばどこの温泉に行くの」
「足柄。日帰りで結構良いところがあるらしい」
「へぇ」
「七海にさ、ずっと話そうかどうしようか迷ってたことがあって。やっぱりちゃんと話したいから今、話してもいいかな」
将吾さんの唐突な言葉に、心臓が跳ねる。
「うん、良いけど」
「この前、兄貴のライブがあった日のこと、覚えてる?」
忘れられるわけがない。将也さんと蕩けるようにひとつになったあの夜を、どうやって忘れろというのか。
「あの日、昔の仲間と飲むって言ってさ、次の日の昼近くに帰ってきただろ」
「うん」
「ごめん。オレ、嘘ついた」
「……どういうこと?」
「昔の仲間ってのはまぁ、正しいんだけどさ。正確には、大学のときの元カノと、飲んでた」
「元カノさんも入れて、何人かで飲んでたって事?」
「いや、二人だけ。ごめん」
なんと返事をしたらいいのかわからなくてわたしは沈黙した。その様子を誤解したのか、将吾さんは言い訳するように付け足した。
「そいつ今、アメリカに住んでるんだけど、日本に一時帰国するって連絡きてさ。会うの久しぶりだから飲もうかってなって。けどやっぱ、元カノと二人で朝までって良くなかったよな、ごめん」
「いいよ、気にしないで」
わたしの中で後ろめたさが増殖する。将吾さんが元カノさんと飲んでいたとき、わたしは将也さんと愛し合っていた。彼を非難できるわけがない。
「元カノ、同じバンドのボーカルだったんだけど、メジャーデビュー直前で声帯に腫瘍が見つかってさ。腫瘍自体は手術で取ったんだけど、リハビリはアメリカの方が進んでるから、ってアメリカに行ったんだよな」
心臓が大きく、どくん、と音を立てた。血の気が引いて、頭の中が真っ白になる。わたしは焦る気持ちを押さえつけ、できるだけ平静を装って聞いた。
「その人の名前、なんていうの」
「ん?」
「元カノさんの名前」
「ああ」
ちょうどカーブに差し掛かり、将吾さんはハンドルを左に切った。滑らかなハンドルさばきとは裏腹に、わたしの喉の奥で何か、いいようのないものが引っかかる。
「元カノの名前、カオルっていうんだ」
わたしは動揺した。将也さんとカオルさんが付き合っていたとは聞いていたけれども、将吾さんとも付き合っていたなんて予想していなかったのだ。
もしかしたら「兄弟で揉めた」というのは、カオルさんを奪い合ってのことだったのかもしれない。
「元カノとか、バンドとか、初めて聞いたからちょっと、混乱してる」
「あ……そうだよな、ごめん」
わたしは心の中で「謝らなくていいのに」と思った。自分自身の犯した罪を考えたら、謝るべきはわたしの方だと自嘲する。
「七海さ、過去に嫉妬したりとかする?」
ちらり、と将吾さんが視線を右に滑らせる。一瞬目が合って、わたしは無意識に視線を前方に泳がせた。通り過ぎていく対向車。道の両側に茂る木々。いくつもの水滴がフロントガラスを流れていく。
「しないから、聞かせて」
「わかった」
将吾さんはしばらく考えこみ、やがてぽつりと話し始めた。車はちょうど、渋滞に引っかかったところだった。
「カオルとは、大学三年のときに友達の紹介で知り合った。不思議に思うかもしれないけど、オレ、あいつの声に惚れたんだ」
「声?」
「うん。特徴なさそうなのに一度聞いたら忘れられない。癒されるのにセクシーで、心の深いところにそっと入り込んでくるような、そんな不思議な声の持ち主でさ……七海の声に、すげぇ似てる」
将吾さんがこちらを見て、微笑む。わたしはその気配を感じつつも、将吾さんの方を向けなかった。将吾さんの左手が伸びて、わたしの頭を優しく撫でる。
「カオルのほうもオレのこと好きになってくれて、割とすぐ付き合い始めた。カオル、歌やりたいっていうから、たまにセッションしたりしてさ。結構良かったから兄貴に紹介して、バンドに入れたんだ」
将也さんと将吾さんのバンドに入ったカオルさんは、ボーカルとしての実力をメキメキと伸ばしたらしい。
「あっちこっちで歌って、ライブハウスにプロダクションが見に来ることも多くなってさ」
厳選に厳選を重ねた事務所と、仮契約をしたのだという。そしてその頃、カオルさんは将吾さんと別れて将也さんと付き合い始めた。
「まぁ、正直辛かったな、あのときは」
兄弟の間でどれだけの確執があったのか。自分の好きな人が双子の、自分にそっくりな兄に惹かれてしまう。
それだけでなく、同じバンドで歌い続ける姿を、見なければならないのだ。
「兄貴は事務所と契約してから、更にカオルに厳しくなった」
「厳しかったってどういうこと」
「カオルは、歌で相手の感情を揺さぶるのはすごくうまいんだけど、ピッチはよくブレたし、声も枯れやすかった。基礎ができてなかったから、かなり無理してたんだと思う」
わたしは、動画配信サイトで見たライブ動画を思い出した。きっと将也さんの耳には、カオルさんレベルでもまだまだだったのだろう。
「何度も悔し泣きしているところを見た。喉が枯れるまで歌って、声が出なくなることも何度もあったし」
将吾さんは別れた後もカオルさんを支え、相談に乗っていたらしい。そのときにカオルさんへの厳しさを聞いて、何度となく兄弟喧嘩をしたのだという。
「所属事務所が決まって本契約して、いよいよってときに、カオルの喉が明らかにおかしいことに気がついてさ」
将吾さんはカオルさんを病院に連れて行き、精密検査を受けさせた。そして、腫瘍が見つかった。
「それで終わりさ。腫瘍を取ったら前のようには歌えない。気が遠くなるほどのリハビリを受けなきゃならないし、何より日本じゃ無理だ、って言われた。
オレはカオルを兄貴に取られて、兄貴のせいでカオルの声が出なくなって、正直めちゃくちゃ恨んだよ」
将吾さんはギアから手を離すと、包むようにわたしの手を握った。
「双子だからこそ兄貴の凄さ、カリスマ性はよく分かる。見えないところでずっと努力してるのも知ってたし、カオルに厳しいのもカオルのためを思ってのことだったしさ」
「うん」
「兄貴とはそれ以来、お互いに踏み込みすぎないように気を付けている感じだな」
わたしは将吾さんの手を握り返した。二人に微妙な距離感やぎこちなさを感じるのは、この理由があったからなのか。
「カオルは、療法のためにアメリカに行って、向こうで知り合った理学療法士と結婚した。歌はもう歌わないけど、幸せだって言ってた」
車は渋滞を抜けた。今までの混みようが嘘のように、スムーズに進んでいく。わたしは滴る涙を止めようと懸命だった。
「なんだよ、なんで七海が泣くんだよ」
「だって」
涙は頬を伝い、顎へと流れていく。将吾さんはダッシュボードを開くと、中からティッシュを取り出し、渡してくれた。
「七海はピュアだよな」
渡されたティッシュで涙を押さえながら、わたしはかぶりを振った。ピュアなんかじゃない……ずるい女なのだ。
足柄の温泉は静かで、人が少なかった。女湯は、わたしの他には八十代くらいの女性が二人だけで、その二人はわたしが掛け湯をしている間に出て行った。
内湯でからだを温め、外の露天風呂に入る。木々に囲まれた露天風呂の湯はぬるめで、長時間浸かってものぼせないようになっていた。
時折風が抜けて、木々がざわざわと音を立てた。雨は上がり、雲の隙間から薄い三日月が覗いていた。
わたしは不意に寒気を感じ、ふるっと身震いすると肩までお湯に浸かった。初春の夕方は空気が冷たくなるのが早い。山の中なら尚更だ。
湯の中でわたしはぼんやりと思った。将吾さんを大切に思う気持ちに変わりはない。傷つけたくないし裏切りたくないと思っている。
でも、将也さんに強く惹かれていることも事実で、将也さんに抱かれたことが、忘れようとしても忘れられない。
カオルさんは、将吾さんから将也さんに気持ちが移ったとき、どんな思いだったのだろう。
将也さんも、弟の彼女と付き合うと決めたときは、思い悩んだりしたのだろうか。
そこまで考えたときに、心の奥が鈍く痛むのを感じた。嫉妬の鈍い炎が、わたしの心をちろちろと焼いていく。
将吾さんが愛し、抱いた人。
将也さんが愛し、抱いた人。
将吾さんがわたしを好きになったのは、カオルさんに似ているからだろうか。
将也さんがわたしに冷たかったのは、カオルさんと同じような姿形、声なのにわたしが彼女と違って自信がなく、プロ意識に欠けていたからだろうか。
動画サイトで見た彼女は自信たっぷりで、わたしとは雲泥の差だ。外見と声が似ているだけで、きっと性格は似ていないだろうに、とわたしは苦く思う。
将吾さんを「守りたい」と思ったのは本当だ。心の底からそう思った。けれども、そのためには将也さんへの気持ちを完全に封印しなければならない。
帰りの車の中で、わたしは目を閉じて心の中でつぶやいた。
神様。将也さんのことは忘れます。あれは、一回きりの間違いです。
だからわたしに、将吾さんを守らせてください。彼が二度と傷つかないように。将吾さんを愛し続けられるように……。
将吾さんはわたしが起き出す頃に仕事から帰ってくる。おはようやおやすみの挨拶をするときはあるけれども、それ以外はメッセージアプリを通して連絡を取る。直接会話する時間がなくなった。
すれちがいの生活の中、将也さんのことばかりを考えている自分に気が付く。
いけない、と記憶を奥深いところに押し込むけれども、甘く淫らな記憶はゆっくりと鎌首をもたげ、気がつけばわたしは、何度となくあの夜を反芻してしまうのだ。
優しく、けれども情熱的に包み込むキス。少し冷たい指先。ギターだこで固くなっている左手中指の腹。リズミカルに揺れる腰と、体の内側で感じた、忘れられない存在感……思い出すと、中心が絞りあげられるようにきゅうと熱くなる。
反すうすれば会いたくなる。もう一度抱かれたいと望んでしまう。
将吾さんを愛していることに変わりはない。でも、将也さんにも強く惹かれている。
抱かれたから好きなのか。それとも、体を知らずとも好きになったのか。
将也さんに自ら望んで抱かれ、将吾さんを裏切ってしまった。
その事実が、わたしの心を重くさせた。
将也さんとのことがあってから、二週間ほど経ったころのことだった。
定時で仕事を終え、夕飯の買い出しのために帰り道でスーパーに寄った。
レジで会計をしているときに、スマートフォンが震えた。将吾さんからだ。ロック画面に表示されたメッセージの一部には「帰りが遅くなる」という一文が見えた。その文に、安堵のため息を漏らした。
将也さんからの連絡は一切なかった。
今、何をしているのか。わたしを抱いたのは、「愛してる」と囁いたのはなんだったのか。
将也さんは、あの日わたしが感じた蕩けるような快楽を、同じように感じただろうか。
食材で重くなったエコバッグを肩にかけて歩きながら、とりとめなく考えが過ぎる。
家に着き、靴を脱いだときに家の電話が鳴った。慌てて上がり込み、エコバッグをテーブルの上に置いて電話に出た。
「はい、柳島です」
「……七海ちゃん? 将吾、いる?」
電話の主は将也さんだった。後ろめたい気持ちとは裏腹に、ときめいてしまう自分を罪深いと思う。
「今日は帰り、遅くなると思います」
「そっか」
受話器を通して聞こえる、将也さんの声や息遣い。頬が熱くなるのがわかる。
「調子、どう」
「あ……、えと、大丈夫です」
「そっか」
「あの」
「ん?」
「あ……いえ、その」
聞きたいことはたくさんある。なのに、言葉が見つからなくて、わたしは黙った。
「将吾、何も言ってきてない? 気づいてないかな」
「多分、大丈夫です」
「そうか」
電話の向こうで将也さんも黙る。電話越しに互いの息遣いを聞いていると、あの夜のことが思い出されて体の芯が焦れてしまう。
「もし将吾がなんか気づいたら、オレからちゃんと言うから」
「はい」
「なにかあったときのために、七海ちゃんの番号、教えてくれる」
「あ……はい」
将也さんはわたしの携帯電話番号を聞くと切った。わたしは受話器を持ったまま、しばらく立ちすくんでいた。
将吾さんが何か言ってきたら、と将也さんは言った。ならば、将吾さんが何も気づかず、何も言ってこなければ、この中途半端な状態が続くのだろうか。
その日は、朝から小雨が降っていた。将吾さんは昨晩も遅く帰ってきたようだった。
将吾さんを起こさないように、そっとベッドを出る。キッチンに立つとコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
しばらくすると、コーヒーの良い香りが立ち上る。目を閉じてその香りを思い切り吸い込みながら、また物思いに沈んだ。
いつか、将也さんのことを忘れられるだろうか。将吾さんは、気づかないままでいてくれるだろうか。答えのない不安の中で、わたしは知らずにため息をついた。
「七海、オレにもコーヒーちょうだい」
いつの間に起きてきたのか、将吾さんに声をかけられ、わたしはマグカップを落としそうになった。
「何、そんな驚くこと?」
「あ、ううん、違うの。昨日遅かったのに、早起きだなって思って」
わたしは震える手でマグカップにコーヒーを注ぐと、将吾さんに渡した。将吾さんはマグカップを持ってソファに座り、ノートパソコンを起動させた。
「七海、今日どっか出かけないか」
唐突に聞かれ、答えに迷う。二人きりで出かけるのは、できることなら避けたかった。
「家でゆっくりしたほうが良くない? 将吾さん、昨日も帰り遅かったし」
「いや、オレが出かけたいんだよ」
将吾さんは「ここのところ忙しかったから、気晴らしできそうなところに行きたくて」とわたしを見た。この状態で、どんな理由があっても断るのは不自然だろう。
「じゃあ、温泉とかどうかな。近場で、日帰りできそうなところとか」
「いいね、ちょっとリサーチするか」
将吾さんがノートパソコンで検索を始める。わたしは朝食の準備をしながら、ぼんやりとした不安を感じていた。
朝食を終えると支度をして車に乗り込んだ。
わたしは窓外を流れる景色を見ていた。カーステレオから流れる男性シンガーの声が、耳心地よい。車は用賀を抜け、東名高速に乗って多摩川を越えた。
「そういえばどこの温泉に行くの」
「足柄。日帰りで結構良いところがあるらしい」
「へぇ」
「七海にさ、ずっと話そうかどうしようか迷ってたことがあって。やっぱりちゃんと話したいから今、話してもいいかな」
将吾さんの唐突な言葉に、心臓が跳ねる。
「うん、良いけど」
「この前、兄貴のライブがあった日のこと、覚えてる?」
忘れられるわけがない。将也さんと蕩けるようにひとつになったあの夜を、どうやって忘れろというのか。
「あの日、昔の仲間と飲むって言ってさ、次の日の昼近くに帰ってきただろ」
「うん」
「ごめん。オレ、嘘ついた」
「……どういうこと?」
「昔の仲間ってのはまぁ、正しいんだけどさ。正確には、大学のときの元カノと、飲んでた」
「元カノさんも入れて、何人かで飲んでたって事?」
「いや、二人だけ。ごめん」
なんと返事をしたらいいのかわからなくてわたしは沈黙した。その様子を誤解したのか、将吾さんは言い訳するように付け足した。
「そいつ今、アメリカに住んでるんだけど、日本に一時帰国するって連絡きてさ。会うの久しぶりだから飲もうかってなって。けどやっぱ、元カノと二人で朝までって良くなかったよな、ごめん」
「いいよ、気にしないで」
わたしの中で後ろめたさが増殖する。将吾さんが元カノさんと飲んでいたとき、わたしは将也さんと愛し合っていた。彼を非難できるわけがない。
「元カノ、同じバンドのボーカルだったんだけど、メジャーデビュー直前で声帯に腫瘍が見つかってさ。腫瘍自体は手術で取ったんだけど、リハビリはアメリカの方が進んでるから、ってアメリカに行ったんだよな」
心臓が大きく、どくん、と音を立てた。血の気が引いて、頭の中が真っ白になる。わたしは焦る気持ちを押さえつけ、できるだけ平静を装って聞いた。
「その人の名前、なんていうの」
「ん?」
「元カノさんの名前」
「ああ」
ちょうどカーブに差し掛かり、将吾さんはハンドルを左に切った。滑らかなハンドルさばきとは裏腹に、わたしの喉の奥で何か、いいようのないものが引っかかる。
「元カノの名前、カオルっていうんだ」
わたしは動揺した。将也さんとカオルさんが付き合っていたとは聞いていたけれども、将吾さんとも付き合っていたなんて予想していなかったのだ。
もしかしたら「兄弟で揉めた」というのは、カオルさんを奪い合ってのことだったのかもしれない。
「元カノとか、バンドとか、初めて聞いたからちょっと、混乱してる」
「あ……そうだよな、ごめん」
わたしは心の中で「謝らなくていいのに」と思った。自分自身の犯した罪を考えたら、謝るべきはわたしの方だと自嘲する。
「七海さ、過去に嫉妬したりとかする?」
ちらり、と将吾さんが視線を右に滑らせる。一瞬目が合って、わたしは無意識に視線を前方に泳がせた。通り過ぎていく対向車。道の両側に茂る木々。いくつもの水滴がフロントガラスを流れていく。
「しないから、聞かせて」
「わかった」
将吾さんはしばらく考えこみ、やがてぽつりと話し始めた。車はちょうど、渋滞に引っかかったところだった。
「カオルとは、大学三年のときに友達の紹介で知り合った。不思議に思うかもしれないけど、オレ、あいつの声に惚れたんだ」
「声?」
「うん。特徴なさそうなのに一度聞いたら忘れられない。癒されるのにセクシーで、心の深いところにそっと入り込んでくるような、そんな不思議な声の持ち主でさ……七海の声に、すげぇ似てる」
将吾さんがこちらを見て、微笑む。わたしはその気配を感じつつも、将吾さんの方を向けなかった。将吾さんの左手が伸びて、わたしの頭を優しく撫でる。
「カオルのほうもオレのこと好きになってくれて、割とすぐ付き合い始めた。カオル、歌やりたいっていうから、たまにセッションしたりしてさ。結構良かったから兄貴に紹介して、バンドに入れたんだ」
将也さんと将吾さんのバンドに入ったカオルさんは、ボーカルとしての実力をメキメキと伸ばしたらしい。
「あっちこっちで歌って、ライブハウスにプロダクションが見に来ることも多くなってさ」
厳選に厳選を重ねた事務所と、仮契約をしたのだという。そしてその頃、カオルさんは将吾さんと別れて将也さんと付き合い始めた。
「まぁ、正直辛かったな、あのときは」
兄弟の間でどれだけの確執があったのか。自分の好きな人が双子の、自分にそっくりな兄に惹かれてしまう。
それだけでなく、同じバンドで歌い続ける姿を、見なければならないのだ。
「兄貴は事務所と契約してから、更にカオルに厳しくなった」
「厳しかったってどういうこと」
「カオルは、歌で相手の感情を揺さぶるのはすごくうまいんだけど、ピッチはよくブレたし、声も枯れやすかった。基礎ができてなかったから、かなり無理してたんだと思う」
わたしは、動画配信サイトで見たライブ動画を思い出した。きっと将也さんの耳には、カオルさんレベルでもまだまだだったのだろう。
「何度も悔し泣きしているところを見た。喉が枯れるまで歌って、声が出なくなることも何度もあったし」
将吾さんは別れた後もカオルさんを支え、相談に乗っていたらしい。そのときにカオルさんへの厳しさを聞いて、何度となく兄弟喧嘩をしたのだという。
「所属事務所が決まって本契約して、いよいよってときに、カオルの喉が明らかにおかしいことに気がついてさ」
将吾さんはカオルさんを病院に連れて行き、精密検査を受けさせた。そして、腫瘍が見つかった。
「それで終わりさ。腫瘍を取ったら前のようには歌えない。気が遠くなるほどのリハビリを受けなきゃならないし、何より日本じゃ無理だ、って言われた。
オレはカオルを兄貴に取られて、兄貴のせいでカオルの声が出なくなって、正直めちゃくちゃ恨んだよ」
将吾さんはギアから手を離すと、包むようにわたしの手を握った。
「双子だからこそ兄貴の凄さ、カリスマ性はよく分かる。見えないところでずっと努力してるのも知ってたし、カオルに厳しいのもカオルのためを思ってのことだったしさ」
「うん」
「兄貴とはそれ以来、お互いに踏み込みすぎないように気を付けている感じだな」
わたしは将吾さんの手を握り返した。二人に微妙な距離感やぎこちなさを感じるのは、この理由があったからなのか。
「カオルは、療法のためにアメリカに行って、向こうで知り合った理学療法士と結婚した。歌はもう歌わないけど、幸せだって言ってた」
車は渋滞を抜けた。今までの混みようが嘘のように、スムーズに進んでいく。わたしは滴る涙を止めようと懸命だった。
「なんだよ、なんで七海が泣くんだよ」
「だって」
涙は頬を伝い、顎へと流れていく。将吾さんはダッシュボードを開くと、中からティッシュを取り出し、渡してくれた。
「七海はピュアだよな」
渡されたティッシュで涙を押さえながら、わたしはかぶりを振った。ピュアなんかじゃない……ずるい女なのだ。
足柄の温泉は静かで、人が少なかった。女湯は、わたしの他には八十代くらいの女性が二人だけで、その二人はわたしが掛け湯をしている間に出て行った。
内湯でからだを温め、外の露天風呂に入る。木々に囲まれた露天風呂の湯はぬるめで、長時間浸かってものぼせないようになっていた。
時折風が抜けて、木々がざわざわと音を立てた。雨は上がり、雲の隙間から薄い三日月が覗いていた。
わたしは不意に寒気を感じ、ふるっと身震いすると肩までお湯に浸かった。初春の夕方は空気が冷たくなるのが早い。山の中なら尚更だ。
湯の中でわたしはぼんやりと思った。将吾さんを大切に思う気持ちに変わりはない。傷つけたくないし裏切りたくないと思っている。
でも、将也さんに強く惹かれていることも事実で、将也さんに抱かれたことが、忘れようとしても忘れられない。
カオルさんは、将吾さんから将也さんに気持ちが移ったとき、どんな思いだったのだろう。
将也さんも、弟の彼女と付き合うと決めたときは、思い悩んだりしたのだろうか。
そこまで考えたときに、心の奥が鈍く痛むのを感じた。嫉妬の鈍い炎が、わたしの心をちろちろと焼いていく。
将吾さんが愛し、抱いた人。
将也さんが愛し、抱いた人。
将吾さんがわたしを好きになったのは、カオルさんに似ているからだろうか。
将也さんがわたしに冷たかったのは、カオルさんと同じような姿形、声なのにわたしが彼女と違って自信がなく、プロ意識に欠けていたからだろうか。
動画サイトで見た彼女は自信たっぷりで、わたしとは雲泥の差だ。外見と声が似ているだけで、きっと性格は似ていないだろうに、とわたしは苦く思う。
将吾さんを「守りたい」と思ったのは本当だ。心の底からそう思った。けれども、そのためには将也さんへの気持ちを完全に封印しなければならない。
帰りの車の中で、わたしは目を閉じて心の中でつぶやいた。
神様。将也さんのことは忘れます。あれは、一回きりの間違いです。
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