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新たな出発が必ずしも祝福されているとは限らない

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「おい! ちょっとまずい事になりそうだ」
 突然御者台から行商の男が声を上げた。
 それに驚いて自分たちはびくりと一度飛び跳ね、大慌てで体を離そうとした失敗する。なにせ一枚のポンチョの中にいるのだ。
 もぞもぞと動いて体を離した自分たちは、御者台の方へ向かい、幌から顔を出した。
 森林というほどではないが、雑木が点在する中で、一本線のような街道が伸びている。
 その街道の先、自分の視力でぎりぎり見える程の距離に何かある。何があるかまでは見えない。
「盗賊ですか」
「可能性はある」
 前を行く馬車の屋根の上に弓手が軽々と昇って見せ、すぐに弓の弦を番えるのは自分でも見えた。
 いよいよ緊急事態の可能性が高い。
 リリィは先ほどまでの雰囲気が欠片もなく、狩りの時のように静かに緊張している。表情はなく、目つきはどこまでも遠くを見ているようだ。その彼女も一瞬だけ馬車の中に戻り弓と箙を持ってきて、一本ぬきだすと番えた。
 完全に臨戦態勢だ。
 そこで心配になるのは彼女の安否だ。
 思わず彼女の顔を見てしまった自分に、リリィは口だけでわずかに微笑を浮かべた。
「大丈夫ですよ。コウさんはわたしが守りますから」
「そうじゃなくて。貴女こそ、自分が何とか守りますから」
 言って見た物の、自分にそんな力はない。力はないがどうにかして見せる。
 それに彼女は困ったようなそれでも少し面白そうに微苦笑というか、複雑な表情を作った。
「コウさんは、弓も剣も使えないじゃないですか。困った人ですね」
「それでも!」
「あー、夫婦漫才はどうでもいい。そろそろ本気で気を張ってくれ」
 呆れ返っている行商は、腰の剣をいつでも抜けるように鞘の位置を直していた。
 ゆっくりと近づいていく。リリィは前後の馬車の傭兵のように幌の上に移動して、弓矢をいつでも撃てるように待機していた。
 いよいよ彼我の間が詰められた時、リリィをはじめとした傭兵たちが一斉に動いた。
 右側の雑木林に向けて矢を放った。
 悲鳴と怒号。そして飛び出すように数人の野党が下草の茂みから出てくるが、それめがけて容赦なく矢を射かける。
 単調な攻撃だ。奇襲するにしてもおかしい。
 自分なら、一度はフェイントをかけるだろう。
 左側に視線を向ける。同じような雑木林だ。
「リリィさん! 後ろ!」
 状況を把握しきれてはいない。それでも手遅れになってはいけない。
 自分の叫び声は聞こえただろう。左側に向けて矢が放たれた。前後の馬車から剣や槍を持った傭兵がぞろぞろと下りて来て白兵戦を始めた。
 剣劇の喧騒は物の数分で終わった。
 歩兵が周囲を確認し、幌の上にいるリリィと弓使いが全体を見渡していた。
 周囲の安全を確認すると、前方に停車させられていた馬車の確認だ。
 馬車は全部で2台。前が傭兵で、後ろが行商だったのだろう。前の車両はズタズタに破壊されていた。幌は破け、中は血の海だ。おそらくやり方は同じ立ったはずだ。右からの陽動。左から本体が襲撃。瞬く間に囲まれて袋叩きにされた。
 傭兵がいなくなり無力化された後方車両は手を上げたのだろうが、行商は御者台にいたまま首を槍で一突きされて絶命している。
 一応馬車の中を確認しよう。
 傭兵たちは周囲の警戒で忙しい。行商はいざとなったら全力逃走するため御者台から離れられない。
 あえなく自分とリリィで確認する事になった。
 落ちていた槍を拾って、それで離れながら幌を開ける。もし中に生存者がいれば、死に物狂いで抵抗するはずだから。
 両側に広がって、真ん中を広く空ける。片側に自分で反対側にリリィだ。
 目線でタイミングを合わせて、槍で幌を押し開けた。
「へぇあああああ!」
 何とも情けない叫び声。一応雄叫びなのだろうか。
 飛び出してきたそれは、振り上げた剣が空を切って、たたらを踏んで、その場で転がった。
 案の定飛び出してきた誰か。自分は盛大に転んだその背中を踏んで動けなくすると、リリィが馬車の中を確認した。
「誰もいません」
「ありがとう」
 リリィが見ているから、自分はそちらには全く意識を向けない。
 代わりに踏まれてぐえと悲鳴を漏らしたその人物にだけ注視した。
 身なりはそこそこ整っている。毛皮と布が半々の恰好。一応鞣した革の胸当てや小手など付けているから戦闘職種なのかもしれないが、さっきのあれを見ると、そんな事はないだろう。
 後ろから見える所ではおそらく男性。声も低かった。髪の毛は金髪だったようだが、生え際は黒くなっている。
「この世界で染髪があるとは思えないですが」
 もしかすると、自分と同じように飛ばされて来た人物かもしれない。
「名前を教えてください。あと事情は聞きます」
「な、なんなんだよ!? 俺は勇者だぞ! こんななんちゃってファンタジー世界にまで来てやったのに! なんなんだよ!?」
 どうやら自分と同郷のようだ。
 ひーひーと喚き続けて身もだえていたが、すぐに息を切らせて静かになった。
「落ち着いたら名前と事情を聴きますよ。自分は日本人の矢原 巧と申します」
「え? 日本人?」
 もぞもぞと動いてこちらに視線を向けてきた男性は、泥や涙でぐちゃぐちゃになった顔をしていた。その顔には念のために槍の穂先を向けておく。
 ひっと息を詰まらせて悲鳴を漏らした男性に、もう一度たずねる。
「で、貴方のお名前は?」
「て、寺田谷 寿璃庵《ジュリアン》だよ! K大学法学部の3年! こっちに来たのは4か月前だ!」
「初めまして寺田谷さん。失礼ですが、お名前は本名ですか?」
「ああそうだよ! なんだよ文句あるのか!?」
「いいえ。最近はちょっと外国風な名前の方が多いみたいですからね。で、ここで何をしていたんですか?」
 顔を顰める彼、寺田谷は吐き捨てるように言い続けた。
「知らねえよ! 勇者の素質がなんとかっていうから、これから王都に行くんだ! そしたらいきなり襲われて、他のやつはみんな殺されたよ!」
 なるほど。という事は以前聞いた人物で間違いない様だ。
 自分は背中から足を下ろして、槍をどけた。
「失礼しました。手荒な真似をして申し訳ありません」
「なんなんだよ! こっちの連中はすぐそうだ! あんたもずいぶんこっちにいそうだけど、順応しすぎだろ」
「そんな事はないですよ」
 手を差し出して立ち上がるのを助けてやると、立ち上がって自分の恰好を入念に確かめ泥を叩き落とした。
「あーあー、せっかく新調したのに、もう泥だらけだ」
 ぶつぶつと文句を言っている。
 怪訝に思ってリリィがこちらを伺ってくる。
「どうやら自分と同じで、こちら側に飛ばされて来た人見たいです」
「そうなんですね……」
 何か思う所があるようで、まだ警戒を解かない彼女。弦を引いてはいないが、矢を番えたままだ。
 さてどうしたものかとちらりと行商の馬車を見ると、肩を竦めていた。
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