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新たな出発が必ずしも祝福されているとは限らない

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 移動する時間となり、自分らの乗る馬車に帳簿も運び込まれた。
 出発しても彼女は帳簿とにめっこだ。急ぎではないが、歩合の要素も大きいため、一つでも多く終わらせたいらしい。
 元々かなり狭かったスペースが、帳簿が収められた木箱があるために身動きすら厳しい状態になった。
 結果として、立膝で座った自分の足の間にリリィがすっぽり収まる形になった。
 密着して座る形で、当初は気恥ずかしさで互いにどぎまぎしていたのだが、それも30分もすればなくなっていた。
 自分は何も協力する事はできないが、せめてもの手助けになればと、コートを座布団として提供する(これは元からだが)と重い木板を取って渡したりなど、できる事で協力した。
 今回の旅では自分は特に路銀を稼ぐことはしていない。
 最初に借りた路銀を使うだけだったので、彼女の努力はとてもありがたかった。
 完全に彼女におんぶしてもらっているようで気が引ける。何かできる事はないかと考えていはいるのだが、どうにも思いつかない。
 故郷の知識を使って何かをやろうにも、一朝一夕でできる事もない。何か作ろうにも基本的には不器用なので細工仕事は難しい。
「いえいえ。コウさんにはもっと重要なお仕事が王都でありますから! 今の内に休んでいてください」
 何か手伝う事はないか、とか、任せきりで済まないとわびたらその答えが返ってきた。
 やはり善人にすぎる。
 走る馬車の中では何かを書き加える事は難しいので、彼女は帳簿を読んで怪しい所は板を逆向きにしてしまう事で見訳をつけていた。馬車が休憩で止まるタイミングで間違えを修正するというサイクルだ。
 そうして4日目の昼間、何事もない平穏な旅路に変化が起きた。
 いつも通りの姿勢で作業をしていると、いつもより彼女がもぞもぞと良く動いた。
 昨日から寒さが厳しくなってきたので、ポンチョのような毛皮を被っている。節約の為だと言って1枚しか買わなかったのは彼女だ。自分は2枚買おうといった。
 結果、1枚のポンチョに2人で包まっている。行商には冷やかし半分で笑われた。
 なにかいつもと違うのだろうかと不審に思っていると、違和感に気づいた。
 彼女の臀部が、しきりに当たるのだ。
「り、リリィさん……?」
 喉が干上がりそうな裏声が出た。
「はい?」
 にっこりと笑みを浮かべた彼女。手を止めたと思ったら、小さな手が自分の腿を触る。
 それに思わず反応してしまった。
「どうかしましたか?」
 何の変哲もなく、いつも通りの彼女の笑顔。
「逆に、何かありましたか?」
「え? なにもありませんよ?」
 何を言っているんですか? というが、横を向いた彼女は、ポンチョの下でしきりに自分の体を触ってくる。
「ッ!?」
 不意打ちにすぎる突然の接触に、理性が着いて来ない。
 慌てる自分を面白そうに観察する彼女。何が起きたんだろう? どうしたのかな? と大きな目で見つめてくるが、その瞳の奥が悪戯っぽく輝いている。
 いったいどうしたというのだ。いきなりこんな積極的な行動をとるなんて。
「ここ、馬車ですよ……!」
 声を最小限小さくして彼女に耳打ちすると、彼女はいきなり唇を尖らせた。
「すけべな旦那さまが、悪いんですよ」
 自分が一体何をと考え、すぐに申し訳ない気持ちで胸中が埋め尽くされる。
 実はすこしだけ、生理現象が起きていた。
 ポンチョの中で密着する体。心なしかいつもより強く彼女を感じてしまっていた。
 それに理性が勝てずにいたのだ。
「ずぅっと、押し付けて来るんですから」
 彼女の手がそれに触れた。ズボンの上からでもわかる。
「本当に、しかたない人ですね」
 と呆れたように言いながら、ご満悦な彼女はポンチョから出していた頭を引っ込めた。
「ちょ、ま!?」
 もぞもぞと動く彼女。ポンチョや馬車の隙間から吹き込む外気の冷たさを感じた。
 情けなくも自分は俯いて口を覆った。御者台にいる行商にはおそらく何も見ないし、聞こえないはずだ。
 ごそごそ動いていた彼女。それに伴って自分の頭の中は真っ白になっていた。
 それからしばらくして顔を出した彼女は、心底満足したという笑みを浮かべて、
「ごちそうさまでした」
 などと言ってのけた。
 羞恥心や幸福感、満足感、それと申し訳なさと情けない気持ちで爆散しそうになる自分など気にも留めないという様子で、彼女は一瞬だけ軽く唇を触れ合わせて、作業に戻った。
「街に付いたら……、いっぱい、かわいがって、くださいね……?」
 たった今さっきとんでもない事をやってのけたのに、急に耳を赤くして消え入りそうな声でつぶやく。
 胸が締め付けられるような庇護欲と愛おしさを感じて、自分は彼女の腰に手を回して許す限り強く彼女を抱きしめた。
 本当は今すぐにでも彼女と触れ合いたいが、さすがに人の馬車の中でこれ以上粗相を犯すわけにもいかない。ぐっとこらえて、細い腰回りを撫でる。
「……すけべ、ですよ?」
 横目に見上げてくる彼女の横顔が扇動的だった。出会って1年、正式に婚姻もして環境も大きく変わった。
 女性は状況が変わると一気に変わるというが、ここまで変わるのかと改めて末恐ろしさすら感じてしまった。
 手いたずらのひとつでもしてもいいだろうかと、思春期のようないたずら心が芽生えかけたが、ここでちょっかいを出したら大人の威信にかかわる。
 ここ最近ずっとやられっぱなしである。
 どうにか威厳を取り戻したいとも思うが、何も良い手立てが思い浮かばない。
 そもそもの話をすれば、今のままでも悪くないのだ。
 彼女は利発になったし、健康状態も良好。自分をからかったりするのも、それはそれでいいではないか。自分のくだらない威厳程度は捨て置いて問題ない。
 そう思ったら、もっと素直になっていい気がしてきた。
 そうだ、素直でもいいのだ。自分は彼女が好きだし、愛している。手放したくない。
「リリィさん」
「はい?」
「愛してます」
「……はい!?」
 驚いた彼女は目を真ん丸に見開いてこちらを振り向いた。
 顔が面白いくらいに赤い。実にかわいい。
 自分はそんな彼女の腰を抱いてより、体を密着させる。
「な、ななな、なんですか、いきなり」
「自分は、貴女の事が本当に好きみたいです。そう思ったら、もっと触れたり言葉を交わしたくなったんです」
 正直に今の心境を話せたらよかったが、自分の語彙力の弱さに後悔した。コミュニケーション能力が低いのだ。彼女を見習いたい。
 すると、唇をむにむにと動かして、困ったような顔のリリィは向直って抱き着いてきた。
「すぐそう言って……。しかたない人です」
 言葉だけでみればどうにも不機嫌なようだが、どこかまんざらでもないような雰囲気。
「今、幸せなんです。これ以上わたしを喜ばせて、なにをする気ですか?」
 鼻先を自分の胸にこすりつけてくるリリィ。しがみついた手がさらに強くなる。
 力いっぱい抱き寄せ、彼女の存在を確かめる。より感じて、幸福感を噛みしめる。
 これがいつまでも続けばいい。心の底からそう思った。
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