そして消えゆく君の声

厚焼タマゴ

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電話1

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 その電話がかかってきたのは、終業式の夜だった。



「桂ー、スマホ鳴ってるわよー」
「あ、はーい」
 
 夕食後のリビング。
 ソファに寝転がって本を読んでいた私は、台所から聞こえるお母さんの声に伸びをしながら起きあがった。何気なく壁を見ると、布張りの時計が指しているのは時刻は午後七時四十五分。
 
(この時間に電話ってことは、雪乃かな)
 
 頭に浮かぶ、きらきら光る大きな目。
 少し前までは短いメッセージの連投で用事を伝えることの多かった雪乃は、最近すっかり電話派になっていた。話す方が速いからと週三の頻度で連絡を寄越してきて、そのまま一時間近くしゃべり続けることが多い。

 今日は図書館の本を読み終えたいから、早めに切り上げないと。

(雪乃の話なんて、どうせ彼氏のことに決まってるし)

 電話のたびに、砂糖菓子みたいな声で彼氏とのやり取りを報告してくる雪乃。幸せそうな言葉を聞くのは楽しいけど、あんまり続くと胸焼けしてしまうわけで。

(楽しいのはわかるけどね)
 
 テーブルに置きっぱなしにしていた携帯を手にとって、苦笑しながら画面を見た、瞬間。

「…………!」

 私はヒュ、と息を飲んで硬直した。
 お世辞にも大きいとは言えない手に馴染むよう選んだ小型の機種の、着信を告げる通知画面。
 四角く切り取られた小さな窓の中には、黒崎くんの名前が表示されていた。
 
(ど、どう、しよう……!)
 
 心臓が、痛いほど強く脈打つ。
 転びそうな足取りで自分の部屋に入って画面を再確認したものの見間違いだったなんてあるはずもなく、流れる軽快なメロディーとは正反対に、私の顔は自分でもわかるほどこわばっていった。
 
(出、出ないと。夏の予定のことかもしれないし、こっちからかけ直すなんて、もっと緊張するだろうし……)
 
 メッセージなら何回もやり取りをした黒崎くんだけど、電話越しに話したことは、まだ一度もない。
 ごくりと唾液を飲み込んで、まるで爆破スイッチでも押すような手付きで緑の通話ボタンに指をかざす。迷って、深呼吸して。そっと力を込めると、怖気づかないよう精一杯の声を出した。
 
「はいっ、日原、ですけど!」
 
 沈黙。
 電話の向こうからは物音ひとつせず、ただ空白の時間だけが流れていく。
 
 五秒。十秒。
 積み重なる無言の時間がいたたまれなくて、私はもう一度、今度はちょっと弱弱しい声で呼びかけた。
 
「あの、黒崎くん……?」
 
 それでも返事はない。
 電波の調子が悪いのかな。
 ホッとしたような、残念なような。
 
「ごめん、聞こえないみたいだから一回切るね」
  
 向こうからは見えないと分かっているのに頭を下げて、曖昧な気持ちを抱えながら通話口から顔を離そうとした時。

「あんたが、日原さん?」

 耳に入った声は、黒崎くんのものじゃなかった。

「え……?」

 声が震えた。
 携帯から聞こえてきた、黒崎くんのものでも幸記くんのものでもない声。予想外のことに頭が真っ白になる。
 
「聞いてんの、ねえ」
「………」
「もしもーし、日原さん?」
「あ、あの……」
「なんだ、聞こえてるんじゃん」
「えっと、一体、どなたで…」
 
 わからない。この人が誰なのか。
 明るくて聞き取りやすい声質も嘲るような口調もまるで心当たりがなくて、黒崎くんの身に何かあったんじゃないかという不安が胸を塗りつぶしていく。
 
 短い静寂の後、先に言葉を発したのは向こうだった。
 
「要」
「か、なめ……?」
 
 かなめ。
 聞いたことのある名前。なのにどうしてだろう。思い浮かばない。この声の主が誰のものか。
 
 誰だっけ。
 要さん、要さん。ええと……
 
 
「黒崎要。まさか知らないってことはないでしょ?」
 
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