そして消えゆく君の声

厚焼タマゴ

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ホタルの棲む川1

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 私たちの行き先は山に面した県北の町。川上へホタルを見に行くのが目的だった。 
 
 ホタルというと初夏のイメージが強いけど、場所や種類によっては今の時期でも見られるみたい。山のほうなら気温も高くないからというのが黒崎くんの意見で、もちろん私も賛成した。
 
 身体の弱い幸記くんには人でいっぱいの炎天下より涼しい場所のほうが過ごしやすいだろうし、山でホタル観賞なんていかにも夏らしくて非日常な響きにわくわくする。 
 
 考えてみれば、私も本物のホタルを見るのは初めて。星空の下、川面を走る光はどんな風に映えるんだろう。
 

 
 電車を一回、地下鉄を二回乗りかえて、古びたバスに揺られること一時間。
 
 窓ごしに流れる風景は駅前から郊外、山里へと顔を変えて、のどかな田んぼ道の真ん中でゆっくり停車した。
 軋みながら開いたドアから地面へ飛び降りると、目の前に広がるのは波打つ草と、暮れ始めのオレンジと群青色の入り混じった空。
 
「わあ……」
 
 何もかもが盛夏だった。
 目の前を横切る蝉の影も、緑を鳴らす涼しい風も水の張った田んぼも、金色の陽に照り映えて。
 
 そっとまぶたを閉じると、さらさらと川の流れる音が聞こえた。
 
「すごい、こんな近くに山があるなんて」
 
 後ろに立つ幸記くんが、猫みたいな目を丸くして額に手をかざす。大きな黒目いっぱいに輝く好奇心は、幸記くんの生きてきた狭い世界を想像させて、
 
「ね。緑がきれい……あ、足元気を付けて」
 
 胸を刺す痛みを笑顔でごまかして手をそっと握ると、遠くを眺めていた目が照れくさげに細められた。
 
「ありがとう」
「どういたしまして」
「残念だなあ、本当は俺が桂さんの手を引きたいのに」
 
 意外に感じるほど男の子っぽい、冗談めかした口調。軽い足取りで段差を降りると、幸記くんは伸びやかに笑った。

「桂さんの前では、いいところを見せたいから」

 えっ、と目を丸くする私を見ると、笑顔に悪戯っぽい色を足してするりと手を離す。
 
「あとは大丈夫、自分で歩けるよ」
 
 そう言って、軽くショートした私を追い抜いて歩き出した。
 
(……意外、だなあ)

 あの日、初めて出会った幸記くんは小動物みたいに怯えていて、ほんの少し力をこめただけで壊れてしまいそうに見えた。
 
 でも、今日は全然違う。
 地下鉄に乗りかえる前に食べた昼ごはんの時も、並んで座ったバスの中でも驚くほど生き生きと話していて。
 特別おしゃべりなわけじゃないけど、思ったことははっきり口にするというか。
 
 一緒にいる黒崎くんがほとんど話さないから余計にそう見えたのかもしれない。横から見た時の通った鼻筋は、血のつながりを感じさせたけど。
 
「あいつ、日原と会うの楽しみにしてたから」
 
 横に立つ黒崎くんが、私の心を読んだみたいにポツリとつぶやく。
 人の目がないからだろう、ついさっきまで着ていたパーカーを脱いで傷痕だらけの腕をさらしていた。
 
 いつも長袖で暑いよね。なんて、言ってもしょうがないことは言えないけど。
 
「そうなんだ。嬉しいけどなんだか照れちゃうね」
「よくああいうことを口に出せるなとは思う」
「たしかに、黒崎くんが幸記くんみたいに話すは想像しにくいかも」
「気色悪い想像すんな」
 
 ぺシ、と頭をはたく手つきはいつもより気楽な感じで、学校では絶対こんなことしないよねと笑おうか迷ったけど、きっとますます叩かれるだけだからやめておいた。
 
「でも、幸記くんが元気そうで嬉しい」
 
 舗装されていない道を歩きながら、頭上の空を見上げる。
 
 薄く雲の張った空は落ち始めた夕日の色と混じり合って、ところどころ金色に輝いている。
 下には緩やかに稜線を描く山と、山肌をおおう豊かな緑。
 
 ああ、いい季節だなって心から思った。
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