そして消えゆく君の声

厚焼タマゴ

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花に似た2

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 すれ違いざま、鼻孔をくすぐった甘い匂い。廊下の向こうへ消えていく幸せそうな後ろ姿を見送りながら、雪乃が探偵みたいにうなずいた。
 
「……今日のメニューはカップケーキと見た」
「そういえば、征一さん紙袋持ってたね」
 
 一人じゃ食べきれない量だったけど、どうするんだろう。思わず首をひねると、向き直った雪乃に「甘い」とおでこを弾かれた。
 
「桂は征一さんのすごさをわかってないね」
「すごさ?」
「征一さんって、実習以外でも山ほどお菓子だのなんだのもらってるの。別の学年はもちろん、中等部の子もしょっちゅう」
 
 そういえば、さっきの人だかりにさりげなく中等部の制服の子が混じっていたような。
 
「普通そんなの、一個一個対処できないじゃん?でも、征一さんは贈り物全部食べてくれるし名前も覚えてくれる」
「ぜ、全部っ!?だって、五個や十個じゃなかったよ」
「そういうところも含めて王子様なんだって。あたし中学の時バレンタインチョコ渡したけど、今も野宮さんって呼んでくれるし」
「それは……確かにすごいかも」
 
 気配りや記憶力はもちろん、あれだけ食べて見た目がまったく変わらないのもすごい。
 七月に増えた一キロがどうしても戻せない私からすれば、コツを教えてもらいたいくらいだった。

「親切だし優しいし、推してるほうも楽しいよねえ」
「けど、あんまり完璧だと逆に怖くならないのかな」
 
 そんな感想が出てしまうのは、頭の中に傷だらけの黒崎くんが浮かぶから。
 あんな風に笑う人が、数え切れないほどの傷痕を残している。同じ家で暮らす男の子を学校にも行かせず閉じ込めている。
 
 どうしても結びつけることのできない事実は、得体の知れない恐怖になって胸の中でよどんでいた。
 
「完璧は完璧だけど、征一さんって少し変わって……ってか、天然なのかな。教室におっきい蜂が入ってきた時も気にせず授業うけてたらしいし、塩と砂糖まちがえたケーキとかでも全く表情変えずに食べてくれたらしいし」
「それって、味音痴で変な人ってことじゃ……」
「珍しくトゲのある言い方だね。桂って征一さん嫌いだっけ?」
「……嫌いっていうか、よくわかんない」
 
 そう。わからない。
 征一さんがどんな人で何を考えているのか。
 
 成績がいい。スポーツも得意。いつも優しく笑っている。それらは周りからの評価であって征一さんの人格じゃない。
 
 いい人ではない、と思う。
 でも悪い人かと言うと、これも少し違う気がする。黒崎くんいわく征一さんには悪意がなくて、皆のために行動しているのだから。
 
 完璧のはずなのに歪みを抱えている人。いつも人に囲まれている姿は蝶を引きよせる花みたいだけど、そこに甘い蜜はあるんだろうか。
 
 あの笑顔の下には、
 あの優しい声の裏には。
 裏には………
 
「桂、顔怖い」
 
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