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冬
挿話 笑顔
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丹念に研がれた凶刃は、あっけないほど容易く彼の胸を抉り、厚い血管を傷つけた。
肉を裂く生々しい感触。汗でぬめる右手で深く柄を突き立て、一気に引き抜くと、噴き出した鮮血が見る見るうちに白いシャツを染めていく。
振り返った体勢のまま膝を折った身体。脈動に合わせて噴出する血。床に飛んだ赤い飛沫が崩れ落ちた膝と擦れ合い、鏡面じみたフローリングを汚した。
「…………」
血が流れ、命が失われていく様を目の当たりにして、俺は今さらながら息を呑んだ。心臓が轟くような勢いで脈動し、指先がわななく。
傷を確認しなくてもわかる。
この人間はもうすぐ死ぬ。
俺の振り上げた刃によって。
ついにやったのだと恐る恐る掌中の刃に目をやると、べったりと濡れた表面には情けないほど動揺した自分の姿が写っていた。
青い顔、震える唇。吐きそうなほど恐ろしく、視線を合わせることすら出来ないのに、倒れた当人は薄笑いすら浮かべてこちらを見上げている。
「……そっか、君はこうするべきだと思ったんだ」
部屋を訪ねて、一瞬の隙を見て尖った凶器を振り上げた時も、彼は眉ひとつ動かさなかった。
俺と彼とでは運動能力がまるで違う。いざとなったら刺し違える覚悟だったのに、振り返った顔は他人事のように自らの胸が貫かれる様を眺めていた。
病院にいる弟のことでも考えていたのか。ひょっとしたら、何もかもがどうでも良くなっていたのかもしれない。
生々しい鉄の匂いが立ち込める中、彼は吐息混じりにたずねた。
「いつから、こうする気だった?」
語尾が掠れている。口元に浮かぶのは穏やかな笑顔なのに、眉間には激痛を訴えるしわが刻まれていた。
「……さっき、秀二の話を聞いた時。やるなら、俺しかないと思ったから」
「そう」
「これが、俺の役目だって思ったから」
秀二が彼に刺されたと聞いた時、耳を疑う俺たちに、彼は淡々とことの成り行きを語った。
彼が、秀二を取り返そうとしたこと。そのために、俺の一番大切な女の子を傷つけようとしたこと。
『……お前そこまでイカれてたのかよ』
いつも冷静な男が途方に暮れたように眼鏡ごしの目を細めて「どうしてそんなことをした」と尋ねた時。
「僕にもわからないんだ、どうしてか。次がないかどうかもわからない」
真っ黒な瞳でそう答えた彼に、俺は初めて明確な殺意を抱いた。殺してやる、ではなく、殺さなくてはいけないと。
俺はずっと、この人が憎かった。
俺をこの屋敷に閉じ込め、存在を抹殺した張本人。俺がたった一人家族と、当人が何と言おうが兄と信じる秀二に、常軌を逸した暴力をふるう存在。
なのに、傷を負った兄はいつも、俺でなく、腫れ上がったまぶたの隙間にうつる背中を見つめていた。
憎い。憎くないはずがない。だから、厨房から一番長く鋭い包丁を持ち出した時も、恐れる自分にこれでいいと言い聞かせた。
これでいい。こうするしかない。
俺は決して、後悔なんてしない。
そう思っていたのに、額には冬とも思えない汗が浮き、唇からはひっきりなしに荒い息がこぼれている。
壊れた心臓に全身を揺さぶられ、俺は弱弱しくかぶりを振った。手にした刃は、今や鉛のように重たい。
「……ご……」
金属質の音が上がる。
血まみれの床を、赤く染まった切っ先が滑った。
「……ごめんなさい」
ごめんなさい。
ごめんなさい。
でも。
あんたがいる限り秀二は幸せになれない。
肉を裂く生々しい感触。汗でぬめる右手で深く柄を突き立て、一気に引き抜くと、噴き出した鮮血が見る見るうちに白いシャツを染めていく。
振り返った体勢のまま膝を折った身体。脈動に合わせて噴出する血。床に飛んだ赤い飛沫が崩れ落ちた膝と擦れ合い、鏡面じみたフローリングを汚した。
「…………」
血が流れ、命が失われていく様を目の当たりにして、俺は今さらながら息を呑んだ。心臓が轟くような勢いで脈動し、指先がわななく。
傷を確認しなくてもわかる。
この人間はもうすぐ死ぬ。
俺の振り上げた刃によって。
ついにやったのだと恐る恐る掌中の刃に目をやると、べったりと濡れた表面には情けないほど動揺した自分の姿が写っていた。
青い顔、震える唇。吐きそうなほど恐ろしく、視線を合わせることすら出来ないのに、倒れた当人は薄笑いすら浮かべてこちらを見上げている。
「……そっか、君はこうするべきだと思ったんだ」
部屋を訪ねて、一瞬の隙を見て尖った凶器を振り上げた時も、彼は眉ひとつ動かさなかった。
俺と彼とでは運動能力がまるで違う。いざとなったら刺し違える覚悟だったのに、振り返った顔は他人事のように自らの胸が貫かれる様を眺めていた。
病院にいる弟のことでも考えていたのか。ひょっとしたら、何もかもがどうでも良くなっていたのかもしれない。
生々しい鉄の匂いが立ち込める中、彼は吐息混じりにたずねた。
「いつから、こうする気だった?」
語尾が掠れている。口元に浮かぶのは穏やかな笑顔なのに、眉間には激痛を訴えるしわが刻まれていた。
「……さっき、秀二の話を聞いた時。やるなら、俺しかないと思ったから」
「そう」
「これが、俺の役目だって思ったから」
秀二が彼に刺されたと聞いた時、耳を疑う俺たちに、彼は淡々とことの成り行きを語った。
彼が、秀二を取り返そうとしたこと。そのために、俺の一番大切な女の子を傷つけようとしたこと。
『……お前そこまでイカれてたのかよ』
いつも冷静な男が途方に暮れたように眼鏡ごしの目を細めて「どうしてそんなことをした」と尋ねた時。
「僕にもわからないんだ、どうしてか。次がないかどうかもわからない」
真っ黒な瞳でそう答えた彼に、俺は初めて明確な殺意を抱いた。殺してやる、ではなく、殺さなくてはいけないと。
俺はずっと、この人が憎かった。
俺をこの屋敷に閉じ込め、存在を抹殺した張本人。俺がたった一人家族と、当人が何と言おうが兄と信じる秀二に、常軌を逸した暴力をふるう存在。
なのに、傷を負った兄はいつも、俺でなく、腫れ上がったまぶたの隙間にうつる背中を見つめていた。
憎い。憎くないはずがない。だから、厨房から一番長く鋭い包丁を持ち出した時も、恐れる自分にこれでいいと言い聞かせた。
これでいい。こうするしかない。
俺は決して、後悔なんてしない。
そう思っていたのに、額には冬とも思えない汗が浮き、唇からはひっきりなしに荒い息がこぼれている。
壊れた心臓に全身を揺さぶられ、俺は弱弱しくかぶりを振った。手にした刃は、今や鉛のように重たい。
「……ご……」
金属質の音が上がる。
血まみれの床を、赤く染まった切っ先が滑った。
「……ごめんなさい」
ごめんなさい。
ごめんなさい。
でも。
あんたがいる限り秀二は幸せになれない。
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