そして消えゆく君の声

厚焼タマゴ

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挿話 笑顔2

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 震えを鎮めながら考える。俺はひょっとしたら、同じことをしているのかもしれない。守りたいもののために人を傷つけ、命まで奪おうとしている。

 こんなことをしても秀二は喜ばない。ただ打ちひしがれ、自分を責めるだろう。わかっている。わかっていても、これ以上兄の傷つく姿を見たくなかった。

 それに、もう一月も終わる。春はすぐそこ。残された時間は少ない。
 だから。だから、俺は。

「……きみで、三人目だよ」
 
 俺の気持ちなど知る由もない彼が、肩を竦める。つっかえながら話す彼を見たのは初めてだった。
 
「……先々週、父さんから家を出るようすすめられて……じゃあ、秀二と一緒にって言ったら……駄目だ、って」
 
 眉を寄せたまま笑うものだから、まるで泣き笑いを浮かべているように見える。目の錯覚だとわかっていても。
 
「秀二と……離れてやれ、ってね。その後、日原さんと話して、君も……。僕はずっと秀二のことを、考えて……だけど間違えたんだね、どこで間違えたんだろう」
「俺もわからない。あんたがどうして、あんなことをしたのか」
「……うん……」
「……ごめんなさい」
「どうして、謝るのかな」
 
 彼が苦しげに息をつまらせる。片手はきつく胸を押さえているものの、すでにどうしようもないほど血で染まっていた。
 びくり、びくりと肩が震える。命の終わりを数えるように。知らずぼやけた視界に、血の赤とシャツの白、彼の真っ黒な目だけが生々しく浮き上がる。
 
「僕は、きっと安心しているんだ、自分が、間違っていたって……だったら、僕がいなくなれば、ほんとに……しあわせになれる、よね」
「……」
「良かった。きみはきっと、正しいことを……。だから、なにも、悪くなんて」
 
 柔らかく深まる笑みから、俺は目をそらした。恐怖とも悲しみともつかない気持ちが、胸部を満たす。
 
「……なんで、笑ってるんだよ」
 
 死ぬのが怖くないのかとは言えず短い言葉で問いかけると、彼はゆっくり息を整え、口を開いた。瞳の動きも言葉も、明らかに反応が遅くなっている。
 
「わらった顔が好きだって言ったから」
 
 その答えを聞いたとき、俺は無性に泣きたくなった。

 「……おぼえてないかな。小さいころ、僕の絵をかいたこと。父の日で、とうさんの絵をかきなさいって、言われたのに」
 
 真っ黒な目は、俺を通り越してどこか遠い場所、遠い人を見ていた。
 
「だめだよ、って……言ったけど。きっと……うれしかったんだと思う。絵のぼくはすごくわらってて、きみは……わらってる顔が、好き……って……」
 
 肩が震え、脈動とともに血が噴出す。虚血のせいか彼の顔は蒼白で、唇は色を失い、なのに目だけは何とも言えない輝きを宿していた。
 俺には見えない、彼にしか触れられない思い出が、最後の光を与えているかのように。

 前のめりに身を倒して、彼は床に指を這わせた。何かを探して、前へ、前へと。
 
 
「…………しゅ……じ……」
 
 
 けれど、伸ばされた手は何にも触れられぬまま動きを止めた。きっと何年も探し続けて、それでも届かなかった手。

 あれほど強かった憎しみは消え、心には深い穴に似た空虚と寂しさが影を落としている。
 後悔しているのかと自らに問いかけて、俺はそっと首を振った。
 最初に決めた。俺は絶対に後悔しないと。俺のしていることは間違っているのかもしれない。大事な人を傷つけるかもしれない。
 
 でもこれが、こうやって「これから」をつなぐことが、俺にとっての精一杯だった。
 
「おい、さっきの音――」
 
 尋ねながら扉を開いた男が、部屋の惨状に硬直する。目を見開き、扉に手をそえたまま言葉を失った横顔に、俺はひどく落ち着いた声で答えた。
 
「――俺がやった、全部」
「…………」
「あんたも、損な役回りが多いね」
 
 膝をつき、こときれた顔を間近で見据える。
 
 瞼を閉じた白い顔は眠っているみたいに穏やかで、最後の最後まで責められなかったのが、ほんの少しつらかった。
 
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