そして消えゆく君の声

厚焼タマゴ

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それから1

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「弟は子供のころから征一を慕っていた。だから征一が病に侵されていると知り、失うことを恐れるあまり距離を置くようになったんだ」
「……」
「征一の死後はふさぎ込み、部屋から出て来なかった。だから決心がついたら来るようにと言ったんだが、あんなことになるとは思わなかった」
「……そうですか」
「そう言うしかないからね。無理があってもこの設定で押し通すしかないの」
 
 征一さんの告別式から一週間後の週末。例によって「どん底」で落ち合った要さんと私は、半ば定位置と化した奥の席で向かい合っていた。
 いつも通りの唐突な誘い。いつも通りのすみっこの席。
 派手な模様を織り込んだカーディガンを着た要さんもいつも通りの慣れた手付きで煙草をふかしているけれど、整った顔はどこか憔悴して見える。
 
 疲れてますね。

 目がそう言っていたのか、つり上がった眉がぎゅっと寄せられた。
 
「いやもう、最悪だよ。そりゃ俺だってお兄様は好きじゃなかったけど、物事には順序ってもんがあるでしょ。なんでああいう極端なことするかね」
 
 ああやだやだ、と肩を竦める。
 
 征一さんの死後、長期の出張に出ていたお父さんに連絡した要さんは、征一さんが自ら命を絶ったのだと説明した、らしい。
 知らされたのは事件の翌日。ことの成り行きを語る要さんの声はひどく淡々としていて、それが逆に葬った真実の底知れなさを感じさせた。

 本当は、要さんも打ちのめされているのかもしれない。私と同じように。内心の動揺を隠すことで、自分を保っているだけで。
 
「あいつはあいつで、やりとげたみたいな顔しちゃってさあ。俺がどんな気持ちで親父を誤魔化したか。生きた心地しなかったっての」
「大変でした、よね。……その、色々と」
「本当、善良な俺が巻き添えにならなくて良かったよ」
 
 あの日、大勢の涙に包まれて、ひっそりと灰塵に帰した真実。
 血まみれの包丁。えぐられた心臓。赤く染まった床と、出血多量による死。征一さんがこの世界からいなくなった本当の理由。
 こんなこと、隠していいはずがない。そう誰かが訴える声が聞こえるたびに心臓がどくどくと脈打って、息苦しさに胸をかきむしった。

 自分の身に起きるなんて想像すらしなかった、暗部に触れる恐怖。
 でも、声を上げることはできなかった。幸記くんがひどい目に遭うのが嫌で、私は横たわる征一さんに背を向けた。一度知った事実からは逃げられないのに。

 ――私はどうするべきだったんだろう。
 
 ずっと影のように付きまとっている後悔。どうすればこの最悪の事態を防ぐことができたんだろう。

「少しでも調べられたらお終いだったよ。傷口の状態なんて不自然でしかないからね。ま、親父が死んだ息子に無関心な人間で助かった。灰になっちまえば、真相は闇のなか。めでたしめでたし」
 
 薄い唇が、皮肉げに歪む。
 嘲笑まじりの言葉に見え隠れする父親への苛立ちを、私は気付かないふりをした。
 ばれなくて良かった、なんて考えている身で、お父さんの無関心を責めることはできない。
 
「俺はもっとあいつに感謝されるべきだよ。まったくさあ、誰のおかげで畳の上で死ねると思ってんだか」
「要さん」
「別に警察に突き出してやっても良かったんだけどね、まあ面倒ごとは嫌いな性分だから。兄としての厚意っていうの?どうせ先の短い人生なんだから、せめて優しくって――」
「要さんっ!」

 やめてくださいと声を荒げる私を鼻で笑って、要さんは組んだ指を前につきだした。背筋を反らして伸びをすると、革張りのソファがぎし、と軋む。
 
「ごめんごめん、さっき物事には順序があるって言ったばかりなのにね」
「……いえ」
 
 別に、要さんの物言いに腹を立てたわけじゃない。真っ向から話されるのが怖くて、心がついていけないだけで。

 幸記くんの話に。あの子に残された、決して長くない時間のことに。

 幸記くんが事件から間もなく入院したと教えてくれたのは要さんだった。
 おそらく、もう退院することはない。淡々と告げられた事実は、電話越しに聞いた静かな声の印象とぴったり重なった。
 最後に会った日の姿を思い出す。歩きながら何度か休憩を取っていて「最近疲れやすいんだよね、年かな」なんて笑っていた幸記くん。
 
 あの時、なんでもっと話を聞かなかったんだろう。
 
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