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冬
壊れた世界で3
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「く……」
壮絶な面差しに、名を呼びかけた声が途切れる。青く生気のない顔をした黒崎くんは、ほとんど幽鬼のようだった。
落ちくぼんだ目に真っ黒なくま。もう片方の目は、大きな白いガーゼに覆われている。
部屋着そのままの格好とかかとのつぶれた運動靴、ぼさぼさの髪が失われた正気を感じさせた。
要さんの口元が引き攣ったのがわかる。
とはいえ、出棺の途中で声をかけるわけにもいかないのか、まっすぐ前を向いた横顔は時折り視線を投げかけながら車の方へと歩いていった。
お父さんと要さんが列の前を通り過ぎ、棺を抱えた人々が後に続く。
観音開きのドアからせり出した台にふちの部分を引っかけて、そのまま奥へと押し込もうとした、時。
にいさん。
滴のように耳を打った呟きに私が振り返った時にはもう、痩せた身体は駆け出していた。
白い棺に。その中で眠る、兄に向かって。
「兄さん。俺、きたから」
ひざが汚れるのも厭わず、地面にひざまずく。枯木じみた指で木の表面を撫でて、黒崎くんは子供のように頼りない声で呼びかけた。
「もう大丈夫だから、家に帰ろう、全部言うこと聞くから」
小刻みに息を吐く唇はがさがさに乾いてひび割れている。どれだけ声を重ねても返る言葉はなく、夢を見ているようにうつろだった目は、みるみる内に絶望にピントを合わせていった。
「兄さん、ねえ、兄さん」
焦燥にかられて、早口になっていく声。見開かれた瞳のなかで、何かが砕け散る。
「兄さん、兄さん、兄さん、兄さんっ」
白い布にすがりつき、力まかせに側面を叩く姿は棺を壊そうとしているかのようで、担任らしき先生が慌てて肩をつかんでも、黒崎くんは拳を打ちつけ続けた。
「君、やめなさいっ」
「離せ、兄さんが、兄さんがっ……」
数人がかりで押さえつけられて、激しく身をよじる。幾筋もの涙が頬を濡らし、荒い呼吸はしゃくりあげる声へと変わっていった。
黒崎くんの慟哭につられたように、静まり返っていた参列者が、落涙の息を漏らし始める。
一人、また一人と、泣き声はどんどん増えていって、大好きだった人を送り出す。とうとう降り出した雨が肩を濡らしても、誰一人傘をささなかった。
力を失い、地面に崩れ落ちた黒崎くんに肩を貸しながら、お父さんが参列者を見た。せまい眉間にしわを寄せて、深く頭を下げる。
感謝、謝罪か。どちらにせよ黒崎くんの目は絶望に塗りつぶされて、何も見ていなかった。半開きの唇は、いまだ兄を呼んでいる。
クラクションが鳴り響き、征一さんを乗せた車が走り去ってからも、私はその場から動けなかった。濡れた爪先は冷たくて、凍りついたようだった。
数歩先に見えいていたはずの幸せは消え去り、耳の奥には黒崎くんの声がこびりついている。
胸を満たすどうしようもない空虚感が怖くて楽しい記憶を思い出そうとしても、現れるのは喪失の結末ばかりで。
ただ、全身を濡らす雨が何もかも洗い流してくれたらいいのにと強く願った。
壮絶な面差しに、名を呼びかけた声が途切れる。青く生気のない顔をした黒崎くんは、ほとんど幽鬼のようだった。
落ちくぼんだ目に真っ黒なくま。もう片方の目は、大きな白いガーゼに覆われている。
部屋着そのままの格好とかかとのつぶれた運動靴、ぼさぼさの髪が失われた正気を感じさせた。
要さんの口元が引き攣ったのがわかる。
とはいえ、出棺の途中で声をかけるわけにもいかないのか、まっすぐ前を向いた横顔は時折り視線を投げかけながら車の方へと歩いていった。
お父さんと要さんが列の前を通り過ぎ、棺を抱えた人々が後に続く。
観音開きのドアからせり出した台にふちの部分を引っかけて、そのまま奥へと押し込もうとした、時。
にいさん。
滴のように耳を打った呟きに私が振り返った時にはもう、痩せた身体は駆け出していた。
白い棺に。その中で眠る、兄に向かって。
「兄さん。俺、きたから」
ひざが汚れるのも厭わず、地面にひざまずく。枯木じみた指で木の表面を撫でて、黒崎くんは子供のように頼りない声で呼びかけた。
「もう大丈夫だから、家に帰ろう、全部言うこと聞くから」
小刻みに息を吐く唇はがさがさに乾いてひび割れている。どれだけ声を重ねても返る言葉はなく、夢を見ているようにうつろだった目は、みるみる内に絶望にピントを合わせていった。
「兄さん、ねえ、兄さん」
焦燥にかられて、早口になっていく声。見開かれた瞳のなかで、何かが砕け散る。
「兄さん、兄さん、兄さん、兄さんっ」
白い布にすがりつき、力まかせに側面を叩く姿は棺を壊そうとしているかのようで、担任らしき先生が慌てて肩をつかんでも、黒崎くんは拳を打ちつけ続けた。
「君、やめなさいっ」
「離せ、兄さんが、兄さんがっ……」
数人がかりで押さえつけられて、激しく身をよじる。幾筋もの涙が頬を濡らし、荒い呼吸はしゃくりあげる声へと変わっていった。
黒崎くんの慟哭につられたように、静まり返っていた参列者が、落涙の息を漏らし始める。
一人、また一人と、泣き声はどんどん増えていって、大好きだった人を送り出す。とうとう降り出した雨が肩を濡らしても、誰一人傘をささなかった。
力を失い、地面に崩れ落ちた黒崎くんに肩を貸しながら、お父さんが参列者を見た。せまい眉間にしわを寄せて、深く頭を下げる。
感謝、謝罪か。どちらにせよ黒崎くんの目は絶望に塗りつぶされて、何も見ていなかった。半開きの唇は、いまだ兄を呼んでいる。
クラクションが鳴り響き、征一さんを乗せた車が走り去ってからも、私はその場から動けなかった。濡れた爪先は冷たくて、凍りついたようだった。
数歩先に見えいていたはずの幸せは消え去り、耳の奥には黒崎くんの声がこびりついている。
胸を満たすどうしようもない空虚感が怖くて楽しい記憶を思い出そうとしても、現れるのは喪失の結末ばかりで。
ただ、全身を濡らす雨が何もかも洗い流してくれたらいいのにと強く願った。
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