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1 イヌリーマン田中

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 サラリーマン田中の朝は早い。
 まだ薄暗いうちから起きだして、早朝ランにでかける。
 いい汗かいて帰宅すると、シャワーに直行、ボディシャンプーをたっぷり手にとり、まず頭から始める。ぴんと尖った耳のまわりを念入りに、そのまま顔を毛並みにそってマッサージするよういっしょくたに洗う。
 次に首と胸元にはえている豊かな毛を洗っていく。なぜかそこだけ田中のメインカラーである黒、光の加減によってシルバーにも見える体毛の量が多い。
 田中はイヌ種の中でも短毛(ショートタイプ)で、全身は顔を含め、手の平と足の裏以外は短い黒い毛でおおわれている。長毛(ロングタイプ)の人と比べると手入れは楽だが、首から胸元にかけてだけは放置すればうねりだす。背中は、ボディブラシでごしごしやって、頭から一気に洗い流す。
 ささっとタオルドライし、あとは全身ドライヤーを使って完全に身体を乾かせば終わりだった。
 全身ドライヤーは、田中のようなイヌ種の人間とってはどこの家にもある必需品だ。今の部屋にはなかったため、会社の経費でつけてもらった。
 シャワーブースのような形をしていて、主電源をいれて扉をあけ中に入ると、人感センサーが反応し内部が青く光る。扉を閉めれば(扉は安全上、顔のあたりと足元は開いている)、ぶおおおおおおと強力な温風がおこる。それで身体を一気に乾かすが、最近伸び放題になっているため首と胸元の毛の乾きが悪い。手間がかかるのはいただけない。
 若い頃はあえて伸ばしたこともあったが(若気の至り)、今は手入れが面倒なのとスーツに似合わないのとで、定期的にいきつけの美容院で整えていた。
 それが、転勤で知らない土地にきたものだから、サル種の人間ばかりのこの街で、イヌ種の田中がカットに行くのはハードルが高かった。
 しかしそろそろ本気になって自分を受け入れてくれる美容院か理髪店を探さねば、これから暑くなる季節うっとうしくてかなわない。
 そんなことを思いつつスーツに着替える。
 テーブルにだして解凍しておいたが、まだ常温に戻りきらずひんやりしている厚切りのハムを、べろんと口にいれる。
 休みにまとめ買いしたものをジップロックにひとつひとつ丁寧にいれて冷凍保存して、毎朝解凍し食べている。ビタミン青汁の粉末を水でといたもので三枚流しこむ。
 立ったままの簡単な朝食を終えると、歯を磨きヘアワックスで毛並みを整える。全身ドライヤーから出てきたままだと、毛がふわふわしすぎて恥ずかしい。
 若いころはイキってウエットな艶出しにこったこともあったが、アラサーゆえ、マットに仕上げる。三十秒もかからない。
 今日も耳がピンととがっている。鼻もぐっと前に突き出て、口はシュッと裂けている。
 田中は、異性から熱い視線をおくられることも多い。スーツ姿ならなおさらだ。
 しかし残念なことにサル種しかいないこの街で、モテたとて、ちっとも嬉しくない。
 田中の好みは非常にはっきりしていた。
 短毛(ショートタイプ)よりは長毛(ロングタイプ)、毛色はブラウン、耳が垂れていれば言うことない。凛々しい系の女性が好きだ。
 友人からはめんくいとからかわれるが、それの何が悪い。好きに理由はない。思わず触れたくなるような毛並みの、ロングヘア美人に弱いというだけだ。もちろんイヌ種の女性に限っての話である。
 
 最寄り駅から電車にのる。
 田中のオフィスは、ターミナル駅に接続した複合ビルの高層階にあった。会社はネットワーク事業大手で、田中は通信インフラの管理・運用・保守をやっているチームのリーダーとして勤務している。
 田中が改札をぬけて人の流れをよけつつ、追い抜かしつつで歩いていると、前方に見覚えのある小柄なスーツの背中と茶色っぽいふわふわ頭を発見した。
「おはよう次田」
 だるそうに歩きながらおおあくびしている次田に声をかけると、次田は、「ふわっ」と大きく開けた口を手で覆った。
「……いきなり声かけないでくださいよ、もうー」
「口、案外大きく開くのな」
 あまりにも真っ赤になって驚くので、田中はしっぽを揺らしながら笑い、次田の背中にかばんをぽんとぶつけた。
 次田のようなサル種のヒトは、顔に毛が生えていない分、赤くなったり青くなったりがよくわかる。
「昨日眠れなかったのか」
 田中は、いきなり振り返ると大きな口をがあっとあけて、さっき次田がやっていたあくびの真似をしてみせた。
 田中を右側から追い越そうとしていたおっさんが、びくっとなった。田中が口を全開にすると顔半分が口になり、その尖った歯と長い舌がべろりと見えるのだから、驚くのは当然だ。
 目をむき憤慨しているようなおっさんに、驚かせた詫びの意味で会釈をしたが、おっさんは思いっきり無視して行ってしまった。田中は内心ムカっとしたが、それを表には出さないよう努める。
 次田は肩をすくめた。
「社内コンペの資料集めしてたら遅くなっちゃったんです」 
「いいねえ、そのやる気。がんばる次田選手にコーヒーおごってやる」
 わざとオヤジっぽく先輩風をふかして言った。
「うわ、朝から景気いいですね! なんすかなんすか~なんかあったんすか~」
 次田も調子よく合わせてくる。
「人に与えると返ってくるって言うじゃねえか。気分」
「あはは、それじゃあごちになりやーす」
 人と人は基本わかりあえないと田中は思っていて、特にイヌとサル、人種が違えばなおさらだ。
 だからこそ努力が必要なのだ。お互い気持ちよく毎日を過ごすためには、あいさつや笑顔、ちょっとした心遣いが、なによりも大切だと思っている。知らない人同士はもちろん、親しいならなおさらである。
 次田の笑顔に田中のしっぽは、自然とリズムをとってしまう。見知らぬおっさんにイラっとしたこともすっかり忘れ、今日はラテにしようか、それともアイスコーヒーにしようか、田中は悩むのだった。
 
 類人猿を先祖とするサル種のヒト。
 類人犬を先祖とするイヌ種のヒト。
 ヒトには二つの種がある。
 サル種のヒトは、おしなべて平面的な顔をしており鼻だって前に突き出ていない。毛にしても、頭以外は全身つるんとしている。
 イヌ種のヒトにも平面的な顔の者、無毛の者もいるが、根本的に異なる。
 サル種は耳や鼻の位置と形状が同じで、耳は顔の側面についている。鼻は濡れていない。そして耳も鼻も動かすことができない。そのせいかどうかは知らないが、イヌ種が簡単に感知できる匂いや音に鈍感だ。
 おまけにしっぽもない。彼らだってかつてしっぽをもっていたのに、進化の過程でどこかに置いてきぼりにしてきてしまった。
 田中からすると、なんだかパーツが足りないように思える。アンバランスなもんだ、と思う。
 田中は、イヌ種しかいない地域で生まれ育った生粋のイヌ種の人間で、転勤の辞令により、知り合いどころか自分と同じ種の人間がぜんぜんいないこの街へ来た。それが半年前のことだ。
 今までサル種のヒトとはまったく交流がなかったわけではないが、今回のように自分以外が全部サル種、つまり完全なアウェーの環境に身をおくのは、初めてだった。
 同じ人間とはいえ、種による見た目の違いは、なじむのに時間がかかった。今でもたまに自分をUFOが不時着して知らない惑星にまぎれこんでしまったエイリアンのように感じたりする。

「次田、おきろ」
「んが」
 飲み会の帰りの電車、田中のたくましい胸によりかかり爆睡していた次田は、すみません、すみません、とよだれをぬぐいながら目を覚ました。
「田中さん、すんません、なんかすっげーもふもふで気持ち良くて。えへへへ」
 謝ったのち笑う次田は、なんだか仔犬みたいだ。しかし「もふもふ」という言葉はアウト。イヌ系成人男子を侮蔑する意味もある言葉だ。しかしそんな感覚をサル種の次田がわかるはずもないので、田中はスルーした。
 田中は指をチョキにして自分の毛をカットする仕草をする。
「いい加減のびすぎて困ってる。イヌ種でもオッケーな美容院なり床屋なり、知らない?」
「そんなの検索してみればすぐですよー」
 次田はスマホを使ってぽちぽちと調べはじめた。
「……お? あれ、思った以上に少ない……あ、でもここ、いいじゃないですか『カットサロン ジグ・オーク』」
「『じごーく』?」
「『ジグ・オーク』」
「『じごうじとーく』?」
「『ジグ・オーク』!」
 わははと二人でひとしきり笑ったあとに、次田が言った。
「でも切るのもったいなくないですか~。俺だったら『触ってみる?』なんつって、気になる子にアピールしちゃいますけどね」
「気になるったって……かわいい毛並みの子、紹介でもしてくれんのかよ」
「毛並みって、え、田中さん、恋愛対象は同じ人種じゃないとダメなタイプですか?」
「うーん、俺の好みはたれ耳で毛づやのよいロングヘア美女だからな。カラーがブラウンならなおよし」
「えー、マジっすか。試してから言った方がいいですよ。サル種だって結構毛が生えていますよ? ぼくだってスーツの下は超ボーボーです」
 次田は急にまじめな顔で言った。
 冗談なのか真剣なのかわからない。いや、ひょっとして下ネタで、笑うところだったのか。
 イヌ種であれば、冗談の場合、しっぽがもぞつくからすぐわかる。やはりサル種の人間の感情は理解しがたい。感情表現が豊かな次田でさえ、田中には時々難しい。
 いくら仲良くなってもそういう風に人種の差異のようなものを感じると、田中は眉間がぴりぴりして、鼻がひくひくするのだった。
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