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4 田中、説教する
「なあ、マジでなんなの、あんた」
「……」
いつも予約でいっぱいの人気整体師の手技を受けた帰り道だった。
田中を前に、えんはあからさまに嫌そうな顔をして、吐き捨てるように言った。
「……ひょっとして、あんた、俺のことつけてんの?」
「は? そんなわけないだろう」
出会っていきなりの暴言に、アウェーでの暮らしはなるべく穏便にと心砕いている田中でさえも、ブチ切れざるをえなかった。
「お前な、こっちが下手に出てるからって、たいがいにしろ。いちいち親の仇みたいに、無礼な口、利きやがって!!」
田中は興奮してぐわ、ときばをむく。
するとえんは、そんな異形となった田中にひるむことなく言い返してくる。
「こちとらばばあに育てられてんだ。親はいねえ。親の仇なんか討ちようがねーし」
「そういうこと言ってんじゃない。読解能力ゼロか、低能。俺だってジジババに育てられてる。兄弟多すぎて外注されたんだよ!」
普段何重にも張り巡らされている心遣いも気遣いもとっぱらって、田中が繰り出す反論のジャブに、えんは間髪いれず打ち返す。
「あー、ワンワンワンワンうるせえな、駄犬の無駄吠えうるせえ」
えんはわざと聞こえる大きさの声で毒づく。
「あ゛あ゛っ!? なんだとロン毛のエテ公が、尻が赤いか、今この場で確認してやろうか?」
「きめーわ。まじきめー。うっわ……舌だしてはあはあするとか、ほんときめー!」
ムカつく仕草で肩をすくめられたものだから、田中はいよいよ歯止めがきかなくなる。
「てめーこそ、キャッキャキャッキャ鳴きやがって、木でも登ってろ、バナナ足りねえんじゃねえか、キロで食ってウェイトつけてから同じこと言え」
「駄犬」「無駄吠え」「エテ公」「尻が赤い」「木登り」「バナナ」、またイヌ種特有の長い舌を揶揄するなど、人種間のポリティカルコレクトネスは総無視だった。人として大人として社会人としてありえない。政治家ならノータイムで炎上・失脚する。
しかし田中はすっかりえんのペースにのせられてしまって、そんなことはすべて棚に上げヒートアップしてしまう。
ついさっき受けてきた口コミでも大絶賛の人気整体師の渾身のテクがちっとも効かない理由が知りたいのだ。嫌いなやつの手の方が百倍気持ちいいなんて地獄だ。こんなのどうすればいい。
「だいたいお前、何者だ。マッサージばっかりしてマッサージ師か!! 美容師ならほかにやることがあるだろう!」
田中の言葉にえんはけろっとした顔だ。
「美容師じゃないし」
田中は呆れはてた。
なんだ、美容師の資格もっていないのか。ニートか。
「それよかあんたさ、さっきから俺の姿を見て何にも思わないわけ」
「ずいぶん派手な酒の飲み方をしたもんだな」
「……酒なんか飲むわけないだろ!」
嗅覚がするどい田中が、気づかないはずがない。いや、田中じゃなくても誰でも気づく。わかっていて触れなかった。
えんの着ている白いシャツの前面には紫色のしみが大きく広がっている。長い髪も濡れているようで、アルコールの匂いがぷんぷんする。赤ワインだ。頭からぶっかけられでもしないかぎり、こうはならない。
「痴情のもつれ」だか何だか知らないが、また何かトラブったのだ。
だとしても、田中はえんを助けてやる気になれなかった。前回あんなひどい態度をとられ、そこまでお人好しじゃない。
背をむけ置き去りにしようとすると、スーツのそでを掴まれた。
「おい、待てよ。……まさか見過ごす気か」
田中が冷ややかな目で見ても、えんはひるむことなく続ける。
「このまま帰るとばあちゃんに叱られる……それに酒臭くて、さっきからすごく気持ち悪い」
「叱られる」って。子どもかよ。
田中は失笑する。
とはいえ、えんの顔色は確かに悪い。具合が悪いなら、口の悪さもトーンダウンすれば可愛げがあるものの、まったくそうじゃないのが憎たらしい。
「なんでこうなったのか、説明しろ。あと『お願いします』、ってちゃんと人の目を見て言え」
「っ……」
えんはしばらく押し黙った。だいぶ葛藤があるようだった。しかしとうとう観念した様子でその言葉を口にした。
「……お願い、し、ます……」
相変わらず不愛想で、あげく睨んでいるような目つきで、しかも不貞腐れたような言い方だったが、とにかくえんは「お願いします」と言った。田中は小さな勝利を得た。
そうはいってもこのよくわからない生き物を自分の家にいれるのは嫌だなあ、と心底思った。面倒ごとに巻きこまれるのはごめんだ。
しかし結局田中はえんを家に連れ帰った。優しさや思いやりからではない。田中はえんのめくるめくマッサージテクニックにヨダレだらだらで、貸しをつくって肩のひとつでも揉んでもらいたいというハラがあった。
「これ、うわ、あははは」
田中の部屋に来て、さっそくシャワーを使ったえんは、勝手に全身ドライヤーを試している。気分も治ったようで人が変わったように笑い声をあげている。
「一瞬で乾く、すげえ!」
そこに難しい顔で腕組している田中が登場すると、自分の立場を思い出したようで、笑顔から真顔になる。この男は、子どもっぽいというか、気分にむらがあるようなところがある。
田中から借りた服を着たえんは、すっと借りてきた猫みたいになった。
「『風呂を使わせていただき、服を貸していただき、ありがとうございます』は」
えんは何かもごもごと言った。
田中はさらに鼻をうごめかせて、上から言った。
「お前、商売やってるのに、なんで『ありがとうございます』もまともに言えないの。そもそもお前のそういう態度こそがいろんなトラブルの原因なんじゃねえの」
田中はばあさんから聞いた「痴情のもつれ」を揶揄した。引き寄せる、と言ってしまえばまるで本人が何も悪くないみたいであるが、そんなわけあるか。
「……何にも知らないくせに」
えんはキッと睨んでくるが、これまでのえんの態度から、ひく気にはなれない。
「お前、ストーカーされてたんだろ。イヌ種の男に。だからばあさんが最初俺のこと、そいつと間違えた。言うけどな、その件、まだひとっことも謝罪されていないぞ」
「ばばあが勝手に間違えただけだ。俺は関係ない」
えんはじりじりと田中から逃げ、玄関に行こうとしている。田中はそれを察して逃がすかとばかりに進路をふさいだ。田中の脇をすり抜けようとするえんを、田中は捕らえた。
「まだ話は終わってない。今日のこともこの前の階段でのことも、ちゃんと話せ。お前俺に助けられてなかったら、大けがしてたかもしれないんだぞ」
「頼んだわけじゃ……あっ」
手にしていたスマホをとりあげた。バキバキに画面にひびが入っているそれを、えんは田中から取り返そうと暴れたが、体格差が歴然としており、田中はびくともしなかった。
「返せ!!」
「ちゃんと説明するって約束だ」
えんはぐうっと黙った。
「ばあさんが心配していたぞ。お前はいつも『痴情のもつれ』がすぎるってな。なにがどうして『痴情』で、何が原因でそれがもつれるのかは知らんが、人との接し方に問題があるとしか思えないぞ、俺は」
必死に手をのばすえんから身をかわし、軽くいなしながら田中は意地の悪いことを続けざまに言う。
「なあ、お前さあ、嘘でもいいから、さっき全身ドライヤーではしゃいでいた時みたいに普段からちょっとでも笑ってみろよ。笑顔なんてものは基本的なコミュニケーションの手段なんだ。みんな他人と摩擦を起こさないよう気持ちよく毎日をおくるために『敵意はありませんよ』って笑ってんの。ほら、笑ってみ、ほら」
田中はえんを小突く。えんは睨み返してくる。
「ツンケンしてようが、にこにこしてようが、俺の自由だ。愛想振りまく義理なんかあるか。それに誰にでも優しくなんかできない。そんなことしてたら、ナメられるし、勘違いするやつがでてくる」
「なんだそれ。どういうことだ」
「……お前だって俺の事、好きになるかも」
田中は失笑した。何を言いだす気だ、こいつは。
「おいおい、自意識過剰か? イヌ種の奴にストーカーされたからそんなことを思うのかもしれんが、俺はサル種も男も全く興味ない」
なぜなら田中の好みははっきりしている。たれ耳ブラウンのロングヘア美人、子どもの頃からずっとそうだ。
「ふん、そういうことを言っているやつほど、面倒なことになる」
「大した自信だな。お前のルックスがどうなのか、俺にはちっとも……」
えんは、まだ田中が言いたいことを言い終わってないのに、束ねていた髪をぐいっとほどいた。頭を軽くゆすると、背中の半ばまでもある乾かしたばかりの長い髪が、パサリと広がる。それだけで雰囲気がぐっと変わった。田中は、思わずくぎづけになる。
両の目が、まっすぐに田中を見すえる。
その時初めて田中は、えんの瞳を真正面から見た。
「俺はサル種の人たちのきれいとかかっこいいが、そもそもわからない、つまり」
えんの腕がのび、田中の首元の毛に細長い指がすっと潜る。そのなめらかな動きに気をとられているうちに、引き寄せられるかたちになる。
田中は、させじ、とえんの長い髪を後ろからぐっとつかむ。強くひくと、えんはくっと頭をのけぞらせる。その白いのど元は田中の鼻先にあった。
ほんとうにサル種というものはつるつるで何もないむきだしの肌をしている。のどの突起が、わずかにきゅっと動いているのが見てとれた。
それをとっさに長い舌でべろりと舐めた。
性的な意味はない。ビビらせて一矢報いてやろうと思った。出来心だ。サル種の奴らは潜在的に、イヌ種の大きな口を恐れている。
田中が舐めた瞬間、えんは田中の首元の毛に潜りこませていた指をわずかに震わせた。
その反応にざまあみろ、と思い、もう一度、怖がらせようと鎖骨から耳にかけてべろりと舐めた。
えんはびくんと身をすくませ、こちらを睨む。顔が真っ赤で、首筋が桜色に色づいている。
その反応で十分満足したので、えんから離れようとする田中だったが、爪にえんの髪がひっかかってしまった。
「痛ッ」
「あ、すまん、ちょっとじっと」
田中があわてると、えんは、無言で田中にしがみついた。
顔が近かった。えんは田中を睨んいるが、その表情はすねているようにも見える。
えー、と。
田中はどうしていいかわからず、えんを愚直に見つめ返す。えんはそのまま田中の背中に、そろそろと腕をまわす。
さすがの田中もこれは困ってしまった。
本当にサル種に、男に何も感じない。
ただし、えんの指が毛の中に潜りこみ、優しく地肌さすられると、これまでえんに与えられてきた快楽を身体が勝手に期待し、自然とよだれがわいてくる。
「おい……、……待て……待ってくれ」
えんの身体から逃げようとしたが、えんは田中の胸に強引に顔をうずめてくる。
地毛にあたたかな息があたる。
田中にとってまったく対象外で、一方的なものであっても、断り方によっては相手を傷つけてしまうかもしれぬ。そう思い躊躇している間に、どんどん指は進む。優しく背筋をはって下へ下へとおりてゆく。
このままではダメだと思いながらも、つい、マッサージの快楽が呼び起こされ、ごくりと喉がなってしまう。
「その……」
言いかけたその時、身体の一部に激痛がはしって叫んだ。
「痛、っ、いだいだいだいだいだいだいっ!!」
えんは、ひらりと田中から離れる。田中はその場で声にならない叫び声をあげながら飛び跳ねた。
あろうことか、急所であるしっぽを強く引っ張られたのだった。痛みに涙しながら、えんを見ると、えんは目をむいて爆笑していた。
「あはははははははは!!」
しっぽは耳や鼻同様、イヌ種にとってセンシティブな場所のひとつだ。神経が集まっているし、骨もある。おかしなことをされれば骨折の危険だってある。それを力いっぱい掴んで引っ張るとは。
「お前から説教されるいわれは、一ミクロンもねえ!」
えんは邪悪な顔で笑い、手の平を上に向け、むしりとった田中の毛に息を吹きかける。それらが空中を舞う中、部屋を飛び出した。
おのれ、ばばあに続いて孫までも……!
なんたる狼藉、なんたる乱暴! 田中が貸した服はぶかぶかで、それが仔犬っぽいと庇護欲をそそった。仏心をだしたのが間違いだ。その手に触れられたいという下心も。
優しくすればつけあがりやがって。
田中は悔しさと痛みで立ち直れない。天井高くまで舞い上がった田中の黒い毛が、ふわふわと落ちてくる。
「恩をあだで返すとは何事だああああああ!」
田中は閉まるドアに向かって叫んだが、もう後の祭りだ。もはやどうしたって負け犬の遠吠えでしかないのだった。
「……」
いつも予約でいっぱいの人気整体師の手技を受けた帰り道だった。
田中を前に、えんはあからさまに嫌そうな顔をして、吐き捨てるように言った。
「……ひょっとして、あんた、俺のことつけてんの?」
「は? そんなわけないだろう」
出会っていきなりの暴言に、アウェーでの暮らしはなるべく穏便にと心砕いている田中でさえも、ブチ切れざるをえなかった。
「お前な、こっちが下手に出てるからって、たいがいにしろ。いちいち親の仇みたいに、無礼な口、利きやがって!!」
田中は興奮してぐわ、ときばをむく。
するとえんは、そんな異形となった田中にひるむことなく言い返してくる。
「こちとらばばあに育てられてんだ。親はいねえ。親の仇なんか討ちようがねーし」
「そういうこと言ってんじゃない。読解能力ゼロか、低能。俺だってジジババに育てられてる。兄弟多すぎて外注されたんだよ!」
普段何重にも張り巡らされている心遣いも気遣いもとっぱらって、田中が繰り出す反論のジャブに、えんは間髪いれず打ち返す。
「あー、ワンワンワンワンうるせえな、駄犬の無駄吠えうるせえ」
えんはわざと聞こえる大きさの声で毒づく。
「あ゛あ゛っ!? なんだとロン毛のエテ公が、尻が赤いか、今この場で確認してやろうか?」
「きめーわ。まじきめー。うっわ……舌だしてはあはあするとか、ほんときめー!」
ムカつく仕草で肩をすくめられたものだから、田中はいよいよ歯止めがきかなくなる。
「てめーこそ、キャッキャキャッキャ鳴きやがって、木でも登ってろ、バナナ足りねえんじゃねえか、キロで食ってウェイトつけてから同じこと言え」
「駄犬」「無駄吠え」「エテ公」「尻が赤い」「木登り」「バナナ」、またイヌ種特有の長い舌を揶揄するなど、人種間のポリティカルコレクトネスは総無視だった。人として大人として社会人としてありえない。政治家ならノータイムで炎上・失脚する。
しかし田中はすっかりえんのペースにのせられてしまって、そんなことはすべて棚に上げヒートアップしてしまう。
ついさっき受けてきた口コミでも大絶賛の人気整体師の渾身のテクがちっとも効かない理由が知りたいのだ。嫌いなやつの手の方が百倍気持ちいいなんて地獄だ。こんなのどうすればいい。
「だいたいお前、何者だ。マッサージばっかりしてマッサージ師か!! 美容師ならほかにやることがあるだろう!」
田中の言葉にえんはけろっとした顔だ。
「美容師じゃないし」
田中は呆れはてた。
なんだ、美容師の資格もっていないのか。ニートか。
「それよかあんたさ、さっきから俺の姿を見て何にも思わないわけ」
「ずいぶん派手な酒の飲み方をしたもんだな」
「……酒なんか飲むわけないだろ!」
嗅覚がするどい田中が、気づかないはずがない。いや、田中じゃなくても誰でも気づく。わかっていて触れなかった。
えんの着ている白いシャツの前面には紫色のしみが大きく広がっている。長い髪も濡れているようで、アルコールの匂いがぷんぷんする。赤ワインだ。頭からぶっかけられでもしないかぎり、こうはならない。
「痴情のもつれ」だか何だか知らないが、また何かトラブったのだ。
だとしても、田中はえんを助けてやる気になれなかった。前回あんなひどい態度をとられ、そこまでお人好しじゃない。
背をむけ置き去りにしようとすると、スーツのそでを掴まれた。
「おい、待てよ。……まさか見過ごす気か」
田中が冷ややかな目で見ても、えんはひるむことなく続ける。
「このまま帰るとばあちゃんに叱られる……それに酒臭くて、さっきからすごく気持ち悪い」
「叱られる」って。子どもかよ。
田中は失笑する。
とはいえ、えんの顔色は確かに悪い。具合が悪いなら、口の悪さもトーンダウンすれば可愛げがあるものの、まったくそうじゃないのが憎たらしい。
「なんでこうなったのか、説明しろ。あと『お願いします』、ってちゃんと人の目を見て言え」
「っ……」
えんはしばらく押し黙った。だいぶ葛藤があるようだった。しかしとうとう観念した様子でその言葉を口にした。
「……お願い、し、ます……」
相変わらず不愛想で、あげく睨んでいるような目つきで、しかも不貞腐れたような言い方だったが、とにかくえんは「お願いします」と言った。田中は小さな勝利を得た。
そうはいってもこのよくわからない生き物を自分の家にいれるのは嫌だなあ、と心底思った。面倒ごとに巻きこまれるのはごめんだ。
しかし結局田中はえんを家に連れ帰った。優しさや思いやりからではない。田中はえんのめくるめくマッサージテクニックにヨダレだらだらで、貸しをつくって肩のひとつでも揉んでもらいたいというハラがあった。
「これ、うわ、あははは」
田中の部屋に来て、さっそくシャワーを使ったえんは、勝手に全身ドライヤーを試している。気分も治ったようで人が変わったように笑い声をあげている。
「一瞬で乾く、すげえ!」
そこに難しい顔で腕組している田中が登場すると、自分の立場を思い出したようで、笑顔から真顔になる。この男は、子どもっぽいというか、気分にむらがあるようなところがある。
田中から借りた服を着たえんは、すっと借りてきた猫みたいになった。
「『風呂を使わせていただき、服を貸していただき、ありがとうございます』は」
えんは何かもごもごと言った。
田中はさらに鼻をうごめかせて、上から言った。
「お前、商売やってるのに、なんで『ありがとうございます』もまともに言えないの。そもそもお前のそういう態度こそがいろんなトラブルの原因なんじゃねえの」
田中はばあさんから聞いた「痴情のもつれ」を揶揄した。引き寄せる、と言ってしまえばまるで本人が何も悪くないみたいであるが、そんなわけあるか。
「……何にも知らないくせに」
えんはキッと睨んでくるが、これまでのえんの態度から、ひく気にはなれない。
「お前、ストーカーされてたんだろ。イヌ種の男に。だからばあさんが最初俺のこと、そいつと間違えた。言うけどな、その件、まだひとっことも謝罪されていないぞ」
「ばばあが勝手に間違えただけだ。俺は関係ない」
えんはじりじりと田中から逃げ、玄関に行こうとしている。田中はそれを察して逃がすかとばかりに進路をふさいだ。田中の脇をすり抜けようとするえんを、田中は捕らえた。
「まだ話は終わってない。今日のこともこの前の階段でのことも、ちゃんと話せ。お前俺に助けられてなかったら、大けがしてたかもしれないんだぞ」
「頼んだわけじゃ……あっ」
手にしていたスマホをとりあげた。バキバキに画面にひびが入っているそれを、えんは田中から取り返そうと暴れたが、体格差が歴然としており、田中はびくともしなかった。
「返せ!!」
「ちゃんと説明するって約束だ」
えんはぐうっと黙った。
「ばあさんが心配していたぞ。お前はいつも『痴情のもつれ』がすぎるってな。なにがどうして『痴情』で、何が原因でそれがもつれるのかは知らんが、人との接し方に問題があるとしか思えないぞ、俺は」
必死に手をのばすえんから身をかわし、軽くいなしながら田中は意地の悪いことを続けざまに言う。
「なあ、お前さあ、嘘でもいいから、さっき全身ドライヤーではしゃいでいた時みたいに普段からちょっとでも笑ってみろよ。笑顔なんてものは基本的なコミュニケーションの手段なんだ。みんな他人と摩擦を起こさないよう気持ちよく毎日をおくるために『敵意はありませんよ』って笑ってんの。ほら、笑ってみ、ほら」
田中はえんを小突く。えんは睨み返してくる。
「ツンケンしてようが、にこにこしてようが、俺の自由だ。愛想振りまく義理なんかあるか。それに誰にでも優しくなんかできない。そんなことしてたら、ナメられるし、勘違いするやつがでてくる」
「なんだそれ。どういうことだ」
「……お前だって俺の事、好きになるかも」
田中は失笑した。何を言いだす気だ、こいつは。
「おいおい、自意識過剰か? イヌ種の奴にストーカーされたからそんなことを思うのかもしれんが、俺はサル種も男も全く興味ない」
なぜなら田中の好みははっきりしている。たれ耳ブラウンのロングヘア美人、子どもの頃からずっとそうだ。
「ふん、そういうことを言っているやつほど、面倒なことになる」
「大した自信だな。お前のルックスがどうなのか、俺にはちっとも……」
えんは、まだ田中が言いたいことを言い終わってないのに、束ねていた髪をぐいっとほどいた。頭を軽くゆすると、背中の半ばまでもある乾かしたばかりの長い髪が、パサリと広がる。それだけで雰囲気がぐっと変わった。田中は、思わずくぎづけになる。
両の目が、まっすぐに田中を見すえる。
その時初めて田中は、えんの瞳を真正面から見た。
「俺はサル種の人たちのきれいとかかっこいいが、そもそもわからない、つまり」
えんの腕がのび、田中の首元の毛に細長い指がすっと潜る。そのなめらかな動きに気をとられているうちに、引き寄せられるかたちになる。
田中は、させじ、とえんの長い髪を後ろからぐっとつかむ。強くひくと、えんはくっと頭をのけぞらせる。その白いのど元は田中の鼻先にあった。
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それをとっさに長い舌でべろりと舐めた。
性的な意味はない。ビビらせて一矢報いてやろうと思った。出来心だ。サル種の奴らは潜在的に、イヌ種の大きな口を恐れている。
田中が舐めた瞬間、えんは田中の首元の毛に潜りこませていた指をわずかに震わせた。
その反応にざまあみろ、と思い、もう一度、怖がらせようと鎖骨から耳にかけてべろりと舐めた。
えんはびくんと身をすくませ、こちらを睨む。顔が真っ赤で、首筋が桜色に色づいている。
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「痛ッ」
「あ、すまん、ちょっとじっと」
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顔が近かった。えんは田中を睨んいるが、その表情はすねているようにも見える。
えー、と。
田中はどうしていいかわからず、えんを愚直に見つめ返す。えんはそのまま田中の背中に、そろそろと腕をまわす。
さすがの田中もこれは困ってしまった。
本当にサル種に、男に何も感じない。
ただし、えんの指が毛の中に潜りこみ、優しく地肌さすられると、これまでえんに与えられてきた快楽を身体が勝手に期待し、自然とよだれがわいてくる。
「おい……、……待て……待ってくれ」
えんの身体から逃げようとしたが、えんは田中の胸に強引に顔をうずめてくる。
地毛にあたたかな息があたる。
田中にとってまったく対象外で、一方的なものであっても、断り方によっては相手を傷つけてしまうかもしれぬ。そう思い躊躇している間に、どんどん指は進む。優しく背筋をはって下へ下へとおりてゆく。
このままではダメだと思いながらも、つい、マッサージの快楽が呼び起こされ、ごくりと喉がなってしまう。
「その……」
言いかけたその時、身体の一部に激痛がはしって叫んだ。
「痛、っ、いだいだいだいだいだいだいっ!!」
えんは、ひらりと田中から離れる。田中はその場で声にならない叫び声をあげながら飛び跳ねた。
あろうことか、急所であるしっぽを強く引っ張られたのだった。痛みに涙しながら、えんを見ると、えんは目をむいて爆笑していた。
「あはははははははは!!」
しっぽは耳や鼻同様、イヌ種にとってセンシティブな場所のひとつだ。神経が集まっているし、骨もある。おかしなことをされれば骨折の危険だってある。それを力いっぱい掴んで引っ張るとは。
「お前から説教されるいわれは、一ミクロンもねえ!」
えんは邪悪な顔で笑い、手の平を上に向け、むしりとった田中の毛に息を吹きかける。それらが空中を舞う中、部屋を飛び出した。
おのれ、ばばあに続いて孫までも……!
なんたる狼藉、なんたる乱暴! 田中が貸した服はぶかぶかで、それが仔犬っぽいと庇護欲をそそった。仏心をだしたのが間違いだ。その手に触れられたいという下心も。
優しくすればつけあがりやがって。
田中は悔しさと痛みで立ち直れない。天井高くまで舞い上がった田中の黒い毛が、ふわふわと落ちてくる。
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