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8 犬猿な食卓
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せまい。
田中は圧迫感にうなされて目が覚めた。そしてうなされた原因をすぐに知ることとなった。
寝る場所としてソファを提供してやっているのに、えんは田中のベッドにぎっちりとおさまっており、田中にしがみついている。しかも裸だった。
ばあさん不在の間、えんの面倒を引き受けたはいいが、生活態度から何から、田中は言いたことだらけだった。
まず服を着ろ、ということを毎日しつこく言っている。田中だって家だと上半身裸じゃん、などと屁理屈をかまされるが、イヌ種とサル種ではそもそも裸の意味が違う。
「くそっ、暑い!!」
えんは寝言にしては活舌よく言い、田中を思いっきり蹴り飛ばした。
田中はだっすーんとベッドから落ちうめき声をあげる。
えんは、自分が落としたくせに「何騒いでるんだよ」と理不尽きわまりない文句を寝ぼけまなこで言った。
「お前が落としたんだろ! それより服を着ろ服を!」
「暑いからやだ」
えんはそれだけ言って、二度寝にはいろうとする。
そりゃイヌ種の自分とくっつけば真冬以外は暑かろう。くっつかないでもらえれば、もっとはっきり言えば用意したソファで寝てもらえれば、なんの問題もないのだ。 文句を言いたいのは田中の方だ。
若いサル種の男の肌の匂いは、イヌ種のものより、なんだか甘い。ばあさん不在の今は美容院も休業だから、えんからはスプレーやシャンプーやヘアワックスの匂いはしないはずなのに、だ。
これを以前、舐めまわしたのかと思うと、できるだけ見ないように触れないように、距離をおきたいと思うのが田中の正直な気持ちなのだ。同じ過ちを犯さないともかぎらないから、酒だってえんが来てから一滴も飲んでいない。
それなのに、この男はそんな努力を土足で踏み越えて、家の中では裸でふらふらしているし、知らないうちに田中の寝床に忍びこんでくる。いったいどう自衛すればいい。
「っわ、もうこんな時間じゃねえかっ、お前、起きろ、学校!」
えんはベッドに丸まったまま言った。
「田中が昨日しつこかったのが悪い。勘弁して、って何回もお願いしたのに。すけべ」
「……人聞きの悪いことを言うな!」
えんは起き上がると、冷蔵庫を開けた。田中を振り返り何の前触れもなく、塊のベーコンを、まるで犬にでもやるようにひょいっと宙に投げた。田中はフリスビー犬のように反射的にばくりと空中でキャッチしてしまう。
「ははははははははっ、うまいうまい!」
爆笑するえんに、憮然となって、咀嚼する。
それからは時計の針との追いかけっこだ。超特急でパンをだし、残りのベーコンを高速で焼いて上にのせる。それを「ちゃんと食うんだぞ」と言ってえんに渡す。スーツに着替えて家を飛び出す。
朝ランニングなど優雅な自分だけの時間は、遠い過去だ。まったくドタバタしてる。
「待てって」
急いでいるところを呼びとめられて、田中は玄関で足踏みした。
「早く!」
田中の焦りにも動じず、えんは鼻歌を歌いながら、田中の毛並みを整える。
一刻を争っているにもかかわらず、的確な指の動きにうっとりする。息をとめ、目を細めてしまう。えんは田中の顔と耳、頭と首にかけてを、手の平の体温で溶かしたワックスで、ささっと仕上げる。
「よし、GO」
OKがでるやいなや、ドアの外に出た。
「食ったら着替えて学校行くんだぞ!」
閉まるドアの隙間から田中は叫ぶが、えんは面倒くさそうにしっしっと手で追い払う仕草をして返事もしない。
なんだあれ。俺は野良犬か。
しかしエレベーター内の鏡で自分の姿を確認すると、幾分か気持ちをもちなおしてしまう。ばあさんのアシスタントをしているえんは、田中ができないような、イケているスタイルに毎度仕上げてくれる。
考えようによっては、専属の美容師を雇っているようでお得かもなあと、いろんな角度をチェックし、田中は簡単に気をとりなおすのだった。
そもそも今朝の寝坊の原因は、田中が夜遅くまでえんに根掘り葉掘り聞いたからだ。テーマは、えんの交際歴と、ストーカーされ歴、揉め事の記録、つまり「痴情のもつれ」についてだ。
「今さらそんなこと聞いてどうすんの?」
「対策のためだ」
「なんの」
「健康で最低限度の生活だ。お前なあ、さんざん危ない目にあっているというのに、驚きの意識の低さだな」
「ふぁー」
「『ふぁー』じゃねえ」
非協力的なえんに、田中は切り札を使った。
「俺は、もうお前の保護者みたいなもんなんだから、把握する必要がある」
「はあ? 保護者?」
えんは眉をひそめる。
「うん、だってまあ、つまりなんていうか、そういう関係、だろ」
結婚、という言葉は、まだ正面をきって言えない。しかし田中がほんのちょっとほのめかすだけで、えんは大人しくなる。ちょろいものだ。
だいたい高校生なのに、ワインをぶっかけられたり、階段で突き飛ばされたり、ストーカーされるなど、「痴情のもつれ」の青春は常軌を逸している。
田中が高校生の頃は、どっちが早く走れるか競争だ!! と無駄にやたらいろんなところを走って、買い食いして、そんなで喜んでいた。平和なものだった。将来に対するプレッシャーはあったものの、飯食ってクソして寝ればけろっと忘れた。
えんが田中のアパートに来た日、とにかく直接会っての謝罪は無理でも、早急に伝えなければと、震える指でばあさんに電話した。
田中は、ばあさんにあらいざらいを白状し謝罪した。
あの夜酔っぱらって、えんに不埒な行為をしてしまったこと、にもかかわらずえんが田中を憎からず思っており、結婚でチャラにすると持ちかけられていること、すべてだ。そのうえで、謝罪の言葉を重ねた。
それを聞いたばあさんは、「死にそうな声して何ごとかと」と、田中の決死の覚悟での申し開きを一笑に付した。
あの妖怪みたいなばあさんである。どんなに謝っても、「殺される」一択だと思っていた。
田中の想像はこうだ。
大事な孫に手を出されたと知ったばあさんは、時空を超えていつの間にか田中の背中にへばりつき、磨き上げられ光りを放つ切れ味抜群のはさみを、田中にふりかざす。
覚悟から一転、キツネにつままれているような田中に、ばあさんは電話口でため息をついた。
『あの子はろくでもない男から、好かれる性分だ』
子どもの頃からそういう傾向はあった。えん自身、性指向が安定しないところが、余計事態をややこしくしていた。美しい見た目をもったことも災いした。いつか変な奴につかまり、人生を台無しにするのではと、ばあさんはずっと気をもんできた。
『田中さん』
「は、はいっ」
『あんたのしっぽを見ている限り、あんたはえんを憎からず思っている。どうかあの子と結婚してもらえたら、と私は思っています。もちろん今は口約束で十分』
ごっこに付き合ってやってほしい。本当はいい子なんです、とばあさんは電話口で涙ながらに訴える。
『しっかりした相手と早く身を固めた方があの子のためだと常々……』
罵倒されると覚悟していたのが、逆に懇願され、立場が逆転してしまったかたちになった。田中は、はっとなって、思いついたことを口にした。
「それってつまり、番犬、ってことですか」
『そんな~あらやだ~』
ばあさんの声が裏声になった。図星らしい。
田中のようにいかついイヌ種の男がえんの側にいれば、たいがいの奴はひるむ。いるだけで「猛犬注意」の看板になる。
『それじゃあヨロシクー!』
さっきまで涙声だったばあさんが、けろっとした声で言い、電話はきれた。
ふうっと息をはく。えんは田中が真剣に電話をしているかたわらで、ごろごろだらだらとスマホをいじっていた。
「だから服を着ろ!」
田中は、えんにTシャツをぼすっとかぶせた。
えんは若いから、今、たまたま田中に興味を持っただけで、そのうちまた別の好きな奴ができる。たぶんすぐだ。ならばそれまでの間、田中が面倒をみる。
田中は、自分がそうしなければいけない責任があると思った。
そうやって、ばあさんがいない間、えんを自宅に引き取り保護者(番犬)となった田中だったが、えんの「痴情のもつれ」問題は、一筋縄ではいきそうになかった。
昨夜の聴き取り調査でのえんの言い草はこうだ。
これまでの交際相手は、すべて向こうから寄ってきた。付き合いたいって言われたから、まあいいかって思った。
最初は楽しい。しかし相手がぐいぐいくるようになると、テンションが下がりだす。
面倒くさくなっているうちに関係はこじれ、気づけばなんだか相手が腹をたてている。
「へっえー~~」
田中は白目をむいた。想像以上のコミュニケーション不足、受け身っぷりに、何から言っていいのかわからない。
ワインをぶっかけられた相手についても、えんはよく知らない、の一点張りだった。えんの証言ではただ歩いているだけでそうなったということだが、あやしいものだ。
「俺が一緒にいたらよかった」
「守ってくれんの」
「そんなじゃない。話し合いだ。原因はお前にあるのかもしれん。でもなあ、無抵抗の人間にそんなことをする奴の方が百倍悪い。人間には口がついているだろう。言葉を持っているだろう。何かあるなら口で伝えるのが筋だ」
「……」
「で、お前はそいつをどんなひどい振り方で振ったんだ」
えんは田中にクッションを投げた。田中は、それをキャッチし投げ返した。
「あとな、ストーカーについてちゃんと説明しろ」
「どのストーカー?」
その返しに、田中はくらっとするが、根気よく続けた。
「俺が間違えられた奴だ。そいつに間違えられたおかげで、お前のばあさんに殺されかけた」
えんはにやにやした。
「客だった。あんたみたいに検索でたどりついて、カット後、気に入らないって言って、毎日やりなおしに来て、そのうちカットする毛がなくなって、今度は元に戻せって、もめて。……あはは、やればやるほど変なスタイルになったんだ……ひゃはは!」
「……お前、自分のストーカーの話なのに楽しそうに話すなあ」
「だってウケっし」
「で」
「ばあちゃんとうとうキレた。警察にも相談した。そしたら今度は俺へのつきまといが始まった。責任とって一緒に短いヘアスタイルになれって、はさみぶん回して」
なるほど、だから初めて会った時のばあさんのあの反応か、と田中は思った。相当危ない目にあったのだろう。
「そんな嫌な目にあって、よく俺のこと、……その、同じイヌ種の男なのに」
好きになったな、とは言えず、にごす。そんなことがあったというのに、ばあさんも常連も、けろっと田中を受け入れたのが不思議だ。
「別に。あんたはあんただし。最初は怖かったけど、ぜんぜん違うってすぐわかったし」
生意気な態度は反抗期で、睨んだのはイヌ種の男が怖かったからか。あとまあ、「にこにこしていて誤解を招き、好きになられたら困る」というやつか。
やっぱり話してみないとわからないものだ。などと思っていると、えんは、何の前触れもなく、猫みたいに、ひょいと田中の膝の上に乗ってきた。
びくっとして、何事? と目で訴えたが、きょとんとした目で見つめかえされた。何かを言う気持ちが萎える。
「水が飲みたいから、どいてくれるかな?」
頼んでも知らん顔で、どく気配はない。田中は短く溜息をつき、えんがへばりついたまま立ち上がる。それで驚いておりてくれるかと思うと、落とされまいと余計にがっちりしがみついてくる。まるで親ザルにくっついている子ザルのようだ。
しょうがないのでえんを抱えたまま冷蔵庫から水をだし、飲む。えんにも飲むか? と目で尋ねると、田中から降りて受け取った水をごくごく飲んで、また田中の身体によじ登る。田中がまたソファに異動し、座ると、気がすんだのか、すっと田中から離れて、テレビを見始めた。
田中はえんと一緒に暮らしてみて、えんがどうして「痴情のもつれ」なのか、わかった気がする。
ついこの間まで氷みたいな態度だったのが、一転、やたらまとわりついてくる。
ベッドに入ってくる。立っているだけでわけもなくぶつかってきたりする。子どものじゃれあいのようなものだろうが、されたほうはドギマギする。
長い髪としなやかな肢体もモテる要因だろう。サル種の人間を十把一絡げにみている田中でさえも、動物っぽい予測不能な動きをされているうちに、「魔性」と呼ばれる所以がわかってきた。無作法不愛想なのに、いったん気を許すとこんなにスキンシップしてくるなんて、ギャップがありすぎる。
言葉が足りない、行動が先に出る。
ぜんぶがぜんぶとは言わないが、えんのそういうところに「痴情がもつれる」原因があるように思えてならない。もっと考えていることを言葉にして伝える努力をしてほしいが、どうすればいいのだろうか。
一緒に暮らすとなると、さまざまな用事が発生するもので、週末、土日のどちらか一方は二人で出かけるようになった。といっても特別なことはなにもない。近所のスーパーに食料品の買いだしにいったり、クリーニングに行ったりするだけだ。
えんは出かけるとなると、妙にナーバスになった。田中はそれを出かけたくないからだと思っていたが、実は逆で、わかりにくくうきうきしているのだった。田中がそれに気づくまでだいぶ時間がかかった。
「休みはいつも忙しいから」
確かに美容院は皆が休んでいる時が稼ぎ時である。見た目はチャラいし、痴情はもつれがちだが、えんはばあさん仕事を手伝うことにかけては真面目だった。
ファーストフードをもりもり食べて、さらに甘いものは別腹とばかりにソフトクリームをほしがる。茶色い長い髪がきらきらと陽にあたり輝く。気づけば、みながえんをちら見していた。
えんは「田中、毛がすげえ」と田中の毛にふれてきた。知らぬ間に逆立っていた。無自覚に周囲を威嚇してしまっていたようだった。すっかり番犬だ。
「毛、耳、目、口、しっぽ」
歩きながらソフトクリームを舐めながらえんが、ぽつぽつと言った。
「田中はおもしろい」
田中は何を言いだすかと動揺して、自分の分のソフトクリームをばくっと一口でいった。
えんは、大きな口にあっという間に消えていったソフトクリームを丸い目で見つめていた。そしてフッフッ、と息継ぎみたいな笑い方で笑った。
えんは何の前触れもなく、田中の大きな口のはしにさっと唇をつけ離れた。驚く隙も与えないくらいの速さだった。
「なっ、おまっ」
「びびんなよ」
その挑発的な態度に、大人なめんなと怒るはずが、とどまった。叱れなかった。
田中は「だれがびびるか、バカ」となるべく平坦な口調で言う。するとえんは、「ぺっぺっ、口ん中に毛が入った」と大げさな仕草で舌をだしたので、田中はえんをこづいた。
「セックスはダメでもキスくらいいいだろ?」
えんは、それだけ言うと足早になる。
その後ろ姿は、しっぽがちょっと緊張している。えんにはしっぽなんてないのに、田中にはそれが見えた。
そんなえんとの暮らしは、当然次田にばれた。
「なんか最近、かっこよさが爆発してんすけど、なんなんすか」
社内の自販機の前で飲み物を選んでいたら、背後から急に声をかけられた。
えんは毎朝、欠かさずスタイリングしてくれる。シャンプー中も勝手に入ってきて、身体を洗ってくれる。とても真剣な表情なため、断れない。
田中を天国に連れてゆく例のマッサージもやってくれる。田中の身体がえんによって作り変えられるようだ。グルーミングされ放題なのだった。
胃袋をつかまれるという言葉があるが、田中の場合、「毛」をつかまれている。
今日も田中一人では絶対できない、一部固めて、一部ながしてという、ナチュラルなのにかっこいい頭にしてくれた。次田にバレないはずがない。
「田中さん」
「は、はいい」
「何か隠していますね」
田中は自分が未成年者に淫行をはたらき、その始末をつけるために婚約(仮)することになった、なんて言えない。
えんの顔が浮かぶ。
えんのことを考えると、自分でも風圧を感じるくらいしっぽがブンブンぶんまわっている時がある。くそはずかしい。まるで、しっぽに人格を乗っ取られていくようだった。
田中は自分のしっぽが無意識化で返事しないよう、糸くずをとるようなフリして手に持って、怪しさ満点で次田から逃げだす。
田中は圧迫感にうなされて目が覚めた。そしてうなされた原因をすぐに知ることとなった。
寝る場所としてソファを提供してやっているのに、えんは田中のベッドにぎっちりとおさまっており、田中にしがみついている。しかも裸だった。
ばあさん不在の間、えんの面倒を引き受けたはいいが、生活態度から何から、田中は言いたことだらけだった。
まず服を着ろ、ということを毎日しつこく言っている。田中だって家だと上半身裸じゃん、などと屁理屈をかまされるが、イヌ種とサル種ではそもそも裸の意味が違う。
「くそっ、暑い!!」
えんは寝言にしては活舌よく言い、田中を思いっきり蹴り飛ばした。
田中はだっすーんとベッドから落ちうめき声をあげる。
えんは、自分が落としたくせに「何騒いでるんだよ」と理不尽きわまりない文句を寝ぼけまなこで言った。
「お前が落としたんだろ! それより服を着ろ服を!」
「暑いからやだ」
えんはそれだけ言って、二度寝にはいろうとする。
そりゃイヌ種の自分とくっつけば真冬以外は暑かろう。くっつかないでもらえれば、もっとはっきり言えば用意したソファで寝てもらえれば、なんの問題もないのだ。 文句を言いたいのは田中の方だ。
若いサル種の男の肌の匂いは、イヌ種のものより、なんだか甘い。ばあさん不在の今は美容院も休業だから、えんからはスプレーやシャンプーやヘアワックスの匂いはしないはずなのに、だ。
これを以前、舐めまわしたのかと思うと、できるだけ見ないように触れないように、距離をおきたいと思うのが田中の正直な気持ちなのだ。同じ過ちを犯さないともかぎらないから、酒だってえんが来てから一滴も飲んでいない。
それなのに、この男はそんな努力を土足で踏み越えて、家の中では裸でふらふらしているし、知らないうちに田中の寝床に忍びこんでくる。いったいどう自衛すればいい。
「っわ、もうこんな時間じゃねえかっ、お前、起きろ、学校!」
えんはベッドに丸まったまま言った。
「田中が昨日しつこかったのが悪い。勘弁して、って何回もお願いしたのに。すけべ」
「……人聞きの悪いことを言うな!」
えんは起き上がると、冷蔵庫を開けた。田中を振り返り何の前触れもなく、塊のベーコンを、まるで犬にでもやるようにひょいっと宙に投げた。田中はフリスビー犬のように反射的にばくりと空中でキャッチしてしまう。
「ははははははははっ、うまいうまい!」
爆笑するえんに、憮然となって、咀嚼する。
それからは時計の針との追いかけっこだ。超特急でパンをだし、残りのベーコンを高速で焼いて上にのせる。それを「ちゃんと食うんだぞ」と言ってえんに渡す。スーツに着替えて家を飛び出す。
朝ランニングなど優雅な自分だけの時間は、遠い過去だ。まったくドタバタしてる。
「待てって」
急いでいるところを呼びとめられて、田中は玄関で足踏みした。
「早く!」
田中の焦りにも動じず、えんは鼻歌を歌いながら、田中の毛並みを整える。
一刻を争っているにもかかわらず、的確な指の動きにうっとりする。息をとめ、目を細めてしまう。えんは田中の顔と耳、頭と首にかけてを、手の平の体温で溶かしたワックスで、ささっと仕上げる。
「よし、GO」
OKがでるやいなや、ドアの外に出た。
「食ったら着替えて学校行くんだぞ!」
閉まるドアの隙間から田中は叫ぶが、えんは面倒くさそうにしっしっと手で追い払う仕草をして返事もしない。
なんだあれ。俺は野良犬か。
しかしエレベーター内の鏡で自分の姿を確認すると、幾分か気持ちをもちなおしてしまう。ばあさんのアシスタントをしているえんは、田中ができないような、イケているスタイルに毎度仕上げてくれる。
考えようによっては、専属の美容師を雇っているようでお得かもなあと、いろんな角度をチェックし、田中は簡単に気をとりなおすのだった。
そもそも今朝の寝坊の原因は、田中が夜遅くまでえんに根掘り葉掘り聞いたからだ。テーマは、えんの交際歴と、ストーカーされ歴、揉め事の記録、つまり「痴情のもつれ」についてだ。
「今さらそんなこと聞いてどうすんの?」
「対策のためだ」
「なんの」
「健康で最低限度の生活だ。お前なあ、さんざん危ない目にあっているというのに、驚きの意識の低さだな」
「ふぁー」
「『ふぁー』じゃねえ」
非協力的なえんに、田中は切り札を使った。
「俺は、もうお前の保護者みたいなもんなんだから、把握する必要がある」
「はあ? 保護者?」
えんは眉をひそめる。
「うん、だってまあ、つまりなんていうか、そういう関係、だろ」
結婚、という言葉は、まだ正面をきって言えない。しかし田中がほんのちょっとほのめかすだけで、えんは大人しくなる。ちょろいものだ。
だいたい高校生なのに、ワインをぶっかけられたり、階段で突き飛ばされたり、ストーカーされるなど、「痴情のもつれ」の青春は常軌を逸している。
田中が高校生の頃は、どっちが早く走れるか競争だ!! と無駄にやたらいろんなところを走って、買い食いして、そんなで喜んでいた。平和なものだった。将来に対するプレッシャーはあったものの、飯食ってクソして寝ればけろっと忘れた。
えんが田中のアパートに来た日、とにかく直接会っての謝罪は無理でも、早急に伝えなければと、震える指でばあさんに電話した。
田中は、ばあさんにあらいざらいを白状し謝罪した。
あの夜酔っぱらって、えんに不埒な行為をしてしまったこと、にもかかわらずえんが田中を憎からず思っており、結婚でチャラにすると持ちかけられていること、すべてだ。そのうえで、謝罪の言葉を重ねた。
それを聞いたばあさんは、「死にそうな声して何ごとかと」と、田中の決死の覚悟での申し開きを一笑に付した。
あの妖怪みたいなばあさんである。どんなに謝っても、「殺される」一択だと思っていた。
田中の想像はこうだ。
大事な孫に手を出されたと知ったばあさんは、時空を超えていつの間にか田中の背中にへばりつき、磨き上げられ光りを放つ切れ味抜群のはさみを、田中にふりかざす。
覚悟から一転、キツネにつままれているような田中に、ばあさんは電話口でため息をついた。
『あの子はろくでもない男から、好かれる性分だ』
子どもの頃からそういう傾向はあった。えん自身、性指向が安定しないところが、余計事態をややこしくしていた。美しい見た目をもったことも災いした。いつか変な奴につかまり、人生を台無しにするのではと、ばあさんはずっと気をもんできた。
『田中さん』
「は、はいっ」
『あんたのしっぽを見ている限り、あんたはえんを憎からず思っている。どうかあの子と結婚してもらえたら、と私は思っています。もちろん今は口約束で十分』
ごっこに付き合ってやってほしい。本当はいい子なんです、とばあさんは電話口で涙ながらに訴える。
『しっかりした相手と早く身を固めた方があの子のためだと常々……』
罵倒されると覚悟していたのが、逆に懇願され、立場が逆転してしまったかたちになった。田中は、はっとなって、思いついたことを口にした。
「それってつまり、番犬、ってことですか」
『そんな~あらやだ~』
ばあさんの声が裏声になった。図星らしい。
田中のようにいかついイヌ種の男がえんの側にいれば、たいがいの奴はひるむ。いるだけで「猛犬注意」の看板になる。
『それじゃあヨロシクー!』
さっきまで涙声だったばあさんが、けろっとした声で言い、電話はきれた。
ふうっと息をはく。えんは田中が真剣に電話をしているかたわらで、ごろごろだらだらとスマホをいじっていた。
「だから服を着ろ!」
田中は、えんにTシャツをぼすっとかぶせた。
えんは若いから、今、たまたま田中に興味を持っただけで、そのうちまた別の好きな奴ができる。たぶんすぐだ。ならばそれまでの間、田中が面倒をみる。
田中は、自分がそうしなければいけない責任があると思った。
そうやって、ばあさんがいない間、えんを自宅に引き取り保護者(番犬)となった田中だったが、えんの「痴情のもつれ」問題は、一筋縄ではいきそうになかった。
昨夜の聴き取り調査でのえんの言い草はこうだ。
これまでの交際相手は、すべて向こうから寄ってきた。付き合いたいって言われたから、まあいいかって思った。
最初は楽しい。しかし相手がぐいぐいくるようになると、テンションが下がりだす。
面倒くさくなっているうちに関係はこじれ、気づけばなんだか相手が腹をたてている。
「へっえー~~」
田中は白目をむいた。想像以上のコミュニケーション不足、受け身っぷりに、何から言っていいのかわからない。
ワインをぶっかけられた相手についても、えんはよく知らない、の一点張りだった。えんの証言ではただ歩いているだけでそうなったということだが、あやしいものだ。
「俺が一緒にいたらよかった」
「守ってくれんの」
「そんなじゃない。話し合いだ。原因はお前にあるのかもしれん。でもなあ、無抵抗の人間にそんなことをする奴の方が百倍悪い。人間には口がついているだろう。言葉を持っているだろう。何かあるなら口で伝えるのが筋だ」
「……」
「で、お前はそいつをどんなひどい振り方で振ったんだ」
えんは田中にクッションを投げた。田中は、それをキャッチし投げ返した。
「あとな、ストーカーについてちゃんと説明しろ」
「どのストーカー?」
その返しに、田中はくらっとするが、根気よく続けた。
「俺が間違えられた奴だ。そいつに間違えられたおかげで、お前のばあさんに殺されかけた」
えんはにやにやした。
「客だった。あんたみたいに検索でたどりついて、カット後、気に入らないって言って、毎日やりなおしに来て、そのうちカットする毛がなくなって、今度は元に戻せって、もめて。……あはは、やればやるほど変なスタイルになったんだ……ひゃはは!」
「……お前、自分のストーカーの話なのに楽しそうに話すなあ」
「だってウケっし」
「で」
「ばあちゃんとうとうキレた。警察にも相談した。そしたら今度は俺へのつきまといが始まった。責任とって一緒に短いヘアスタイルになれって、はさみぶん回して」
なるほど、だから初めて会った時のばあさんのあの反応か、と田中は思った。相当危ない目にあったのだろう。
「そんな嫌な目にあって、よく俺のこと、……その、同じイヌ種の男なのに」
好きになったな、とは言えず、にごす。そんなことがあったというのに、ばあさんも常連も、けろっと田中を受け入れたのが不思議だ。
「別に。あんたはあんただし。最初は怖かったけど、ぜんぜん違うってすぐわかったし」
生意気な態度は反抗期で、睨んだのはイヌ種の男が怖かったからか。あとまあ、「にこにこしていて誤解を招き、好きになられたら困る」というやつか。
やっぱり話してみないとわからないものだ。などと思っていると、えんは、何の前触れもなく、猫みたいに、ひょいと田中の膝の上に乗ってきた。
びくっとして、何事? と目で訴えたが、きょとんとした目で見つめかえされた。何かを言う気持ちが萎える。
「水が飲みたいから、どいてくれるかな?」
頼んでも知らん顔で、どく気配はない。田中は短く溜息をつき、えんがへばりついたまま立ち上がる。それで驚いておりてくれるかと思うと、落とされまいと余計にがっちりしがみついてくる。まるで親ザルにくっついている子ザルのようだ。
しょうがないのでえんを抱えたまま冷蔵庫から水をだし、飲む。えんにも飲むか? と目で尋ねると、田中から降りて受け取った水をごくごく飲んで、また田中の身体によじ登る。田中がまたソファに異動し、座ると、気がすんだのか、すっと田中から離れて、テレビを見始めた。
田中はえんと一緒に暮らしてみて、えんがどうして「痴情のもつれ」なのか、わかった気がする。
ついこの間まで氷みたいな態度だったのが、一転、やたらまとわりついてくる。
ベッドに入ってくる。立っているだけでわけもなくぶつかってきたりする。子どものじゃれあいのようなものだろうが、されたほうはドギマギする。
長い髪としなやかな肢体もモテる要因だろう。サル種の人間を十把一絡げにみている田中でさえも、動物っぽい予測不能な動きをされているうちに、「魔性」と呼ばれる所以がわかってきた。無作法不愛想なのに、いったん気を許すとこんなにスキンシップしてくるなんて、ギャップがありすぎる。
言葉が足りない、行動が先に出る。
ぜんぶがぜんぶとは言わないが、えんのそういうところに「痴情がもつれる」原因があるように思えてならない。もっと考えていることを言葉にして伝える努力をしてほしいが、どうすればいいのだろうか。
一緒に暮らすとなると、さまざまな用事が発生するもので、週末、土日のどちらか一方は二人で出かけるようになった。といっても特別なことはなにもない。近所のスーパーに食料品の買いだしにいったり、クリーニングに行ったりするだけだ。
えんは出かけるとなると、妙にナーバスになった。田中はそれを出かけたくないからだと思っていたが、実は逆で、わかりにくくうきうきしているのだった。田中がそれに気づくまでだいぶ時間がかかった。
「休みはいつも忙しいから」
確かに美容院は皆が休んでいる時が稼ぎ時である。見た目はチャラいし、痴情はもつれがちだが、えんはばあさん仕事を手伝うことにかけては真面目だった。
ファーストフードをもりもり食べて、さらに甘いものは別腹とばかりにソフトクリームをほしがる。茶色い長い髪がきらきらと陽にあたり輝く。気づけば、みながえんをちら見していた。
えんは「田中、毛がすげえ」と田中の毛にふれてきた。知らぬ間に逆立っていた。無自覚に周囲を威嚇してしまっていたようだった。すっかり番犬だ。
「毛、耳、目、口、しっぽ」
歩きながらソフトクリームを舐めながらえんが、ぽつぽつと言った。
「田中はおもしろい」
田中は何を言いだすかと動揺して、自分の分のソフトクリームをばくっと一口でいった。
えんは、大きな口にあっという間に消えていったソフトクリームを丸い目で見つめていた。そしてフッフッ、と息継ぎみたいな笑い方で笑った。
えんは何の前触れもなく、田中の大きな口のはしにさっと唇をつけ離れた。驚く隙も与えないくらいの速さだった。
「なっ、おまっ」
「びびんなよ」
その挑発的な態度に、大人なめんなと怒るはずが、とどまった。叱れなかった。
田中は「だれがびびるか、バカ」となるべく平坦な口調で言う。するとえんは、「ぺっぺっ、口ん中に毛が入った」と大げさな仕草で舌をだしたので、田中はえんをこづいた。
「セックスはダメでもキスくらいいいだろ?」
えんは、それだけ言うと足早になる。
その後ろ姿は、しっぽがちょっと緊張している。えんにはしっぽなんてないのに、田中にはそれが見えた。
そんなえんとの暮らしは、当然次田にばれた。
「なんか最近、かっこよさが爆発してんすけど、なんなんすか」
社内の自販機の前で飲み物を選んでいたら、背後から急に声をかけられた。
えんは毎朝、欠かさずスタイリングしてくれる。シャンプー中も勝手に入ってきて、身体を洗ってくれる。とても真剣な表情なため、断れない。
田中を天国に連れてゆく例のマッサージもやってくれる。田中の身体がえんによって作り変えられるようだ。グルーミングされ放題なのだった。
胃袋をつかまれるという言葉があるが、田中の場合、「毛」をつかまれている。
今日も田中一人では絶対できない、一部固めて、一部ながしてという、ナチュラルなのにかっこいい頭にしてくれた。次田にバレないはずがない。
「田中さん」
「は、はいい」
「何か隠していますね」
田中は自分が未成年者に淫行をはたらき、その始末をつけるために婚約(仮)することになった、なんて言えない。
えんの顔が浮かぶ。
えんのことを考えると、自分でも風圧を感じるくらいしっぽがブンブンぶんまわっている時がある。くそはずかしい。まるで、しっぽに人格を乗っ取られていくようだった。
田中は自分のしっぽが無意識化で返事しないよう、糸くずをとるようなフリして手に持って、怪しさ満点で次田から逃げだす。
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